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「考える力」を育むって本当に大切??(2)


前回の続きです。


今回は、「他者比較」の良し悪しについて考えてみます。

これは、「考える力」を育む時に、無意識に誰かと比較するクセがつくことで、時に「他者よりも優れる必要がある」という無言のメッセージのようなものを無意識的に刷り込んでしまう事もあるのではと自分は感じており、そのため、今回は「他人との比較」が良いのか、悪いのかという点を考えます。

他者との比較が良いのか悪いのか、こういう善悪のような判断には、必ずそこでの文脈・使われ方が大切だと思っているので、実体験や友人からの話から、大きく3つの観点から「他者比較」について考えます。

「比較」した時のじぶんの中で感じる「感覚」
「比較」から生まれる「競争」
「比較」から生まれる「切磋琢磨」



まずは「比較」した時のじぶんの中で感じる「感覚」から


人間誰しも自分の意志があるないに関わらず、自分以外の誰かと「比較」する事(してしまう事)はあるのかなと思います。

ただこの時に比較して感じる感じ方は、人によって違いますが、おおむね「優越感」「劣等感」「一体感」のどれかに当てはまる印象が自分にはあります。

誰かと比較することで、「自分は大丈夫だと安心したり」、「(他の人よりも出来てるし)もうこのくらいで良いか」と思ったり、あるいは「誰かを見下してしまう」など、ある種の「優越感」を通して、色んな気持ちを感じる時もあれば、「自分は全然だめだ」とか、「もっと頑張らなきゃ」と思うなど、ある種の「劣等感」から様々な感情を実感する人もいると思います。

また、誰かと比較することで、「自分はあの人たちと同じだ」とか、「自分一人ではないんだ」といったある種の「一体感」を感じる時もありますよね。自分は結構な寂しがり屋なので、割と無意識に「一体感」を感じるために「比較」してるなと後から振り返って思う事が多々あります。

ただもちろん、これは友人からの話でもありますが、「割と3つ全部感じる時もあるよ」と言っていました。

例えば、「比較して、皆と同じだと安心する時もあれば、違うとそこで、不安になったり、逆に自慢したくなる時もあるよ」と。

このように、これら3つのそれぞれの気持ちが独立している訳でもなく、複合されている場合だってあり、その時の自分の状況に応じて色々感じているのかなと思います。

ここで、「比較」する事が良いのか悪いのかという話に戻して考えてみますと、自分は結局「ハッピーな気分になれるなら良いのではと思っています。※ただし、法律を破るとか、法律は破っていないにしても、一緒にいてくれる人たちが不快になる事を知っているのにやる等はダメですが。

比較することで、嬉しくなったり、悲しくなったり、そういう感情がわくと思うんですけど、「嬉しいならすれば良いし」、「悲しい思いになるのならそれは良くない(=やめた方が良い)」と思っています。

でもそうはいっても、「嬉しくなっている時」はある意味簡単でも、「悲しい思いをした時に比較するのをやめる」ってのは普通に難しいなと思います。少なくとも自分は難しいなと思うんですが、でも世の中にはそれが普通に出来てしまう人(ある意味で自分の感情をコントロールできてる人)もいますよね。友人にも何人かいるのでよく話を聞くのですが、ひとつ「なるほどなぁ」と思ったのが、そういう風に出来る人は「割と小さい時から躾の一つとして(反面教師的な側面も含め)教わってきている」という事でした。

つまり、「自分の心の動きに関して敏感で、何か辛い感覚になったらそれをどうにか無くしたい」と思い、色々と自分の考え方を変えている人が多いなと思いました。

そして、そういう人の中で、多くの人に共通して使う言葉がありました。
よく耳にする方も多いかもしれませんが、それは、「他人は変えられないけど自分の考えは変えられる」という言葉でした。

だれしもみな、「自分」という人間と死ぬまで基本的には付き合っていかなきゃいけないと思うので、やっぱり「自分との付き合い方」、もっと言うと、何か辛い事があっても、「自分を時に叱り、時に自分で自分を励ませる」そんな視点がとても重要だなと自分は思います。

自分とそういう付き合い方が出来るようになるためには、そういう考え方を「人間は身につけることが出来る」という事実をまずは知っておく事、そして、大変ですが継続的に訓練していく事かなと思います。でも辛くても、こういう考え方を身につける事は、とても大切だと思いました。なぜなら、色んな意味で人生に希望が持てると思うからです。そしてきっとそういう人は、他人にも「時に厳しく、時に優しく」接する事ができると思うからです。なので、教育施設をつくる時には、そういう視点(自分は自分の味方であるという気持ち)を大切にできたらなと思っています。

※もちろん「生まれつきの問題」といった先天的な部分もあると思いますが、その辺は専門的なためnoteの趣旨から逸れるので今回は考える要素としては省略します。


また訓練という意味では、教育を受ける子どもたちだけでなく、子どもたちの周りにいる大人もまた、大人になってからでもそういう視点を身につけられるような環境が世の中の空気感としてたくさんあれば良いなと思います。

そのためには、「他人には迷惑をかけないようにしなさい」というよく耳にする言葉だけじゃなくて、「他人の迷惑も受け入れられるように」といった声掛けも時に大切だと思います。「自分も迷惑を掛けないにする、相手も迷惑が仮に掛かっても許してあげる」、そういう空気感が当たり前になれば、優しい気持ちや頑張る気持ちも自然にわいてくるのではないかなと、ふと思ったり思わなかったりしております(笑)

大人になると、(子ども扱いをされていた時よりも)失敗に対してより厳しくなるような印象を持っている自分としては、「失敗を許し、その失敗から学びたいと思った時に、気持ちよくそれが出来る環境」がとても大切だと思っているので、そういう助け合いが普通に出来ればなと切に思います(ただ、これは友人から聞いた話ですが、命がかかる医療の現場とか、他人の人生に影響を直接与えるようなお仕事ではなかなかそれも難しいという話も聞きました。でも彼は同時に、それが出来ている環境もあると言っていたので、皆にとって、そういう風に気持ちよく過ごせる環境が多くあったら良いなと思いました・・・)。

話が逸れてしまいましたが、今回はこの辺にしておきたいと思います。


今回の暫定的な結論は、

「比較」は、自分が元気になるなら良いことだと思う」でした。


次回は、残りの2つの点について考えてみたいと思います。


今回も読んで下さりありがとうございます<(_ _)><(_ _)>



まだまだ教育施設設立までは長い道のりですが、少しでも自分たちの想いに共感してくださる方がいらっしゃれば本当に嬉しく思います。そういう方は、是非一緒によろしくお願いします!笑 またいつも応援してくださる方、本当にありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいです。