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「不安」と「共に」生き抜く力


今回は、「不安」と「共に」生き抜く力について簡単ではありますが、考えていきたいと思います。

初めに、不安をどう克服すれば良いかといった方法論ではないので、ご了承ください。。。



1.「不安」と「共に」生き抜く力とは?


自分は教育施設の設立が目標なのですが、先日ある方からこんな質問を頂きました。

子どもたちにどんな力を育んでいきたいんですか?」「1つだけでお願いします。

なかなか1つに絞るというのは難しいですが、こう答えました。

難しい問題を「難しい問題のまま」取り組める力を育みたいです。」


実は、この言葉、同じ教育施設設立を目指す仲間の1人が言ってくれた言葉です。

自分も以前、似たような問いをその仲間と考えていました。その時に、彼が言ってくれた言葉がそれです。

難しい問題を「難しい問題のまま」取り組める力」とは、複雑な問題や未知の課題に対して挑戦する姿勢のことです。

これを別の言葉でもしも言い換えるとしたら、「不安」と「共に」生き抜く力と言えるのかなと思います。


恐らく、私たち人間は、何か理解できない事や、解決の糸口がつかみにくい問題(学校の課題でも、人間関係でも)などと出会うと、ある種の「ストレス(刺激)」を感じると思います。

このストレス(刺激)が、知的好奇心となるのか、それとも、脅威となるのかは、その人次第だとは思いますが、

自分たちは、「ストレス(刺激)」を「ポジティブなもの」に変換する力だけでなく、「ストレス(刺激)」を仮に「ネガティブなもの」に変換したとしても、そこから逃げるのではなく、時に「受け入れたり」、時に「かわす」力を育めたら良いなと思っています。

「受け入れる」というのは、イメージがつきやすいかもしれませんが、「かわす」というのは少し想像しづらいと思うので、簡単に説明させてください。

※ここでは、自分たちの活動がどこを目指すのかを明確にするためのものであり、言葉の使い方や定義はあくまで言葉遊びみたいなものなので、何が言いたいのか、その違いが伝わって下されば本望です・・・


自分たちは

逃げる=「その問題との関係を終わらせる(罪悪感や拒否反応を感じ、余計その問題が複雑に思える)」   
かわす=「その問題と距離を置く(罪悪感や拒否反応を多少感じるor感じないので、複雑なものを複雑なまま受け止められる)」

だと捉えています。


要するに、その問題に対して自分の感情にとらわれ過ぎずない状態のことです。

(「かわす」という言葉を選んだのも、自分の中でわいてくる感情と無駄にぶつかり過ぎない(でもその感情を否定はしない)というニュアンスを含めたかったから選びました)


人間、何かから逃げてしまったなという場合、大抵、罪悪感や自責の念みたいなものを感じてしまうと思うのですが、そういう自分の中で出てくる負の感情と距離を置いたり眺めてみたり、あるいは、その負の感情の良い部分を生かそうとする姿勢がとても大切だと思っています。なのでその辺は、「自分がどういう時に、どういう事を感じやすいのか」というクセを知る機会をつくる事が大切だなと思っています(それは、不安に押しつぶされないようにする時には、とても大切な要素になると思うからです)。

逆に同じ「逃げた」という言葉を使っていたとしても、罪悪感などをあまり感じない人もいると思います。そういう人は自分たちからしたら「かわした」という感じです。中には、完全に現実逃避して、そういう事すら感じないという場合もあると思いますが、その人が「自分は不幸だ」と思っていない限りはそれはその人を尊重すべきなのではと思っています。

なぜなら、頑張る事だけが、「良いこと・正しいこと」なわけじゃないと思うからです。ただ仮に、その人が不幸だと思っているのなら、「それは良くない!」と、余計なお世話かもしれないですが思ってしまう所はあります・・・汗



2.「不安」と「共に」生き抜くことがなぜ大切か


「不安」というのは、自分を苦しめ、自分の余裕を奪い、時に、人に危害を加えてしまうものですが、


「「不安」と「共に」生き抜く力」とは結局、

「不安に単に耐える」というよりは「耐えられるくらいの不安」にする力

のことだと考えています。


この時に、例えば、物の捉え方を変えるのか、何かしらの行動を変えるのか、あるいは、誰かに物理的・心理的に助けてもらうのかは、色々方法はありますが、最終的に、「「不安」って悪くないよね」とか、「「不安」に振り回されない」みたいな風になると、自分が辛い時にでも、無用な攻撃をせずに、いわゆる、温かみがあったり、建設的な関わり合いが出来るんだろうなと思っています。

自分の周りにも、ちゃんと自分の意見を伝えてはいるけど、相手の気分を害していないとか、(仮に意見が対立していても)相手を一人の人間として認めて、ちゃんと「対話」が出来ているみたいな人がいました。

凄いなと思いつつも、すごく大切な力だなと思います。そしてこれは、誰でも身につけられるものであるし、身につけたほうが良い力だなとも思っています(信じています)。

なぜならそれは、必ず誰かと(共に)生きていかなければならない瞬間が一度はあると思うからです。

もちろん、学校で教わる5教科的な知識も当然大切ですが、同時に、自分に対する知識や、人間の心の動きに関する知識・理解を根本的な「体験知」として、提供できる場も必要で、そういう「体験知」をある種ベースにしながら、色んな知識・技術的な学びが絡んでくると、とても意義深いものになるのかなと思います。

今の話の中では、「知識」と「体験知」は別々で書きましたが、実際の現場では、両方同時にやる(必要がある)事もあれば、別々に行う(必要がある)時もあると思います(その場合は、専門領域が違うお互いが、しっかり理解し合ったり、協力しあう姿勢が大切ですが)。

最終的に年を重ねれば重ねるほど、必ず、誰かと一緒に何かをする必要が出てくると思います。そんな時に、お互い、気持ちの良い時間を過ごせた方が良い(対立を防ぐという意味ではなく、お互い高めあえるとか、相手を尊重しながらも自分の想いを伝えられるとか、対話が出来ると良い)と思うので、そういう力を育める場づくりを行っていけたらなと思います。

「正解」「不正解」ではなく、「共につくろうとする「自分たちの」正解」が大切だと思います。なぜならそれは、自己完結できない「難しい問題」だからです。もちろん中には、そういう意識を持たない方もいると思います。ただそういう時に、「お互いに否定しない」とか「正しさの証明合戦」にならないという風に相手を尊重する意志だけは、トイレを済ませたら水を流すくらいの常識になれば良いなと思っています。

時間は掛かるとは思いますが(死ぬまでに実現できない可能性の方が高いかもしれないですが)、自分たちのライフテーマとして、時に成長して、時に退化しながら、それでも前に進んでいけたら良いなと思います!


今回は、「不安」と「共に」生き抜く力と、それがなぜ大切なのかについて考えてみました。

ちなみに、それをどうやって実践としてやっていくのかという点は、検討中でもありますし、実験中でもあるので、それはまたいつかまとめられたら良いなと思います。

あるいは、何か意見やアイデアがある方がいらっしゃれば、是非コメントの方で勉強させてもらえたらと思います! よろしくお願いいたします<(_ _)>


本日も読んで下さりありがとうございました!!







まだまだ教育施設設立までは長い道のりですが、少しでも自分たちの想いに共感してくださる方がいらっしゃれば本当に嬉しく思います。そういう方は、是非一緒によろしくお願いします!笑 またいつも応援してくださる方、本当にありがとうございます。感謝の気持ちでいっぱいです。