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「考える力」を育むって本当に大切??(終 まとめ)


今回は、「考える力」を育む事が本当に大切なのか、その結論・まとめ(今の自分のですが)を書けたら良いなと思います。

まずは、これまでの考えを簡単にまとめてみたいと思います。


最初に自分の前提ですが、

お互いが気持ち良く、ただ素直に(共に)生きていけるそんな居場所が世の中に多くあれば良い

こういう世の中が実現し、こういう世の中になる為には、「どんな考え方が必要なのか」という半ば恣意的で意図的(ある意味暴力的なんですかね…?)な所から「考える力」が本当に大切なのか考えているので、その点、共感できない方は申し訳ありません・・・🙇

最初に結論を述べます。

今の自分の結論は

基本は「考える力」は大切。でも、もしその考える力が自分の「外側」に向くためだけのものなら、考える力を育む事に自分は少し違和感がある。

です。


どういう事かと言うと、「考える力」は、まずは「自分と向き合うため」に育てる事が大切ではないかと思っています。※ただし、発達の理論とかそういう視点もあるで、「自分と向き合う」という所は、まずは学校・大学教育に関わるぐらいの年代の人たちに限定しますが。


経済の発展とか、問題の解決というのは、下記の記事でも述べていますが、

まずはその人、その存在がしっかり自他共に認められる所から始まるのだと思っています。外側の問題だけを扱うのではなく、同時に内側の視点にも取り組んでいく人が同じくらい世の中にいることで、「結果的に」経済とか貧困とか差別とか、そういう問題もより良い方向に向かっていけるのだと思っています。

その意味で、「考える力」を、前回・前々回の「他者比較」の所で考えたように、何の目的で、育むのかによって、結果は大分変わってくるんだろうなと感じます。

例えば、他者を「敵」としてみなした上で、考える力をある種の「戦略」として表現する時、自己保身や相手の失墜を目標にする時もあると思います。

またある時には、他者を「味方」だとした上で、例えばスポーツ選手の試合終了後のインタビューで、「ライバルがいてくれたからこそ、どうしたら自分(たち)がより良い選手になれるのかを考え、厳しいトレーニングにも耐えられた」といった、相手への敬意や労いの感覚がベースにあって、考える力を発揮する場合もあると思います。

「考える力」というと、問題解決や学校の課題をより早く、より効率的に解くといった意味合い(よりネガティブな競争っぽいニュアンス)が強いのかなと自分は感じているのですが、それだけでなく、本当は、「自分と向き合う」とか、「自分と問題の関係を見つめる」とか、「自分や他者が、本当は何を感じ、何を求めているのか聴いてみる」といった内側にある「感覚」や「気持ち」、「態度」といった所にも視点を向ける事がとても大切だろうなと思っています。

それが、「他者比較」の良い部分にも繋がってくると感じるからです。

また、当然、人によって、その気持ちが出てくるのに時間的に差があると思います。人によっては、20歳を過ぎ、大学を卒業してから、そういう気持ちになる場合もあると思います。その時でも、そういう想いを実際に表現する場所、例えば会社の中や、地域、学校、広く社会に多くあれば良いなと思います。


「考える力」が、広く、自分や相手の内側についての「理解」や「気づき」のためにあって、「その結果」、自分たちの外側にある多くの「問題」をより良く解決していく道筋が見えてくるキッカケとなるのではないかと思います。

自分以外の他者を「敵」だと思っている限りは、きっとまた「新しい問題」を生み出してしまうような気がします。嘘が新しい嘘を必要として、また新しい嘘が生まれてくるみたいな感じです。例えが微妙ではありますが、そういう教育実践を、緩やかに、少しずつでも、やっていけたらなと思っています。

ただ実際、世の中には上記のようなものと正反対の現実も多くあり、仮に対症療法的だとしても、そういう教育的な営みが必要であるとも思います。そういう光景も多く目にしてきたからです。「今」変化が必要な方も居て、そういう方たちを「今まさに」懸命に助けようと、やれる事を全力でしてくださっている方も多くいると思います(例えば、分野は違いますが、コロナウイルスに対応してくださっている医療従事者や福祉関係の方、子ども食堂等のボランティアで活動されている方、配送業者の方々等はまさに、そういう人たちだと思います)。

そして同時に、今ではなく「未来」のために頑張っている方もおられると思います(今でいえば、不要不急の外出を控えている方や、支援の想いはありながらもその想いに必死に耐えながら自宅待機をしている方々だと思います)。

この時、頑張っている人の頑張り方は人それぞれだという事に気づきます。そして、そのどれもが自分は「正しい」と思っています。いや少し違いますかね。より正確に言うなら、「「正しい」という事にした方が良い」と思います。なぜなら、アプローチする所は違っても、目標とする事は、「自分も相手もより良い状態になる事」を目指していると思うからです。

この時に、「どっちの方が良い」とか、「どっちの方が正しい」とか、「その行動は間違っている」という「正しさの証明合戦」に陥らないようになる事が大切ですし、そのためには、

最終的には、

「内側について考える力」に根差した「外側について考える力」

が大きな鍵になるのではないかなと思います。


多分、本当に「考える力」がある人は、自分の気持ちや相手の気持ちを言葉からでも、感覚的にも想像できるだろうし、また色んな事が考えられる一方で、時には「考えない」で行動!みたいな事も選択的に出来るのかなと思います。

「考えるな!感じろ!」的な感じですかね(笑)

自分自身も含めて、そういう力を育てられたら良いなと思いますし、そういう空気感がある意味で当たり前になったら良いなとも思います。単に平和なだけじゃなくて、何が起きても時に1人で、時にみんなで平和に変化させられる力ですかね。皆それぞれ違いますから、その違いが共生に繋がるものにまずは意識的に、そして最終的には無意識的に出来たら良いなと思います。

個人的には、集団行動はあまり好きではないので、「共生」という考えの中に、相手を尊重するという意味において「そっとしておく」「ほうっておく」みたいな感じもあると良いですが・・・。良い意味で、「共生」を「強制」しないみたいな空気感ですかね。

話が逸れてしまいましたが、こういった意味での「考える力」がこれからは凄く大切なのではないかと今の自分は思うので、今回、上記の考えをこのテーマに関する結論にしたいと思います。


最後に、

一言で「考える力」を表すとしたら自分は、

「「聴く」から始まる「対話」への姿勢」

とまとめる事ができるのかなと思いました。


今の自分の最終結論

「「内側について考える力」に根差した「外側について考える力」」なら良いなと思います(但し、学校教育に関わる年代の人を対象にしたもの)。  また、考える力とは、 「「聴く」から始まる「対話」への姿勢」である。


「考える力」には終わりはないと思うので、これからも少しずつでも、考えて色々体験しながら教育施設設立という目標に向けて仲間と一緒に頑張っていけたらなと思います!


今回も長々と読んで下さり大変ありがとうございます(*^^*)





まだまだ教育施設設立までは長い道のりですが、少しでも自分たちの想いに共感してくださる方がいらっしゃれば本当に嬉しく思います。そういう方は、是非一緒によろしくお願いします!笑 またいつも応援してくださる方、本当にありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいです。