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蟻の半生

はじめまして、蟻です。
X(Twitter)で自分の事を話すとどうしても長文連投になってしまうので、noteにまとめて書く事にした。
…まずは自己紹介でもしようか。

成人済、女、一人暮らし、アラサー、独身。
発達障害(ADHD+ASD併発)、うつ病、不眠症、パニック障害、不安障害、希死念慮と癇癪持ち。
彼氏と呼べる存在はいるが、遠恋中かつ彼が仕事に追われているのでもうずっと会えていない。彼は元気だろうか。

仕事

本業としていた知人の店の手伝いは、このnoteを投稿する前日に辞めた。
飲食業で、元々自分に向いていなかったのもあるが、8月末から1日も仕事に呼ばれない日々が続いていて精神的に限界だった。
コロナ禍になる直前から手伝いに行っていたのでそこそこ長い付き合いだったが、後腐れなく「今までありがとう」とオーナーが見送ってくれたのは救いだった。
今後は副業のイラスト・デザインの制作をしながら、B型作業所に行って最終的には社会復帰を目指そうと思っている。
この辺りは今後の動向次第なので割愛する。

家族

ここが私の人生における全ての元凶であり、今一番抱えている問題である。
実家は毒親(過干渉タイプ)+母・祖母の嫁姑問題が酷い家だった。

中学2年生ぐらいの時、母の家出に何度も無理やり連れだされた。
母の友人の家や親族の家に転がり込む→深夜に父が迎えに来て深夜2時頃に帰宅→次の日朝イチで何事もなかったかのように学校に行く日々が続いた。
一番酷かった頃は母が学校に直接電話をかけてきて、私は校内放送で職員室に呼び出されて恥ずかしい目に遭った事もある。
電話は母の家出についてこい、という内容だった。授業中にわざわざ学校に電話をかけてくるなんて、身内の不幸くらいしかないと思っていた。友達に「どうしたの?」と聞かれても、家出の事なんてどう言えばいいか分からなかったので適当に濁すしかなかった。
祖母は祖母で私に母の愚痴をよくこぼしていた。
母も勿論私に祖母の愚痴を吐き出していた。
気が付けば私は、双方の愚痴の聞き役として、ずっと板挟みにされていた。

高校は県内でも人気の商業高校に入学した。甲子園出場経験もあり、そこそこ有名な学校だった。
私は、本当はレベルは低いがデザイン系の学科のある高校に行きたかった。だが両親から「そんな所に行っても就職が苦しくなるだけだ」と言われ、何も言い返せなかった。そして幸か不幸か人気の学校に合格してしまった。
両親は大喜びして周囲に自慢していた。そりゃそうだろう。プロ野球選手も排出しているような学校だ、そこに娘が入学できたとなれば自慢したくてたまらないだろう。
…この頃から不眠症だったが、幸い商業高校は資格試験がそこそこの頻度であったので、眠れなくても「もう少し勉強したいから」と言えばだいたい親を誤魔化す事ができたので、そこだけは助けられた。
高校3年間で全商1級4冠。5冠まで取れたらワンランク上の人間になれたが、そこまで出来た人間ではない私はここが限界だった。

中学の頃からずっと家を出たかった私は、大学進学を機に愛知に上京した。
本当は東京のデザイン系の専門学校に行きたかったが、ここでも両親から東京・大阪はダメだ、専門学校ではなく大学へ行けと言われ、渋々愛知県内で進学先を探し入学した。
(ちなみに蟻は北陸地方の生まれである)

そしてここから蟻の人生は奈落の底までゴロゴロと転がり落ちていく。
高校が普通科ではなかったためセンター試験…今は共通テストだったか…を受けていない推薦勢だったので、基礎学力がそもそも大学のレベルより低かった。
当然授業についていけない。結局大学は1年で辞めた。
ただ、どうしても実家に戻りたくなかった私は、名古屋の2年課程のある専門学校へ入学した。広告も校舎も目立つ某専門学校である。
そこでついに不眠症が爆発、2年目からはほとんど午前中の授業に出席できず、就活して内定も一応貰えたが、結果を聞いても全く喜ばない私を見た担任から「病院でしっかり見てもらえ」と言われ、精神科に行ったところ適応障害の診断を受けた。結局1年留年し、夜間部に編入してなんとか卒業だけする形となった。

ブラック企業への就職

夜間部編入中も就活をしていた私は、秋から「昼間に仕事に来れる女性デザイン職希望生を一人探している」という会社にバイトとして働き始めるようになった。
とりあえず受けるだけ受けてみるか、と面接に行ったら、その場で実質採用というくらいすぐに就活は終わった。どうやら先輩にあたるデザイナーが出産での退職間近で、急ぎで新しい人材が欲しかったらしい。

そして春、正式に正社員になった。最初は順調だったように思えたが、一つ気がかりな事があった。
残業代が、1円も貰えていない。
もしもの時に備え、私は手帳に毎日の出勤・退勤時間をメモする習慣をつけ、給与明細も全て保管した。
この頃から朝起きれず、夜眠れない日々が続く、適応障害と診断された当時と似たような状態になっていった。
新人の歓迎会でヤケ酒し、駅で倒れ、駅員にタクシーを呼んでもらって帰宅した日もあった。

そして年が明けた最初の出勤日。
出勤できなかった。家を出ようとすると震えと涙が止まらない。すぐ病院に行った。
「とりあえず今週いっぱい休みましょう、3日間だけですが診断書書きますね」と言われ、それを片手に休んだ。
そして週明け、診断書を持って出社したら、社長から一言。
「もう来なくていいから。あ、保険証返してね。」
予告なしの即日解雇だった。
奇しくも弟の誕生日と同日であった為、この日は一生忘れられない日となってしまった。
…でもこれだけで終わらなかった。
通常、即日解雇されたら30日分の給与を支払う義務が会社には生じるはず…なのだが一銭も貰えなかった。
勿論今までの残業代も貰っていないので労基署に行った。
幸いこちらには金額が1円も変わらぬ給与明細と出退勤のメモを記録した手帳がある。それを見せたら「とりあえず内容証明郵便で書類書いて送りましょう」と言われた。その通りにした。
そしたら会社から逆に「お前を訴えるぞ」と脅された。…何故?法を犯しているのはそちらなのだが…?
さらに当時の私はTwitterで周囲にどうしたらいいか情報を貰いながら逐一状況をツイートしていたため、会社関係者にアカウントを補足されてしまい、私の本名を使った捨て垢で私のフォロワーに迷惑行為までされてしまった。

ブラック企業とはここまで腐っているものなのか、と今でも思う。
コロナ禍で大打撃を受けた業界ではあるので、その災禍に巻き込まれて潰れていてほしいと願うばかりである。

無職期間、知人のツテで再起動、矢先のコロナ禍

とにかく生活の為に次の仕事を探さなければ、とハロワに通うが悉く失敗。
そして適応障害からうつ病へと病名がランクアップした。
障碍者手帳もこの時に申請し、3級を取得した。
せめてバイトだけでもやらねば、と30件は応募したが、全て落ちた。
結局年明けにクビにされてから1年近く無職だった。
年末、知人から連絡がなければ、この時私は自害していたと思う。

年末に知人から「店の手伝いやらない?年末年始忙しいのと春に大学生のバイト達辞めちゃうんだよね~」と言われ、藁にも縋る思いで店に向かった。最初は仕事の忙しさややる事の多さに目が回っていたが、なんとか月収も正社員の頃と変わらぬ額を稼げた。

そんな矢先の出来事だった。コロナウイルスの流行。
観光地にある店だった為、お店も大打撃、2か月休業と言われまた実質無職になる。
他の仕事を探そうにもどこも募集しておらず、苦し紛れに「次の仕事が見つかるまででもいいから、」とオーナーにお願いし、コロナ禍は休日知人の店で働き、平日は日雇いの仕事に行く事でなんとか凌いでいた。

日雇いの打ち止め、発達障害の判明、現在

気が付けば2023年の夏が終わろうか、という時期。
日雇いの派遣元から「蟻さんの今の勤務時間だと、今後のお仕事紹介難しいんですよね」と言われてしまう。
どうやら何かしらの理由で週40時間以上日雇いで働かないとダメになったらしい。
土日祝は店の手伝いに行かねばならない為、どう考えても体力的に無理だと思った私は日雇いを辞めざるをえなかった。
そしてこの時に「少しでも生活費の足しになれば…」と、イラスト・デザインの仕事をネットで募集し始めながら、休日は店の手伝いに行くという勤務形態に変わった。
だがこれでは1ヵ月の生活費が賄いきれない。
足りない分は親にお願いして支援してもらう他なかった。

そんな状況が続いたある日、病院で発達障害の可能性があると言われ検査を受けた。
結果、私はうつ病・不眠症の他にADHD(特に私の場合は衝動性が強い)+ASDの併発型、という発達障害も持っている事が判明した。
他にも付随してパニック障害だの不安障害だのはあるが、この辺はまだ薬を飲めば解決できるのでどうにかなっている。
でも発達障害に関して、とりわけASDに関しては薬がない。

私は親に発達障害であることを伝えた。
だが親から私に対する見る目はどんどん悪い方向へと向かっていった。
私自身話をうまく伝えられない+親も精神疾患に対する理解が希薄というコンボにより、現在に至るまで親に生活費の支援をお願いするたびに口論が発生するようになってしまった。
私はただ、私の病気について少しでもいいから自分なりに調べるなどしてほしかった、理解まではしなくていいから「こういう症状をもっているんだ」と認識だけでもしてほしかった。
だがそこがうまくいかない。何度説明しても、直接会って話をしても、私がこうしたい、こう考えている、という意見に対して「金を出してるのはこっちなんだぞ」と言わんばかりに両親は自分達の意見を勝手に言い始める。

そして私は、親子LINEグループを抜けた

これを投稿する前日、ずっと続けていた店の手伝いを辞めた事を伝えた。
結果、最終的に口論に発展するいつもの流れになった。…もうこれ以上、親との話し合いは無駄だと感じた。
金銭的な支援が嫌なら「できない」と言ってくれれば私も生活保護を受ける事ができるのだが、親が世間体を気にしているのか「自分達で支援できるうちはする」との一点張りで話を聞いてくれない。

私は生活苦だろうが、生活保護を受けようが構わない。
私は今までずっと自分の心というものを押し殺して生きてきた。
だから、これからは貧乏でも自分らしく生きていきたい、その為に、ただ一言「頑張れ」と背中を押してほしかった。
それだけ。
たったその一言が欲しかっただけなのに。

最後まで両親はその言葉を言ってくれなかった。
理由は「うつ病の人間に頑張れは禁句だとネットで見たから」だった。
両親からしたら、私の発言よりもネットの一般論の方が信用できるのだろう。
私の言葉は、そんなに薄っぺらい、信用できない言葉なのだろうかと、悲しくなった。

昨日、送り合った口論のLINEを読み直しては泣き続けた。
私が発達障害なばかりに、言い方が悪かったのか、私が両親の意見を読み間違えたのか、そう思って何度も何度も読み直した。
でも最後までどこで間違えてしまったのか、私には分からなかった。

そして、このLINEグループの存在があるから私も親に依存してしまうんだ、と決心した。
ここで断ち切ってしまえば、親もこれ以上は支援しないと言ってくれるかもしれない。
そう思ってLINEグループを抜けた。

これ以上、何をどう話しても私の考えなど聞いてはくれない。
何を話しても無駄。
必要な連絡は個別に連絡すればいい。
わざわざグループで話す必要もない。

私は両親の事を毒親だと思っている。
いくら説得しても、毒は毒のままであるなら、私が毒から離れていくしかない。

辛いか辛くないかで言えば、とても辛い。
母と祖母の喧嘩を見ていた頃からずっと、私の気持ちは変わらない。
本当は、家族全員、仲良くあり続けてほしかった。

でももう何もかも戻れない所まで来てしまった。
これ以上の関係修復は、きっと無理だろう。
誰のせいかと言われたら、きっと誰のせいでもなくて、誰もが悪いのだと思う。


しばらくはこの件について悩み続けると思う。
でも過去はやり直せない。それは身をもって何度も体験している。
前を向いて歩いていかなければ。
そして私は、このnoteを書きながら、頓服薬を1シート飲んで、泣きながら書き終える事にした。

また各時点での嫌な記憶や思い出話、今後の生活については、追々noteに書き散らそうと思います。