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愛しい距離——ハナレグミ「家族の風景」は僕の免罪符

特に予定のない日曜日の午後、昼下がりから夕方にかけて聴きたくなる曲がある。

永積タカシはめちゃくちゃバラードが上手いと思う。スーパーバタードッグもハナレグミもあんまり曲を知らないけれど、「サヨナラCOLOR」は死ぬほど聴いた。

この曲のメロディも、聴くたびにじんわりと涙腺が緩む。AメロとBメロのみで構成された、循環型のシンプルなバラード。だからこそ一層、日常に潜むじんわりとした幸せを感じさせるのではないかと思う。

そして、何より歌詞が好きだ。

歌詞の捉え方は人それぞれだし、永積タカシが詩に込めた意味を調べたこともないが、この歌はまさに最大公約数的な家族の風景を、美化することなくあるがままに表現していると思う。

キッチンにはハイライトとウイスキーグラス
どこにでもあるような 家族の風景
7時には帰っておいでとフライパンマザー
どこにでもあるような 家族の風景

今の時代、もはやキッチンにハイライトとウイスキーグラスなど置いている家も珍しいかもしれないが、永積タカシと僕は同い年(1974年生まれ)だし、「7時に帰ってこい」と母親から言われるのなら、この歌はおそらく小学生ぐらいの視点で描かれている、あるいは小学生がいる家族を第三者の眼差しで捉えていると考えるのが自然だ。その世代、年代であれば、“どこにでもあるような”風景と言えなくもない。

しかし、「どこにでもある家族の風景」を最も凝縮しているのはBメロの部分だ。

友達のようでいて 他人のように遠い
愛しい距離が そこにはいつもあるよ

これ以上絶妙に家族の関係性を言い表しているものがあるだろうか。

当たり前のように一緒に食事をし、同じテレビを観て笑うかもしれないし、チャンネルを奪い合うかもしれない。一緒に遊ぶかもしれないし、喧嘩ばかりしているかもしれない。

学校や会社や人間関係のことでどれだけ悩んでいても、家族は全くそれを解決してくれないかもしれない。けれども、そんな時だって風呂上がりにパンツいっちょの姿をさらけ出すことができる。

一緒に遊ばなくたっていいし、何もしゃべらなくてもいい。ただそこにいるだけで安心できる。でも、安心していることなど普段は全く意識しない。

そんな距離感こそがまさに「家族の風景」だなと、三人の娘を持った今は余計に感じる。

僕が人生の40年ぐらいをかけてようやく得られたその実感を、永積タカシはたった2行32文字で表現しているのである。

自分にとっての“免罪符”的な名曲

家族は守るべき存在だけれども、僕は子供のために自分の全てを犠牲にするのである、と考えたことはないし、実際かなり自分のやりたいことばかりやっている。子供たちと遊ぶのも決して得意ではない。気づけば子供に対して厳しくあたってばかりいる。

娘の同級生の父親などが、全力で子供たちと遊び、子供たちが喜んでいるのを見るにつけ、後ろめたく感じる時もある。

しかし、この曲を聴くたびに、そんなウチでもきっと、子供たちにとって幸せな家族の姿を内包できているんじゃないか、と感じることができるのである。

まあ、結局のところ、それは子供たちをないがしろにしていることに対する言い訳なだけかもしれない。そして実際にそうだったとしても、娘たちがそれを実感するのはまだもっとずっと先だと思うけれど。

そんなことを、バルモラルビーチの砂浜で遊ぶ子供たちを遠巻きに眺めながら考えた、(日曜日ではなく)土曜の午後だった。

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