見出し画像

【ルーツ旅日記 #5】 そら、鉄子になるってよ ~世界遺産編~


5月4日、この日私はにわかに鉄子を名乗り、朝一で三鉄に乗り、SL銀河の写真を撮り、今度は「鉄」の聖地である橋野鉄鉱山へ向かうのでした。

鉄のまち釜石。
鉄を知ることは釜石の歴史を知ることでもあります。

鉄都!!!


『岩手県にある世界遺産を答えよ』

そう問われたら、あなたはなんと答えるでしょうか。

平泉!
中尊寺の金色堂は有名です。
行ったこともある方もたくさんいらっしゃるでしょう。

(先々週の鎌倉殿、田中泯さんの藤原秀衡は神がかってましたね!!!震えました)

かの有名な金色堂

他には?

縄文遺跡群
そのお答え、さすがです。
そんなあなたとは仲良くなれそうな予感がします。

岩手県 御所野遺跡

他には?

え?まだあるの?と思われた方。
ですよね、ですよね、私も知りませんでした。

なんともう1つ世界遺産があるのです。
しかも釜石に!!

【世界遺産 】 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業

長いけれどこれが正式名称。

その名の通り3つの重工業分野の発展を中心に現存する歴史的な建造物や遺跡など、近代日本の産業化が世界史的観点から極めて重要であるとの観点から2015年に世界遺産登録されたとのことでした。

最近「群」での世界遺産登録多くないですか?
長崎県の軍艦島

軍艦島は世界遺産登録の記憶があり、ぜひ行ってみたいと思っていた場所の一つです。

しかし軍艦島以外にも日本各地に点在していることを恥ずかしながら知りませんでしたし、ましてその一つが釜石にあるという認識がありませんでした。

日本各地に点在する明治日本の産業遺産

この遺産群に共通するのは時代の流れによる栄枯盛衰感を如実に感じるところでしょうか。

釜石もまた、かつては鉄鋼業で活気溢れる街だったといいます。

橋野鉄鉱山

鉄のまちとしての釜石は享保12年(1727年)の鉄鉱石の発見から始まります。

安政4年(1857)には盛岡藩士大島高任が洋式高炉を築き鉄鉱石精練による出銑に成功しました。
これにより、釜石は日本の近代製鉄業発祥の地となりました。
現存する最古の洋式高炉がある場所こそが世界遺産登録された橋野鉄鉱山です。

釜石駅前の大島高任の銅像

市街地を抜け緩やかな山道をいくと、橋野へ辿り着きます。

インフォメーションセンター

インフォメーションセンターで説明映像を見た後、実際に外にある高炉跡を見にゆきます。

見学は無料ですが、有料でボランティアガイドさんに解説を依頼することも可能です。

せっかくですので、ガイドさんの解説をお願いすることにしました。


山から運んだ鉄鉱石から銑鉄を取り出す場所



少し坂道となっている見学エリアを息を切らしながら、ガイドさんが熱心に説明してくださいます。

大きな石が組み上げられたものが数個点在し、それこそが日本最古の高炉跡とのことでした。

当時は各地から多くの工夫がやってきて、長屋に住み込み昼夜働き通しだったそうです。

しかしあっという間に鉄鉱石も国産から安定供給が得られる輸入に頼るようになり、この鉱山もその役目を終えたと言います。

現在は当時を偲ぶ建物も一切存在せず、説明を聞かなければそこに多くの人が生活し労働していたなど想像もできないような緑の丘が広がっています。

夏草やつわものどもが夢の跡。違うか。

静かな世界遺産ではありますが、確かに製鉄産業を通じ日本の近代化を大きく後押しした存在であることが高く評価され世界遺産に登録されたとのことでした。

こうして語り継がれていく

今回案内してくださった方は、おそらく70代のベテランガイドさん。

ひととおり見学エリアをまわったのち、自然な流れで2011年の震災時の話になりました

市内さまざまな場所へガイドとして派遣されるそうで、時には東日本大震災にまつわるお話もされるそうです。


先ほどまでの製鉄業に関する流暢な説明とはうってかわって、言葉を選び詰まらせながら紡ぎ出される体験談に、我々も静かに耳を傾けそして言葉を失いました。

「大丈夫だと思っても戻ってはダメなんだ、絶対に戻らせたらダメなんだ」「空振りだとしてもとにかく避難することが必要だ」
そう繰り返しされた言葉の熱量が深く心に残りました。

当初ガイドさんには40分程度の予定で依頼したのですが、ついつい製鉄以外のお話をしているうちに、あっという間に2時間以上が経過してしまいました。

「いやぁ、話好きだからついつい喋りすぎてしまうねぇ」
そう言ったガイドさんの表情には明るさが戻っていました。

お礼を告げ、橋野を後にします。

「うのすまいには是非立ち寄ってください」ガイドさんはそう言って私たちを見送ってくださいました。

鵜住居・トモス 祈りのパーク


道中立ち寄ったうのすまいトモス
三陸鉄道釜石駅から2駅である鵜住居駅の駅前広場にひときわ目を引く近代的な建築物と祈りのモニュメントがあります。

駅からは立派な球技場「釜石鵜住居復興スタジアム」が見え、山側には切り開いた土地に新たに作られた幼稚園、小学校、中学校がありました。

美しいのにどこか不調和で異質な光景が広がっている理由には訳がありました。

鵜住居の悲劇
東日本大震災において被害が大きかったのが、市北部の沿岸部に位置する「釜石市鵜住居地区防災センター」です。震災1年前に開所したこの施設に、震災当日多くの住民が避難し、推定 160 人を超す方々が犠牲となりました。 同センターは、岩手県が示した浸水予測図では浸水しない想定でしたが、明治の津波で浸水したと思われることから、津波災害の避難場所ではありませんでした。しかし施設の名称を「防災センター」としたことや、震災前に地域でこの施設を利用した津波避難訓練が行われていたことなどから、一部の住民の間に、 津波災害の避難場所であるとの思い込みが生じ、震災当日多くの住民が避難してきました
津波は防災センターの2階天井付近まで達し、ホールなどに避難していた人々は、黒い海水の中に沈んでいきました。津波が引いた後には、重なるように遺体が横たわり、69 名 が収容されました。救出された生存者は 34 名でした。 私達はこのことを決して忘れて はなりません。二度とこの悲劇を繰り 返さないよう、後世に語り継ぎます

引用:未来の命を守るために 釜石からのメッセージ
釜石鵜住居復興スタジアム


この2日間を通じて、ほんのわずかではありますが釜石の歴史と震災の被害と復興の足跡を学ぶことができました。

ハード面での復興が進む中、今後は長期的にソフト面で街の活気をどう取り戻すかが大きな課題となるのでしょう。

これは被災の有無にかかわらず地方都市に共通する問題でもありますが、一方で自分たちの街を元気にしようと熱心に活動する若い世代が沢山いることも忘れてはなりません。

語り継ぐこと、共にいきること。

この記事を目にしてくださったあなたに何らかのメッセージをお伝えできたなら、僅かながらも語り継ぐことへの一助のなり得るでしょうか。

おこがましくもそんな気持ちであの日のことを思い出し書いています。

旅は釜石から花巻へ。
2日目のお宿、花巻温泉郷へ向かいます。

鉄の次は鉛です。鉛!

今日もお付き合いくださりありがとうございました。

つづく




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?