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先生、あのね。絶対にだれにも言わないで……

20年近く前になるが、わたしはあるまちの学童保育でアルバイトをしていた。バイトの同僚たちは、子育てを終えた4、50代の主婦か、大学生のどちらかで、当時20代後半だったわたしは珍しい、中途半端な年齢だった。しかも子育て経験はない。さらに、運動が大嫌い。鬼ごっこなんて絶対にやりたくない。当然サッカーも無理。
インドアな要員に徹しようとしても、将棋も囲碁もわからない。トランプとUNOとオセロは、なんとかなった。ただ、困ったことに、わたしは負けるのが嫌いだった。対戦相手がたとえ小学一年生だとしても、手加減をしない。わざと負けるだなんて相手に失礼なこと、わたしにはできなかった。他のバイトや職員がわざとオセロで負けてやられた~と悲鳴をあげて子どもを喜ばせているのを横目に、わたしは容赦なく四つ角をとり、コマを自分の色にひっくり返していた。
小学生は言った。
「先生、つまんない」「大人なのに……」
そしてだれもわたしにオセロを挑まなくなった。
バイトの大学生たちは教員志望が多く、小学生と一緒に校庭を駆け回り、体によじ登られても優しく投げ転がし、全身で楽しくってしょうがないという熱気と笑いを拡散して、子どもたちとおおいに遊ぶ。
(ごめん、それ、わたしには無理。年齢や体力だけでなく、性格的に……。)
子育て経験のあるベテラン主婦は、小学生と女子トークをしたりせっせと手仕事をしたりする。わたしは女子トークが大の苦手だ。針仕事もダメ。
そんなものだから、わたしはバイト先で、ぽつねんと一人遊びをするようになった。早々にクビになるかと思いきや、当時は予算が潤沢だったようで、希望のペースでシフトには入れた。
わたしと同じように一人遊びをする子どもと、同じ長机で別々に遊んで過ごした。ほかのバイトは話しかけたりちょっかいを出すので子どもが嫌がるのだが、わたしの場合ただ黙って横にいるだけだから、そういう性質の子どもにはちょうど良いようだ。とはいえ、大人のわたしに学童保育での一人遊びが楽しいわけがないので、よく周囲の様子を見ていた。
子どもとしっかり遊んでしまうと大人もだんだん夢中になって周りが見えなくなってしまうので、わたしのようになんとなく全体の動きを見ている存在は、実は職員からありがたがられた。子どものケンカがあったとき、どっちが先に手を出したかより前の、小さなこじれを目撃していることがわりとあるから。
職員うけは良くても、子どもうけはさっぱりだ。そうなるとやはり肩身が狭くなる。もっとがんばって、フレンドリーな大人を演じるべきだろうか。自分のような性格は、子どもと関わる仕事に向いてないのだろうか。
悩み始めたある日……。
外遊びの時間がきて、いつもなら他のみんなと一緒に庭に出て行く女の子が、珍しく一人で部屋に残っていた。静かに絵を描いている。
「行かないの?」ときくと、「いいの」という。絵を完成させてから外にいきたいのかもしれない。子どもを一人だけ部屋に残しておくのも良くないだろうと思って、わたしは長机のはしっこで絵を描くふりをして、その子が描き終わるのをぼんやりと待つことにした。その女の子は同学年の子より体が小さく、活発だけれど気が散りやすく、たまにとんちんかんな行動をするので「気にかけて見る子」の一人だった。
その子は10分くらいかけて絵を描き終えた。すると、もう一枚紙をとってきて、また次の絵を描き始めた。
「外に行かないの?」ときくと、「うん。絵を描きたいの」と言った。
珍しい。きょうは体の具合が悪いのかな? 描いている絵はごく平凡な女の子の描く絵。どうしてもいま描かなくてはならないような切迫した絵ではない。ま、いいか。この子の気がかわるまで、ここにいよう……。
わたしはその子と同じ長机で、ひたすら黙々と「縄カケ」を描いていた。マンガに使うスクリーントーンが高価だった子ども時代、網カケや縄カケをきれいに描くことは憧れだったのだ。
すると、その子がだんだんわたしのほうに、10センチ20センチとにじり寄ってきた。気づいていたけど、そのままでいた。すると、その子は体がくっつきそうな距離で言った。
「ありりん先生、あのね。絶対にだれにも言わないでね」
「なあに?」
「絶対にだれにも言わないで」
「わかった。言わないよ。どうしたの?」
「パパが妹を叩くの。妹はまだ赤ちゃんなのに……叩くの。まだちいちゃい赤ちゃんなのに」
その女の子は小さな声で、突然涙をポロポロ落としながら、言った。
「先生、絶対にだれにも言わないで」
虐待だ。わたしはかなり動揺した。次にどんな言葉をかけたらいいのか、言葉を探す。自分が子どもの時、親の報復が怖くて家出すらできなかったことを思い出す。訊きすぎてはいけない。この子の親を批判してはいけない。親を非難したら、わたしはこの子の敵になる……。
「わかった。言わないよ。パパはあなたのことも叩いたりするの?」
「わたしは叩かない。妹を叩くの。まだ赤ちゃんなのに……」
「赤ちゃんなのに叩くの? それはかわいそうだね。悲しいね。叩かないで欲しいね」
「うん……悲しい。叩かないで欲しい」
その女の子は、そのとき二年生だったと思う。
わたしは次の言葉を待った。でもその子はそれ以上話さなかった。3分もしないうち、お絵かきを途中でやめて、「外に行ってくる」と部屋から出て行った。とてもすっきりした顔をして。
窓から庭をみると、その子はすぐに友だちの外遊びに加わって、いつものように走り回っている。
どうしよう? 作り話かもしれない。でも、本当かも。
だって、わざわざ、そんな嘘をつく? 
だれにも言わないって約束をした。子どもとの約束を破っていいの? でも黙っていたら、取り返しのつかないことになるかもしれない……。
わたしは迷いながら、隣の部屋で事務仕事をしていた職員の前に進んだ。
「あの、いまお話ししてもいいですか。○○ちゃんから、だれにも言わないでって言われたんですけど……」

職員に伝えながら、涙があふれてきてしまった。あの女の子は、どんな気持ちでいたんだろう……。

「あの子の話を聞いてくれてありがとう。しっかり教えてくれてありがとう。あなたは正しいことをしてくれました。職員には通告義務があります。あとはこちらで対応します。もう大丈夫ですよ」

職員は言ってくれた。

次のバイトのシフトのとき、職員はそっとわたしに「適切に対応することができました」と話してくれた。

「あの子は、あなただから心をひらいたのよ」とも言ってくれた。

そうか。あの子は、わたしを選んで話してくれた。明るくて楽しい大学生のお兄ちゃんお姉ちゃんでもなく、優しいおばちゃん主婦でもなく、そして常勤の職員でもなく。いつもぽつんといるだけの「暗い」わたしに……。

そうなんだ。いろんな大人がいていいんだ。子どもと接する大人が、明るく活発で、常に子どもを楽しませる人気者の大人でなくてもいいんだ。他の大人と同じような大人でなくてもいいんだ。
わたしのような大人でも、必要にしてくれた子どもはいるんだ……。
あの子の異変を、察知できて良かった。
あの子の切実な言葉に、実はわたしも救われていたのだ。

話してくれて、ありがとう。
だれにも言わないって約束を破ってしまって、ごめんね。本当にごめん。あなたを守りたかったから……。守れて良かった。

その後、あの女の子は、わたしになにも言ってこなかった。
いつも友だちの中にいて、楽しそうに笑って、外で元気いっぱいに走り回って遊んでいた。


 


支えられたい……。m(_ _)m