クラシック音楽の多層性、そしてピアノ

今朝たまたま、ショルティ指揮シカゴ響の「展覧会の絵」(1980年録音)を聴いていたのですが、上手すぎる金管による演奏ってこうなるのかぁと、ベタに感動し直す自分がいました。終曲「キエフ(キーウ)の大門」は仰々しくなくどこまでも神聖。天から射す光のように伸びやかな管楽器のアンサンブルに対し、弦楽器はどこか人間味を添えるような奥行きを感じさせるハーモニー。

 やはり西洋音楽の長い伝統がもたらす迫力の一つに、そうした響きの多層性は中心軸の一つであるなぁと感じます。オーケストラのようにリアルに音色の異なる響きの多層性のみならず、ルネサンス期より連綿と続くポリフォニーの構造美にしてもしかり。それを味わえる喜びこそ、クラシック鑑賞の醍醐味かもしれない。

で、翻って、今若い人たちのピアノのコンクールが真っ盛り(ピティナ・ピアノ・コンペティション)で、それにちなんだお話ですけれども、そうした伝統的な響きの多層性を、豊かにリアルにイメージしながら”たまたまピアノで再現している”風な演奏ができるピアニストの方たちが少しずつ増えている気がして、素敵なことだと思っています(多数派とはいいませんけれども)。

楽器そのものの習得は、集中的かつ長時間の鍛錬がどうしても必要だけれど、「ピアノだけに特化してきた」わけではなく、同時に、いやむしろそれ以前に、「多様な音楽の聴取体験を積んできた」ことは、きちんと演奏に表れるんですね。
(逆を言えば、「ピアノだけをみてきた」人の演奏もわかってしまう。モノクロとまでは言わないけれど、多彩な画材がこの世にあるのに、同じ色鉛筆セットだけを使っている印象とでもいいましょうか。上手なんだけど、あくまでも“ピアノの音楽”を意識させられてしまう)

音楽を知る、歴史を知る、そういう情報にアプローチしやすい世の中ではあるけれど、正しくアプローチすることもやはり大切ですね。

というわけで、私も私の仕事をがんばります!(よくわからないまとめ)

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