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『百女百様 〜街で見かけた女性たち』はじめに/イベントのおしらせ

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今日7月29日、3冊目の書籍『百女百様 〜街で見かけた女性たち』が刊行されました。

街で見かけた女性の装いから想像を膨らませ、ファッション史を少し辿ったりしつつ、知らない間に決まっていた装いのルールを疑って、明日好きなものを着て生きるための本です。

本の最初に掲載した「はじめに」をここに載せます。


●●●●●●● はじめに ●●●●●●●

 「生まれながらにしてあなたの人生は決められている」と言われたなら、多くの人は(そんなの絶対におかしい、すぐに抗議しなければならない)と思うだろう。しかし「生まれながらにしてあなたの装いは決められている」と言われていることに、私は随分長い間、少しも気づいていなかった。あまりにも自然に決まっていたからだ。 

 一番最初に装いを決定づけるために用いられる指標は性別である。私たちは女児と男児に分けられ、性別によって制服を指定される。大人になれば年齢によって「着られる服」「着られない服」を決められる。職業や役職、シチュエーションによっても細かく制限される。

 「嫌なら着なきゃいいじゃん」というわけにはいかない。私たちが暮らす社会では衣服は生 活必需品だ。裸では家の外に出られない。暑さや寒さをしのぎ、日差しを避け、身体を保護するためにも手放せない。知らない間に決められたレギュレーションに違和感を感じても関係を断つこともできない「装い」。誰も装うことから逃れられない。 

 にもかかわらず、装いはしばしば、とてつもなく気軽に批判される。

 人は身体の上に服を着る。その面積の分だけ身体は服に覆い隠され、その面積の分だけ服は身体の代わりに情報となる。服が物理的には布であることによって「生身の身体を腐している」という罪悪感が薄れる。自分で選んで購入するというシステムによって自己責任論がうっすらと横行する。さらに服そのものが装飾という楽しみを兼ね備えていることによって、もう収拾がつかなくなる。

 収集がつかないまま、「装い」に覆われた「見た目」はなぜか咎めたり、揶揄したり、気 軽にコメントしていいことになっている。ルールやマナーは大義名分となり、批判を後押しする。なまじ目に「見える」ために、自分に「見せられた」ものだからジャッジしてもいいのだと、知らない誰かに思われる。 

 このジャッジが女性にとってごく身近なものであることは、最悪なことに否定しようがない。女らしい。女らしくない。セクシーすぎる。色気がない。スカートが短すぎる。胸元がはだけすぎ。モテ意識しすぎ。ヒールが低い、高い。年甲斐がない。体型を変えろ。目のやり場に困る。このような言葉は、女児に分類された日から、一日も休まず投げかけられる (男児にも「男児」に分類された日から投げかけられる言葉が存在する)。

そもそも「女らしい」という言葉は、言葉として成立するのだろうか。「(いわゆる過去に用いられてきた)女っぽい(要素が多く含まれている)」なら理解できる。文脈の引用だからだ。しかし「らしい」という表現を使った途端、全ての女には、生まれつき女を女たらしめる確固たる要素が備わっており、それを正しく露出させることを無条件に褒めるようなニュアンスが滲んでくる。 

 さりげないふりをして実は頑ななジャッジを見かけるたび、私はいつも疑問に思う。

 ――なんで正解があるみたいな感じになってんの?

 おそらく、この「なんで?」に答えられる人は、厳密には地球上に存在しない。「こういう理屈で、こういう経緯で、決まったんですよ」と答えたとしても、「なぜ決まったのか?」 「なぜその『正解』を正解として捉え続けなければならないのか?」と聞き続けていくと必 ずどこかで答えに詰まることになる。本当は決まってなどいないからだ。決めたのは、いつかのどこかの誰かに過ぎない。たった今生きている自分と同じ、人間に過ぎない。人類が勝手に設定した正解に、人類が従わなければならないと思い込んでいるに過ぎない。 

 「いや、絶対に従わなければならない!  だって、人間は社会的な生き物だ。社会に合わせて生きるべきだ!」という意見も尤もだ。そしてその意見が尤もなら、社会の方が人間に合わせて変化してもいいはずではないか。
そんな風に思い悩みながら街に出て、ふと顔をあげると、勝手に決められたレギュレーションなんて存在しないかのように自由な装いの人を見かけることがある。生きている人の生きている装いは、私が勝手にジャッジできないほど、いつも瑞々しい。

 この本はファッションの本ではない。街を歩く彼女たちが未来永劫、その人生を終える日まで、益体のないジャッジに直面しませんようにと勝手に祈るための本である。祈りながら、「ああ、やっぱり、好きなように装うのはいいな」と噛み締めるための本である。

 そして「明日何を着ようかな」と、何ひとつ心配せず、明るく悩むための本である。


●●●●●●● 目次 ●●●●●●●

はじめに

第1章 脱規範 〜ルールを無効化する女性たち
【日本・本郷三丁目】 すっぴん&ミニスカートで何でもない日を歩く
【アメリカ・ハワイ】 派手な水着は視線を集めるためのものとは限らない
【日本・新宿】 モテのためじゃなくてただ好きな色、ピンク
【韓国・インチョン国際空港】スウェットは勝利のためのフォーマル・ウェア
【中国・青島】 おばちゃん=生活=日常=モブ、の連想ゲームは遥か遠く
【特別編】 瀧波ユカリさん
 私が私であることを証明してくれる、愛すべき「ヘン」な柄たち

第2章 偏愛 〜好きなものと暮らす女性たち
【日本・渋谷】 ロリータとレトロモダン着物、非日常を日常に引き寄せる
【日本・大阪】 異国趣味は文化の盗用か?(←一周回って傲慢?)
【フランス・パリ】 毎日の暮らしの中のリアルvsフェイクファー論争
【フランス・パリ】 「ココ・シャネルのように」パールを纏う、新しい方法
【日本・神戸三宮】 見えても見せても見せなくても、下着は私の衣服
【特別編】 難波里奈さん
 平成の終わりから見た、昭和の文化。
 ゆめこちゃんが開いてくれた純喫茶と古着への扉

第3章 装備 〜戦い生き抜く女性たち
【日本・大阪】 ファッションウィッグで身体を拡張して仕事へ行く
【日本・大阪】 大阪のおばちゃん、ヒョウ柄で人生をサバイブする
【日本・京都】 「リクルート・スーツの就活生は没個性的」と言うけれど
【フランス・リヨン】 ただイケてるだけの白いドレスを、いつかの大安吉日に
【日本・千葉】 女の人って「やっぱり」作業服とか着るの嫌でしょ?
【特別編】王谷晶さん
 「若い女」の呪縛と戦うために武装した20代から解き放たれて

第4章 脱境界 〜好きなようにする女性たち
【日本・大阪】 時をかけるiPhone 3G と男物の浴衣を着た少女
【アメリカ・ハワイ】 髪が女の命なら、坊主頭では生きていけないことになる
【日本・吉祥寺】 頭から足先まで黒ずくめ、おしゃれもダサいも塗り潰せ
【フランス・パリ】 スカートを履くのは、はたして「女」装なのか!?
【日本・九段下】 ハイヒールを脱ぎ捨てて誰にも見えない靴を履く
【特別編】 牧村朝子さん
 「ちゃんとした」女像・レズビアン像から脱却し、
 系譜を受け継いでいくための和男装

【特別編】 はらだ有彩
 間違いだらけの変身願望、
 間違いようのない私だけのメタモルフォーゼ

おわりに


●●● 刊行記念イベント情報 ●●●

[8/9 オンライン・トークイベント]
はらだ有彩×瀧波ユカリ《私が私でいるための「装い」》
日時:8/9 (日) 17:00〜19:00
          ※アーカイブは、配信終了後、8/23(日)23:59まで視聴可能
場所:オンライン
料金:1.800円

勝手に装いをジャッジされること、自分で自分や誰かをジャッジしてしまうこと、自分らしく装うことについて瀧波ユカリさんとお喋りします

詳細・購入

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『日本のヤバい女の子』(柏書房)四刷/『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』(柏書房)/ウェブメディアでの連載、雑誌への寄稿をときどきさせてもらっています