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人は言う。
20代で人生は決まる。
人生の90%は20代で決まる。
だから、自分を貫いて熱狂できるものを見つけろと。
ようやく巣立つヒヨッコのような20代の時に、「やりたいこと」をみつけられ、心から情熱を注ぎ猪突猛進し、「夢を叶えられる」人は、この世にどれくらいいるのだろうか?
某転職サイトなどで、「仕事で何がしたいかわからない20代が向いてる仕事を見つける方法」の毎年最新版がでるあたり、夢を叶えるための第一関門「自分がしたいことを見つける」のは、私がハタチの時と同様、約20年たっても難しいようだ。
しかし幸いにも私は、自分を貫いて熱狂できるものに20才の年に出会えた。出会えた幸運は感謝しているが、夢は叶えれば終わりではない。叶えた状態を続けるのは至難の技だ。結局私は、叶えた夢から自ら脱落したけど諦め切れない「夢の亡者」となり、20代後半から42才になるまで、様々な苦しみを味わった。不惑の四十とはよく言ったもので、ぶっちゃけ嘘だと最近まで思っていたが、今はそうでもないと思っている。なぜなら「夢の亡者」からは卒業し、四十過ぎにして「新たな夢」をみつけられることができ、それを叶えるための一歩一歩が踏み出せているからだ。

これは、「夢追い人」として20代を駆け抜けたが自ら脱落することを選んだがゆえに、30代からごく最近まで「夢の亡者」として辛酸をなめ続けたが、また「夢追い人」として生きていこうとしてる愚直なアラフォー女の物語である。

今、夢がない
夢へ踏み出す勇気がない
夢を諦めようとしてるすべての人が
少しでも前向きな気持ちになれ
夢がないままでも
夢を追うにしても
夢を諦めるにしても
自分の未来を信じて
今の身動きできない現状から
踏み出せる一歩となれば
とても嬉しく思う。

私の「夢」「心から熱狂できたもの」、タイトルからバレバレであるが、それは「学芸員になる」ことだった。学芸員とは、博物館美術館の展覧会や関連イベントを企画し運営、所蔵品の研究・保存管理など、他にも細かい雑務盛りだくさんな職業。「え?学芸員ってなにする人?」「あ、展示室にいる、作品に近づいたら怒られる怖いひと?」とよく言われるが、半分間違いで半分正しい。国公立の博物館美術館に勤める学芸員は120%監視や受付業務はしないだろうが、万年人員不足の私立弱小美術館はそうはいかない。展示室の監視や、閉館後の展示ガラスの拭き掃除、受付にいてチケットのもぎりも、学芸員の業務のひとつだ。
20代の折り返し地点、25才の時。そんな雑務までもが学芸員の仕事のひとつだとはつゆ知らなかった私は、ちょうど大学院の修士過程2年目で、修士論文の作成と、学芸員の採用試験に追いこまれていた。

もう、さんざん親のスネかじってきたから、博士課程なんてとても行かれない!なんとしてでも!絶対!学芸員として就職したい!!
でも、ぜんっぜん採用とれへん。。。というか、採用自体ない!!!まじで崖っぷち!( ̄□ ̄;)!ヤバい。。!!!!!!なれる気がしない、けど!でも!!

学芸員になりたい!!!

という問答を日々繰り返していた。しかし現実は厳しい。ぜんっぜん、まーーったく採用はとれなかった。それもそのはず。学芸員の採用試験は、国公立の博物館美術館の採用なら公務員試験と同様だし、それにプラスして専門分野の基礎知識や応用を問う試験問題に面接。さらに、館の収蔵品と自分の研究テーマが合致しないと館のメリットにならないから、公務員試験や専門試験をパスしても面接で落とされる。つまり、学芸員になるには実力と運の力をフル稼働させなければ、なれない超狭き門なのだ。それなのに私ときたら、就活するまで学芸員に公務員試験が必要だということも知らなかった。さらに研究テーマが日本美術史しかも工芸品(小袖という江戸時代の着物)で超狭き研究テーマだったがゆえに、自分の研究テーマと合致していて、採用募集してる館の数が壊滅的になかったのだ。地獄。

そもそも私は、初めて大きな人生の選択を強いられる高校生の時から、学芸員になりたいわけではなかった。実は「ファッションデザイナー」になりたいと思っていたので、服飾専門の短大に進んだ。しかし自分には合わないと諦めていたときに、たまたま入った本屋で手に取った資格本がきっかけで「学芸員になりたい」と突然ひらめいた。なので子供の時から美術館に行ってて~とか、日本の大多数の美術館が所蔵する西洋美術が大好きで~とか、全くなかった。「だだ学芸員になりたい」「江戸時代の着物に興味がある」という思いだけしかなかった。それゆえに、学芸員になるためには「公務員試験が必要」「西洋美術や近現代美術を選考した方が採用がたくさんある」という知識が、就活を始めるまでゼロだったため、採用試験に苦戦も苦戦、超苦戦をし続けるのだった。

周りはどんどん将来の道を決めていくなか、半ば諦めモードになり、学芸員以外の職種も探した。パチンコや呉服屋の会社説明会にも行ったが、「学芸員になりたい」熱は下がらず。焦り苛立ち、うだつの上がらない日々を送っていた。そんなある日、大学の就職課のお姉さんから

「あなたお茶習ってたんだから、ここどう?」

と、茶道具を所蔵している某私立美術館を勧められた。それが私の転機になった。最初に勤務した美術館だったのだ。
試験内容は、書類選考と、確か同日に筆記と面接。面接はしどろもどろだったという記憶以外ほとんど残ってない。試験終了後「あー落ちたわ。。もうここに来ることもないやろ」と美術館を後にしたけれど、なぜか採用をいただけた。ビギナーズラックというやつだったにちがいない。受かってから上司に会ったとき「あなた以外に優秀な人いたんだけどね~」と言われたのは、一生忘れません。じゃあなぜ優秀な方をとらなかったんですか?と少々ムッとしたが、「だから、もっと頑張れ」という愛のムチであったと、今は思うことにしている。

年開けて3月末、修士論文も無事に提出できて、大学院も修了できた!はれて4月から念願の学芸員だー!っていう時

母が末期ガンにおかされることが判明した。

本当なら希望に胸おどらせ学芸員ライフがスタートするはずだったのに、心は常に不安と恐怖と悲しみで満ち溢れながら週6で働き、週1の休みは実家に帰省して母の様子を見に帰る日々。学生の時に見た地獄なんて、地獄じゃなかった。さらに深い地獄が待っていた。

プライベートで心に大打撃をうけても、仕事は容赦なくふりそそぐ。新社会人&新米学芸員のできる仕事なんて、たかがしれてる。まずは受付で来館者対応、館内清掃と監視が主な仕事だった。その合間に所蔵品について勉強。職場の空気になれてきたら、展覧会の解説文の執筆なども何点か担当した。あとは「友の会」の事務仕事。「友の会」とは、形態は各館様々あれど、美術館のファンクラブのような組織だ。私が勤めた美術館では、来館者が年会費を払えば、展覧会は何度でも入館可能、図録の割引や、イベント参加などの優遇が得られる。任された事務仕事とは、主に会費の管理だった。つまり学芸員として私の最初の仕事は、もっぱら接客&事務系で、人と関わるのが少々苦手、算数や数学が大嫌いだった私にとって、人と上手いこと会話しながら、会費や入館料などのお金の計算をしなければならないのが、苦痛で苦痛で!間違わないように、間違わないようにと、神経をすり減らした。さらに私が入った年はちょうど開館20周年で、通常とは違う特別イベントもあったので館としてもイレギュラーなことが多く忙しかった。初めて社会で働くこともあり、遅刻して怒られたり(これは完全自分のせい)、仕事でもたくさんミスして怒られた。(具体的には思い出せないが)「理不尽だ!」と思っても口に出せず、叱られることを甘んじて受けたこともあった。実家に帰ったとき、病気の母に「もうやめたい…」と弱音をはいたことも多々ある。自分の体が病に犯されてるのにもかかわらず、話を聞いてくれた母には感謝してもしきれない。けれど、どこかに病気の母に心配をかけてしまってる罪悪感が常にあって苦しかった。好きで就いた仕事なのに、なんでこんなに苦しんだろう。母が病気にならなければ…と母をどこかで責めてしまってる自分にも嫌気がさして、さらに罪悪感が募り本当に苦しかった。こうしてプライベートでも仕事でも体力と神経を、徐々に、だか確実にすり減らしていった。

年開けてまた3月が巡ってきた。もう限界。。こんな生活続けられない!と思っていた矢先のこと。母のガン発覚からちょうど1年たったある日。私はいつものように美術館の受付に座っていた。その時。

ブーブーブー、携帯のバイブが鳴った。

電話は父からだった。危篤だ、明日までもたないかもしれない、病院にこれるか、と。私は上司に事情を話して、急いで美術館を後にし、全速力で駅に走った。恐怖と焦りまみれの心を何度も落ち着かせながら、なんとか電車に飛び乗った。
電車のシートに座ったとたん、押さえてた悲しみ、焦り、後悔、恐怖、もう言葉では言いあらわせられないドロドロした感情が体内をかけずりまわる。そんな時、ふと目にしたつり革広告
。ウェディングドレス姿の女性が笑顔を振り撒いていた。

「ごめん、お母さん。私の花嫁姿みたいって言ってたのに。みせてあげられんのやな」

そう心のなかで呟いた瞬間、涙があふれて、私は、病院の最寄り駅に着くまで顔をあげられなかった。

永遠かと思うような長い長い時間を車中ですごし、やっと最寄り駅についてタクシーを捕まえて病院へ。私の慌てた態度や病院名から、タクシーの運転手さんが何かを察して、してくれた粋な演出だったのか未だに謎だが、病院につく手前で「コブクロの蕾」がタクシーのスピーカーから流れてきた。サビの部分を聞いた瞬間、私の涙腺は崩壊して、大人になってから初めて人前で大声で泣いた。コブクロさんには申し訳ないけど、以来「蕾」は最近まで聴けなかったです。今となればいい思い出。あの時のタクシーの運転手さん、本当にありがとう。

母の死ぬ前日と当日のことは、十五年以上も経ってるし、慌ただしすぎて記憶が曖昧になってるのだが(時が心を癒すというのは本当ですね、良くも悪くも)。病室のドアを勢いよくガラッとあけてベットにかけよると、母は「みよちゃん…」と言って弱々しく微笑んだ。そこからは家族皆ほとんど寝ずに付き添った。
苦しまずに逝けるように、大量の痛み止が母に投与されていた。最期の意識のある状態の時、母が私に必死に何かを伝えようとした。

「ちゃん…とっ!●▲■しぃよっ!」

わたしが、「え?わからへん!」というと、母は「もぅ!」と言って、もう一度言おうとしたけど、結局、母がなんと言い残したかったのかはわからずじまい!!ドラマであれば最高の見せ場。母の最期の言葉を聞いた娘は、涙を流しその言葉を胸に生きていく…なんてことは全くなくて、現実はこんなもんと知った。現実はドラマのように美しく感動的にいかないものだ。
でも、今は母の言葉をちゃんと聞き取れなくてよかった、と思ってる。なぜなら、私の人生はわたしのもので、母の言葉に左右されるものではないからだ。もしも、母の言葉を聞き取れていて、当時の私のままであったとしたら、私は今ものすごく苦しい人生を送っていただろう。たとえば、母が言いたかったことが「ちゃんと結婚しぃよ!」だとしたら(叔母曰く、母は私のことを30才までにお嫁にやりたかったそうだ)。母の遺言通りにできない、まだ結婚できてない私を、私は毎日責め続けていただろう。そして本当はしたくもない婚活に時間を奪われて、仕事のストレスと合間って、「私の人生苦しいばっかり!」と未だに嘆く日々を送っていただろう。あ~~!本当に母の最期の言葉を聞き取れなくて良かった!!!

余談がすぎた。さて、母の最期の言葉を聞き取れなかった私は、自分を責めつつ母の手をずっと握っていた。あの夜ほど長い夜を、私は未だに知らない。本当に長く長く苦しい夜だった。けれど、明けてほしいような明けないでほしいような不思議な気分で、私はいた。周りの大人たちは、もう母が死ぬ予定で動いていた。けれど私は、まだ諦めきれずにいた。もしかしたら、母は良くなるのかもしれない。周りの奴ら皆が「もう死ぬ」と思っていても、私だけは最期の最期まで母の息がなくなるまで、「母は必ず元気になる!」と思っていよう、と。かすかな、かすかすぎる希望を抱いていた。けれど、心のどこかで周りの大人と同じく「母はもう死ぬ」とも思っていた。だから、夜が明けてほしくもあり、明けてほしくなかったのだろう。母は、そんな私の限界を知っていた気がする。もう確かめようもないけど。

翌朝、母は天国へ旅立った。

お通夜お葬式で、仕事は一週間ほどお休みをいただいた。とりあえず全てが落ち着き、通常の日常が戻ってきた。…とはいかず、数年は母を失った悲しみが私の心にベッタリとはりついていた。今も悲しみはあるが、当時ほどではない。時が癒してくれることの有難みを感じる。母を失った悲しみを吹き飛ばすように、私は仕事に没頭した。しかし、立て続けに上司たちが退職していき、年々責任感が重くのしかかっていた。一時期、正規学芸員は私1人だけの状態になり、本当にキツかった。けれど、この経験があったからこそ「しんどいな」と思う仕事がきても、「あの時に比べたらまし」と思えて前に進める自分になれた。それに自分の専門分野で展覧会の企画も3年目にして経験できたことは、本当にラッキーだったと思う(他館の学芸員がどれくらいで主担当になるのか知らないけど多分早い方ではないだろうか)。
これから学芸員として、さらに研鑽をつみ成果をあげていく、まさに「これから」というとき、頭とは裏腹に私の心は限界を迎えてしまったのだ。

いつもの満員電車。いつもと違うのは、めちゃくちゃ吐きそうな気分であること。私は立ってられなくなり、その場にしゃがんでしまった。やっと乗り換え駅に到着。雪崩れ込むように近くのベンチに座った。駅員さんが声をかけてくれて、医務室で休ませてもらった。職場に電話をかけて事情をはなす。その時思った「あー…もうダメだ」

しかし、私の頭はそれを許さなかった。「せっかくなれた学芸員、本当にやめていいの?!」でも、心は限界のギリギリアウトを行ったり来たり。もうコップに一滴でも落ちようものなら決壊は確実というレベルなのは、自覚していた。それからしばらく頭と心の葛藤が続くが、私は決断した。

美術館をやめる、と。

「なんで今?!」皆から、そう言われた。ごもっともだと思う。もしかしたら、母が死んでなかったら続けてたかもしれないって思ったから。いろんな人に相談して、悩んで、悩んで。そういえば「好きな仕事だったらやめない方がいいよ」と、とあるバーの店長に言われたことでめちゃくちゃ悩みまくった日もあった。何日も何日も悩んだ。私だって苦渋の決断だったのだ。でも結局は、自分の心を偽り続けることはできなかったし、「もしもの世界」のことを思っても仕方ない。母の死は、現実なのだから。母の死をふまえて「自分はどうしたいか?」を当時の私は一生懸命考えて決断した。あの時の私の決断を、これまでの私は長年にわたり責め続けることになるのだけど、今は「よくやった!よくぞがんばった!!お疲れさま!!!」と労いたい。
実は、美術館は辞めるけど、学芸員として働くことを諦めたわけではなかった。一旦実家に戻って別の仕事をしながら、学芸員の転職活動をしようと思っていた。激動の20代最後の年、美術館を辞めるという選択は、望んで就いた職から自ら脱落するが完全に諦めきれず、もがき苦しむ30代の幕開けを意味するのだった。

半年の無職期間を経て、地元の外郭団体でイベント事務の仕事につけた。もちろん週5のフルタイムの隙間をぬって、転職活動。これもなかなかキツかった。学芸員の採用試験は、日本全国対象なので、県外の館を受けに行くことも当然ある。遠方過ぎて泊まりがけで行ったところも。つまり、交通費や宿泊費などの出費がまぁまぁある(ここは普通の就活とかわらないのかもしれない)。体力も消耗するが、一番はメンタルがキツかった。「なんで私は前の美術館を辞めてしまったんだろう」という大きな後悔が襲ってきた。「お母さんが死ななければ、私は楽できたかも」なんて、タラレバ妄想にとりつかれ母のせいにする始末。心には、母を失った悲しみプラス、後悔、未練がベッタリはりつき、自傷行為を繰り返しながら、生活のために働きつつ転職活動を約6年続けた。今考えると、6年も続けられたのは私にとって「居心地の良い職場」だったに違いない。結局は人生で一番長く続いた職場になってるのだから。当時はムカつくことも嫌なこともあったけど、総じて上司にも先輩にも恵まれた。ボランティア団体の事務局の仕事もしていたので、そこに集うご年配の方にも可愛がってもらえた。母がいないせいか、同じような年代の方と触れあえることで、母を失った悲しみが癒されていたのかもしれない。本当に人生において、出会いは宝だ。

6年間、全く採用ゼロ!ということはなく(まぁほぼゼロに近い採用率だったが)、入社して数年後に正規学芸員として採用をもらえた。しかし!職場に好きな人がいるからという理由で、採用を蹴ったのだ!!!(当然ながら、正規の断った理由は違います。もう時効だから許されるはず!)。もう、自分で自分が今だに信じられない!!恋は盲目とはよくいったものだ。またこの選択をすることで、さらに自分の首を絞めることになるのだけど。ほんとに「自分イジメ」が趣味の領域すぎる…(笑)。

もう6年も同じ職場にいたら、もう居心地よくなり動くのがしんどい、ともなりそうだけど、やっぱり私の「学芸員になりたい」熱は消えなかった。30代ももう後半にさしかかり、「結婚しないの?」ともう言われなくなってきた頃、正規学芸員として美術館で働ける念願のチャンスが巡ってきた。初めて働いた美術館と同じく茶道具を扱う美術館だった。

ようやく学芸員として安定して働ける!と思ったのもつかの間!!神はまたもや試練を私に与えた。入社してわかったことだが、美術館の運営方針と私が思い描いてた仕事内容が合致しなかったのだ。端的に言うと、展覧会の企画ができない。いわゆる「学芸員補助」のような立場でしか働けないことがわかった。加えて、母の二の舞のように、今度は祖母が亡くなった。
私はまた家族を犠牲にして好きな仕事に就いたにも関わらず、仕事を楽しんでいない、むしろ苦しんで愚痴ばかり言いながら働いている。そんな自分を責め続けた。でも祖母の死でハッキリ分かった。

学芸員をやめよう。

決めてからは早かった。結局その美術館にいたのは、たったの半年!!もう今度は学芸員にこだわらず、広い視点で職を探そう、そして地元に帰ろう、と決心した。退職してから約半年後、地元の公共施設の施設運営をしている企業に就職した。なぜ今回はアッサリわだかまりもなく次にいけたかというと、「カフェを開きたい」という別の夢が見つかったからだ。きっかけは、2個目の転職先である外郭団体で働いているとき。転職も上手く行かず、プライベートでも不毛な恋愛をしていた時で、いきつけの喫茶店のマスターとママが私の唯一の癒しだった。喫茶店という空間が、最悪な人生を少し前向きにしてくれ、私に行動する力を与えてくれていたように思う。この経験から、人生最悪!と思ってる私のような人の癒しの場を自らも創りたいと思ってしまったのだ。
結局は40を手前に全くの未経験分野に飛び込むのが怖くて開業にいたらず、「カフェやりたい詐欺」でおわった。しかし、他の職場で働きながらカフェでバイトしたり、食品衛生責任者の資格をとったり、自分なりに行動はしていたが「私にはムリ」と諦めた。時には、諦めることも必要である!当時、カフェでのバイトとの二足のわらじで、美術館で行うイベント事務をしていた。結局、雇われて働いた最後の場所が、「美術館」だった。終わりよければすべてよし?2つ目の美術館を辞めたとき、もう一生美術館とは関わらないだろうと思ってたのに「あーやっぱり自分はここなのか」と思った。学芸員という立場では美術館に関われないけど、学芸員を志した学生の頃とは思いもよらない場所にいるけど、これで良かった、と思えた職場だった。その美術館では、クラシックコンサートや寄席、映画観賞会というイベントを開催していた。映画はともかくクラシック音楽や寄席など、今まで縁がなかった分野の芸術に毎週触れることができたのは、私の人生の財産となった。自分の給料を自分で払う労務事務もこなしてたので、とても勉強になった。

しかしながら現在、私はその美術館で働いていない。スピリチュアルカウンセラーとして活動したいと思っている。なんでそうなった?!とお思いかと予想する。実はカフェと美術館で二足のわらじ生活をしているとき、まだ「学芸員への未練」があり「人間関係の悩み」で苦しい人生を続けていた。そんな時、人の意識の95%以上をしめる「潜在意識」を書き換えると悩みがなくなり、人生が好転するという心理療法を受けた。文字数の都合で詳細は割愛するが、その意識療法のおかげで、「私の人生で今が一番健康で最高に幸せ」と言いきれる。
人生の大半を「苦しい」ですごしてきた私でも180度かわれる!同じように苦しい思いをしている人に「違うんだよ、あなたはかわれるよ」と伝え続けていきたい!そんな気持ちが強くなったためだ。カフェ開業を志した気持ちを引き継いでいる感もある。

こう書いてみると、統一感なく紆余曲折した人生だけれど、学芸員を目指した頃も、数年だけど学芸員として働けた頃も、学芸員でなくなった今も一貫してる思いがある。

「芸術をもっと身近にしたい」だ。

特に母の死を体験してからこの思いは強くなった。母の病気がきっかけで、美術館は「移動できる健康な人間しかこれない場所」とわかった。学生時代の私は「美術は、世界を人を救える」くらいに本気で思ってて。この思いは母のガンが見つかって学芸員として働き始めるにつれ、木っ端微塵にくだけた。「美術は、芸術は、芸術で命を本気で救えるなんて思ってた自分は、なんて無力なんだろう」ということを思いしらされた。でも、どこかで「芸術には人を救える力がある」と信じたい。
学芸員でなくなった私だが、今後はこれまでの全ての経験をフル稼働して、「芸術を身近に」の具体策を、残りの人生かけて、ゆっくり探すつもりだ。迷って苦しんでもがいて泣いて絶望して、結果学芸員としては、初志貫徹できなかったけど20代で「学芸員になる夢を持ち、その夢を一時でも実現させた」「自分の全てを注いだ」ことはわたしの人生の誇りだ。だから人が言う「20代で人生が決まる」というのは確かなことなのかもしれない。
横道にそれつづけた私の半生から学んだこと。それは

夢は諦めなければ叶う。

途中挫折しても、無駄な経験したなて思っても、案外無駄ではなくて、全ての経験が繋がっている。そして自分が思ってもみない夢が見つかる。それが案外、生涯の仕事になったりする。人生における道草をしてよかった、と心から思う。

いまの私は学芸員の仕事は辞めて、人生の休暇中だ。療養のためもあるが1年以上もゆっくり休んで好きなことして、スピリチュアルカウンセラーとして活動しようとしてるなんて、20代の私が知ったら卒倒するだろう。でも、この選択でよかったと心から思ってる。最初の美術館をやめて再度学芸員の転職活動を続けるも一向に芽がでなかった時、とある博物館の元館長が「自分の人生は道草だらけ…わき道にそれたら、メインストリートにはない、路地裏なりのおもしろさがあり、見聞をひろめることができる。道草は、人生の糧としておいしいものである」と著された文章を目にした。こんな権威ある先生が「道草を食う」ことをすすめられてる!だったら、脇道にそれてしまった今の私を悔やむことはない!今の私でもいいじゃないか!次がんばろう!と、何度も折れそうな心が支えられた。
今改めで思う、「道草を食いすぎたおかげで、今の私がある」学芸員を脱落しなければ、今の私はいない。出会えてよかったと思える人達にも出会えてない。それは今の私にとっては耐えがたい。今はっきり自信をもっていえる

「学芸員を脱落して良かった!」
「失敗は成功の元!」

だから、これからも道草くって生きていく!

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