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【ルーツ旅日記 #2】約束の場所へ

13時30分。
お腹も十二分に満たされ午後の部は駅前の郷土資料館、目的の慰霊碑がある石応寺へ向かいます。

まずは「釜石市郷土資料館」へ。


今回は写真多めの記事となります。

釜石市郷土資料館



図ったかのごとく来訪時の企画展は「津波記念碑」でした。

三陸各地には津波の記念碑、追悼碑がたくさん存在します。
それは先人たちが未来を生きる者たちへの教訓を含めた強いメッセージでもありました。

明治29年6月30日
(津波被害から2週間後)の朝日新聞 
当時の被害図
菊池市蔵の名前も刻まれた
「明治丙申海嘯記念之像」
被災状況の把握もままならないことが伺える
詳細に記録された貴重な資料
全て手書きでまとめられている
一家族ごとにエピソードが

この資料には明治三陸津波の際に釜石町のどの家庭の誰が被災したのかが詳細に残されていました。
そして聞き取り調査された各家族のエピソードが記されています。
上飯坂哲さんという方が聞き取り調査を行い、全て手書きでまとめられた貴重な貴重な資料です。
著者である上飯坂さんの執念と使命感がひしひしと伝わってきました。


資料館の方にお話を伺う

館内は釜石の歴史、文化、自然について充実した展示資料に加え、書籍も豊富で自由に閲覧可能となっており、時間があっという間に過ぎてしまいました。

ぐるり一通り見学したところで、資料館の方に声をかけお話を伺いました。

今回釜石を訪れた経緯について簡単にお伝えし、先祖がなぜ釜石へ移住するに至ったのか、当時の背景について、また当時の街の地図や記録があるかなどをお聞きしました。

その中で、重要なポイントとなるのはやはり釜石が鉄のまちであるということでした。

当時の釜石は国内屈指の工業都市であり、製鉄業の発展とともに県内外から多くの労働者が移住していたので、おそらく市蔵の息子も製鉄所もしくは関連の仕事に従事した可能性が高いだろうとの見解です。

また製鉄業の重要拠点であるゆえ第二次世界大戦時には艦砲射撃や空襲による被害も甚大で、当時の公的な資料さえもその多くを焼失しているといいます。

昭和20(1945)年、太平洋戦争が重大な局面を迎える中、全国主要都市はB29による空襲を受け、さらに地方都市までその猛攻が広がる状況のもとで、大橋地区に鉄鉱資源を有し、国内では唯一自給のできる製鉄所を持つ工業都市であった釜石では、市民がいつかは空襲を受けるであろうという覚悟をしつつ戦時の増産に励んでいた。このような中、「日本の重要産業を破壊し、輸送を混乱させ、日本国民の戦意を低下させるため」として、同年7月14日に三隻の快速戦艦、二隻の重巡、九隻の駆逐艦により艦砲射撃を受け、さらに、同年8月9日に三隻の快速戦艦、四隻の重巡、十隻の駆逐艦により、二度目の艦砲射撃を受けた。

釜石艦砲戦災誌より引用

明治期に続き昭和にも津波による被害、戦時下には戦火により焦土化するという悲しい歴史が繰り返されたくさんの命、涙とともに資料もまた失ってしまったという釜石の歴史…

お話を伺いながら、込み上げるものがありました。
そして記憶に新しい3・11のお話・・・
資料を見るだけでなく、現地の方のお話を聞くことで伝わる温度感がそこにありました。

これから目的の石応寺にある慰霊碑を見に行くことを伝え、資料館を後にしました。


100年の約束

かなりゆっくり時間を過ごしたので、資料館を出たのは15時半。
太陽はすでに傾きかけています。
駅から目的の石応寺は車で5分程度の距離。

石応寺の前の広場は「大只越公園」となっており、入り口にはこの園内に多数ある慰霊碑の説明がありました。



碑の一覧と説明 
公園の入り口
海嘯記念碑
ついにきた!!明治丙申海嘯記念の像
山門前に2対安置されている
お背中に海嘯の記録が掘られている
「菊地市蔵」の名を確認することができた!


ついにこの時が来ました。
この像こそ菊池市蔵の名が刻まれた像です。
市蔵の娘であり、私の高祖母ミヨが子らへ伝えたという
「いつか釜石へ行くことがあったら、菊池市蔵の像を見てきて欲しい」
という言葉。

夫、子らと100年前に北海道へ渡ったミヨが果たすことができなかった願いと思いを、時を経てようやく叶えることができました。

高祖母ミヨ、曽祖母ミチ、祖母カル、母、そして私へミトコンドリアDNAのごとく女系ルーツに静かに引き継がれたこの思い…


立派な山門前でしばらくその姿を眺めていると、お寺の鐘がゴーンと響きました。

「ありがとね」そう言ってくれたのかしら・・・

山門をくぐり、お寺の本堂にお参りすることに。

釜石の古刹「石応寺」

釜石大観音を建設し管理しているのも石応禅寺さんです。
明治期、そして3.11の際も釜石の人々の心の拠り所となったお寺だそうです。

3.11の際はここまで水が押し寄せたという
御朱印も頂きました

御住職さまにも今回このお寺との縁と感謝をお伝えし、お話を伺いました。

菊池市蔵その人、そして市蔵の子孫についてはわかりませんが、確かに釜石とこの石応寺との縁があったことは確かです。

感動する気持ちばかりが膨らんで経緯説明も質問もままならず、御住職も戸惑ったかもしれませんが、私の話にしっかり耳を傾けてくださいました。

それだけで、胸がいっぱいになり、ここを訪れてよかったと心から思いました。

日が長くなったとはいえ、もうすっかり太陽は傾いた午後6時。

余韻をかみ締めながら、石応寺を後にしました。

オール釜石のおもてなし

お宿はこちら多田旅館さん

釜石市内にはいくつかビジネスホテルもありますが、せっかく釜石に泊まるなら、ほんの少しでも復興支援の一助となるようなお宿を選びたいという夫の提案で選択したのは市内にある「多田旅館」さん。

予約した時点で、石応寺から近いとはわかっていたものの、着いてみて改めて立地にびっくり。
石応寺から歩いて1分。公園からは30秒。ほぼ門前です。

到着すると、店主さんが優しい笑顔で迎えてくれました。

チェックインの際に「ようこそ釜石へ、今回釜石へいらしたのは観光ですか??」
と問われたので、これまたついつい話したくなる今回の旅の目的。

「これまでいろんな理由でここを訪れていただいたお客様がいましたが、そんなに長い歴史があると来館された方は初めてです」と目を丸くしていらっしゃいました。

店主さんは、我々と同世代くらいでしょうか。
この場所で生まれ育ち一時は釜石を離れたそうですが、震災ののちに釜石へ戻り家業を継がれたそうです。

震災からの復興もさることながら、この2年の行動規制により観光業は特にご苦労があったことでしょう。

熱心に釜石や宿を盛り上げようと取り組もうとされている姿勢が伝わってきました。
こうして店主の方とお話しできることも、個人旅館を選んだ理由の一つでもあります。



一息ついてまもなく夕食です。



「高級旅館のようなものは出せないけれど、久しぶり帰省した家族をもてなすようなボリュームたっぷりのお料理をお出ししています。全て釜石産の海鮮を揃えました。」

すでにたくさんの料理が食卓に並んでいます。
焼き魚、お刺身、もずく、どんこの肝和え、毛蟹、ホヤ、牡蠣のあんかけ、天ぷら・・・

久しぶりの毛蟹
ドンコの肝和え

どれも新鮮な食材で、海の街に来たことを実感します。
美味しくいただいていると、「あら汁とご飯をお出ししますと言っていただきましたが、もうお腹が苦しくて苦しくて・・・

お願いしますと言ったものの、あら汁もまた具沢山で、我が家のいつもの夕食ならこれがメインになりそうなボリュームです。

もう限界・・・お腹が破裂しそうです。

早起きから、長距離移動、そしてよく歩き、よく食べた1日。

お風呂に入って、爆睡でした。


朝の散歩

日付変わって5月4日、朝6時。
スッキリと目覚めることができたので、支度を済ませ、7時半の朝食まで再び石応寺の境内へ朝の散歩に行くことにしました。

のんびり公園を歩いていると


 ゴーン・・・ゴーン・・・

今日もまたお寺の鐘がなりました。

やっぱり歓迎されている!
そう都合よく解釈した私は足取り軽く山門をくぐり、境内へ入っていきます。

寺の脇にある急な斜面に沿った墓地は朝日を浴びてきらきらしていました。

心の向くままに墓地の斜面を登っていくと眼下には寺の屋根、さらに登ると釜石の港が見えました。
鶯の初々しい鳴き声が響き、そこが墓地とは思えないほど清々しい空気に包まれています。

海を見下ろす墓地
釜石港をのぞむ


ここにこられて本当によかった。


のんびりしていたら、まもなく7時20分、宿に戻って朝食だ!

三陸旅2日目が始まります。

続く。


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