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『糜爛』④

割引あり

【胡乱】


 遠い春の日のこと。麗らかな日が差す窓の下、母はお化粧をしていた。ピアノの仕事をするときは絶対に塗らない真っ赤な口紅を塗りながら、

『今日は遅くなるから。お姉ちゃんと二人でご飯食べなさい』

と言った。母との思い出なんて一つもない。いつも僕はその横顔を見ていた。母が僕たちを見ることは無かった。

千円札を握りしめて、子供二人で牛丼を食べに行った。夜だったから大人たちに心配されて、何も答えられない僕たちは走って家に帰った。僕の家にはテレビがなかった。絵本も漫画もなかった。あるのは楽譜とピアノだけだった。広い部屋にいつも姉と二人、図書館で借りてきた本を読んでいた。中学生の頃に、二人目の父親が出来た。妹も出来た。家は少しだけ賑やかになったけれど、母と二人目の父はやっぱりほとんど家にいなくて、僕たちは三人で日々を過ごしていた。寂しかった。言葉にするのは悔しいから、言ったことはなかったけれど、寂しかった。愛されたかった。


「ばいばい」

 ホテルから出て、別れるときに僕は決まってそう言う。ばいばい、今夜だけの人。二度と合わない人。顔も忘れてしまうような人。たった一瞬でも愛をくれてありがとう。それがどれだけ利己的な愛であっても、良い。

 肩に手を回し、顔を近づければ嬉しそうに笑う相手が阿呆みたいで面白い。この人はこれが最後だなんて知らない。可哀想に。でも、僕と一緒にい続ける方が良いことなんて起きやしないから。許してね。

 別れた後、ファーのカーディガンでは薄寒くなってきた夜をふらふら歩いていた。真っ黒な路地はギラギラとした紫やピンクのネオンライトに囲まれていて、目がちかちかする。今日も死ねなかったなァなんて漠然と考え、それからひたと足を止めた。と、同時に後方で足を止める音がした。アスファルトに擦れる靴の音に反応し、僕がふり向くと、店影に隠れようとしている中本咲葵がいた。最近誰かにつけられているような気がしていたのは彼女だったのか。

「覗き見ですか? 趣味の悪い」

 彼女は僕を恨んでいるだろうな。恨まれるようなことを言った自覚はあるし、恨まれたくて言った節があるので、それは気にしていない。彼女はまごまごしながら姿を表すと、スマートフォンを掲げた。

「阿由葉さんがゲイって証拠撮りましたよ。これ、広められたら嫌じゃないですか? 噂じゃ済まなくなりますよ」

「なるほど。君と廉はやはりお似合いですね」

 突貫工事のように脅しの言葉を並べられても、攻撃力の欠片もない。どうにか僕を苦しませたいようだが、残念ながらそんなつまらないことに付き合うつもりはない。初めて廉と出会ったときも、彼は脅しまがいのことを口先に並べて引き攣る顔を隠そうとしていた。自分のダサさを隠そうとしていた。今の彼女にお似合いだ。

 さて、どうしようか。今日の僕は機嫌が悪い。

 カーディガンの肩を落とし、余った袖から出した指先で彼女のスマートフォンをぴんと弾く。奪われると警戒したらしい彼女が、慌ててそれを隠すのが滑稽で面白い。

「カラオケ行きません?」

「は?」

「良いじゃん、行こうよ」

 この辺の地理には詳しいので、近くにカラオケがあることも知っていた。彼女が戸惑って返事をしないのを良いことに、手首を掴み、半ば無理やりカラオケルームへと連行した。アルコールドリンクだけを頼んで、空きっ腹に入れると胃が痛い。彼女にも何か頼むか聞いたが、何も要らないと鋭い語気で言われてしまった。

 こういうとき、賢い人は絶対に相対しようとはしない。けれど、僕らみたいな人間は、今逃げれば負けになる。負けになってしまえば大切なものを奪われてしまう、ということを理解している。だから彼女も僕と距離を開けつつ、部屋から出て行こうとはしなかった。当然ながら、彼女は歌おうとしないので僕は好き勝手に好きな歌を歌うことにした。僕は一人でああでもないこうでもないと言いながら、やはり返事一つしない彼女の無言を返事として、そうだよねぇなどと話を続ける。彼女が気味悪がるのが愉快だった。『強くなっちゃったんだ、ブルー』を歌い切って、歌うのにも飽きてきた頃、ようやく彼女が口を開いた。

「マジでなんなんですか」

「煙草吸って良いですか?」

「煙草なんて吸ってましたっけ」

「高校生の時はね。瑠人さんが煙草好きじゃないから止めたけど」

 カラカラの肺に染み入って、苦しくなるのが丁度良い。母も姉も煙草を吸う人だった。家には必ず煙草がカートンで置いてあったから、暇なときはそれを吸ってみたりした。命が少し減ると、今後人生における暇な時間が少し減るような気がして、嫌いじゃなかった。

 彼女は終始、汚物でも見るような目で僕を見ていた。そんなに煙草が嫌なのかい?と惚けてみようか。そんなに僕のことが嫌なのかい?と続けてみようか。彼女の苛立ちは増して、着飾った顔が崩れる。

「阿由葉さんは天羽さんのことが好きですよね」

「そうですよ」

「だったらなんで。好きな人奪われる辛さとかわかるじゃないですか」

「わかりませんね。瑠人さんはあんなクソ野郎とは違うんで。そもそも僕の物になったことがないし」

 煙草を灰皿に押し付ける。彼女の僕を睨む目に迷いが生じたのを見逃しはしない。副流煙を吸った彼女は僕と同じ毒を飲む。

「なんで、貴方なのよ。廉が選ぶのが、なんであんたみたいな……」

 腹が立って僕は彼女の口を覆った。マイクがテーブルから落ちてガンッという音が響いた。泳ぐ彼女の目は濡れていた。僕と廉は本来もっと割り切った関係であるべきだった。熱くなんてある必要はなかった。なのに、初めに裏切ったのは廉だ。言ってしまえば僕だって被害者な訳だが、被害者という圧倒的楽な立場に居ることは好きではなかった。僕はわざわざ加害者となって、彼女を泣かす。彼女は泣いて、被害者ぶれば良い。ただ単にふられただけの女でも、悲劇のヒロインになれれば幸福なんじゃないの。僕にはなれない。どうせなれないなら、圧倒的なヒールとして。

「だから、質問が多いです。めんどくせぇ女」

 彼女は僕の手首を掴んで引き剥がすと、飛びかかるように胸ぐらを掴んで押し倒す。硬いソファに頭を打ち付け、一瞬の衝撃にぐらりと頭が揺れる。髪をふり乱して歯を震わす彼女は至極醜かった。

「死にそうな顔して、ブスは貴方でしょう! こんなことしても、貴方は空っぽなんだから!」

 彼女の腕を掴み返し、壁側に押し込む。狭いカラオケボックスの中で揉み合いになったって良いことはないのに、時折身体がテーブルにあたって空のグラスが揺れる。彼女は苦しそうに呼吸を繰り返している。僕の口からは煙草臭い嘲笑が漏れる。

「そんなに言うなら、試してみます?」

 目と目が合えば、それだけで良い夜がある。壊れるよりも、壊して弄べばそれだって玩具になり得る。隙を見せた彼女は悪い。頭が悪くって、僕の言うことを理解しない彼女は悪い。生まれてこの方、こんな風にしか生きられない僕も悪い。馬鹿な彼女に言われなくたって空っぽな僕には、愛とか嘘とか汚泥とか芥とか憎悪とかが混ざったものを注いで、それでも欠陥だらけの隙間から全部零れて何もなくなる。何も変わらず、何もないのなら、何をしたって同じこと。目を瞑って涙を流す彼女は、その青に溺れていく。隣の部屋から聞こえる酔っぱらった女の叫ぶような歌声がやけにやかましかった。



 日々泥のように眠り、朝も夜もどうでも良くなって、このまま死んでいくのが良いなぁと思う。ガラスの内側から出られない僕は、遠くに見える噎せ返る程の空の青さに涙が出そうになるときがある。それでいて、また、人を傷つける。

 隣に眠る女を起こさないよう、指を取って彼女のスマホのロックを外した。アルバムの中から僕の写真を削除し、廉と彼女の楽しそうな写真をスクロールして一通り眺める。そうだな、あんたはそんな風に笑う人だったな。僕は一度もそんな風にしてあげられなかった。僕だけが悪いとも思わない。彼奴も、此奴も、最後に選んだのは自分自身でしかないでしょう。不幸を詰めた頭は重くて、起き上がるのすら億劫だな。そっと伏してスマホを置く。金を机の上に残し、乱雑に椅子にかけたカーディガンを羽織ると、僕は部屋を後にした。

 やけに静かな朝の街は、僕を拒否しているみたいで気に入らない。朝の匂い、光、そういうもの全部に映るのが過去の記憶の断片で。歩いて帰るには遠い自宅への道、アスファルトの硬さとか、あのビルに掲示された巨大なコスメの広告ポスターとか。過るのは母の横顔。一度も僕に大好きと言ってくれなかった赤い唇。馬鹿な男たちに甘い言葉を囁く赤い唇。それから、彼女が奏でる音楽。思えば全て、僕は貴女になりたかっただけだ。

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