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解呪の体感 3

先日、我が家にかけられていた呪詛のうち2つを解呪した。
(3種類のうち、1つはすでに解呪済)

今回解いたのは摩利支天隠形法、摩利支天神鞭法。
私が解けるわけもなく、依頼をして解いてもらったのだけれど、
今回も前回同様に体感を伴うものだった。

私は祈祷に同席していなかったのだが、祈祷が終わったであろう時間に、
「あれ?今終わった??」とスッキリといった感覚ではないが、
ふと感じる何かがあった。

その後、じわじわとイライラが湧き上がってきて、数時間意味もわからずに妙にイライラし続けていた。スピリチュアルのセッションで、エネルギーワークを受けた後に体験した「好転反応」によく似た感覚だった。

イライラ自体は半日も続かなかったと思う。
気が付いたらイライラが消えていて、とても体が軽くなっていた。
体が軽くなっているというか、頭も含めてスッキリしているというか。
私を覆っていたものがなくなっている。
前回、飯縄法を解呪したときも、軽やかな感覚に変化した自分に驚いたのだけれど、今回残りの呪詛が解けた時に感じた感覚は、それを更に上回るものだった。

解呪する前と、解呪した後では、自分が同一人物に思えないくらい、放つ波動が変わってる。
呪詛とは、そんなにも強い影響を持つものなのだと身をもって知った。

他人へのネガティブな念の攻撃は、その思いが強ければ強いほど「呪い」となる。強い憎しみや妬みなどが、生霊となって憑いているのを何度も見てきた。だが今回はそういった「呪い」ではなくて「呪詛」が原因だった。

体感としても念によるものと、呪詛によるものは全然違う。
個人的な体感ではあるけれど、呪詛は精巧なグリッドをかけられている感じがする。強力で決して破れることがない細かなグリッドが、自分を覆っている感じだ。呪詛を掛けた人が、そのことを忘れたり死亡しても、ひたすら発動し続けている。
そんな呪詛に我が家は世代を超えて苦しめられてきた。


人生に躓くことが多く、何かに邪魔されている感覚があるならば、掛けられた呪詛がないか疑ってみるのも良いのかもしれない。

今回、解呪をして体感の変化以外にも体験したのは、「忘却」だった。
自分が何で苦しんでいたのかが思い出せなくなっている。
呪詛はずっと家系にかかっていたので、経済面での辛い経験も私の知る限りでは曽祖母の時代から続いている。
私の身に本格的に降りかかり始めたのは大学を卒業してからだった。
トラウマになるような体験をしているのに、それらを思い出すのが一苦労になっている。
つい先日までは、はっきりと出来事も感情も覚えていたのに、noteに書こうとすると、その部分の記憶だけポッカリと抜け落ちてしまっている感じだ。

同じような経験をスピリチュアルワークで体験したことがある。
ブロックを外す際、ブロックの奥の奥に潜んでいる核を外したとき、「忘れる」という体験をした。
何で苦しんでいたのか、まったくわからないのだ。
自分のことなのに、記憶もそれに伴う感情もすっかりさっぱり消えてしまっていた。
苦しんでいた原因が消えてしまったので、問題を問題と思わなくなってしまったというか、問題が消え失せてしまったことがある。

この時と同じ体験だと思った。


そして、改めて呪詛から解放されたのだと思った。









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