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辛い出来事を何度も思い出すのは、自分への慈しみが足りていないのかもしれない

11月から在宅勤務による運動不足解消のため、長女の小学校登校に付き合うついでにウォーキングを始めました。
毎日の忙しない思考を休める意味でも、音楽を聞いたり耳読書したりしないでマインドフルに歩くようにしているのですが、先日歩きながらふと頭に浮かんだことがあるのでまとめてみたいと思います。

昔の嫌な思い出

ウォーキングしながらふと思い浮かんだこと。それは昔の嫌な思い出。
具体的には2つあります。
1つは20代後半で当時結婚を前提に付き合っていた彼氏に振られたこと。(別れて1年もしないうちに相手は結婚して父親に)
もう1つは2人目妊娠時に当時の上長との信頼関係が崩壊したこと。(試すようなことをされて信じられなくなった)

自分にとってはどちらの経験も当時は頭がおかしくなってしまうんじゃないか、と思う程毎日そのことばかりに囚われて、消えてしまいたい、と思うくらい沈んでいました。

度々蘇る辛い過去

ライフキャリアの棚卸しをするたびに、この嫌な苦々しい過去を思い出します。

しばしば「その時の辛い経験があったからこそ、今の自分がいる」という言葉を耳にしますが、そのことを「その辛い経験をよかったと捉える」と解釈して、今の自分を肯定するために当時の辛い出来事を「よかった」こととして捉えようと何度もしてきました。

しかしどうしてもその出来事を手放せず、関わった人を許せずにいる自分を見ては、なんて心の狭い未熟な人間なんだ、と自分を責めていました。

無理に肯定する必要はない

そんな中、先日の朝ウォーキング中にふと過去の辛い出来事を思い出した時に、頭にこんな問いが浮かびました。

「そもそも肯定する必要があるのだろうか?」

そう自問した時に、「その時の辛い経験があったからこそ、今の自分がいる」という言葉はその辛い経験をありのまま受け止めて、痛みを感じ、痛みを受け入れた上で前を向いた自分に対する労りの言葉なのではないか、と思ったのです。

そして自分を労るのに、相手を肯定する必要はない、ということにも気付きました。
その出来事があってよかった、あの時あの人がこうしてくれてよかった、と肯定することとは別。

今までここが分離できずごちゃ混ぜに捉えていて、苦しい気持ちを抱え続けていたのだと気づきました。

出来事をあるがままに受け入れることと、無理に肯定的に捉えることは全然違う。

よく「物事をポジティブに捉えよう」と言われるけど、きっとやるべきことはポジティブに捉えるのではなく「ありのままに捉える」こと。

ありのままに捉えて、傷つきながらも受け入れ自分を癒し(セルフコンパッション)、そこで初めて他者を許すための入口が開くのだと腹に落ちました。

セルフコンパッションで自分を癒す

今まで辛い出来事があった時に傷ついた自分をあまりケアしてきませんでした(というかケアの仕方が分からなかった)。

自分が癒されていなければ、辛い出来事や他者のことを受け入れる余裕もないですよね。

それなのに、表面だけよかったことにしようとすれば自己矛盾が生じ、その矛盾がしっくりこないモヤモヤの原因になります。

自分がやっていたのはこれだったんだな、と整理がつきました。

今はセルフコンパッションというツールを手に入れ、傷ついた自分をあるがままに受け入れ、自分に慈しみの言葉をかけることができます。
もしまた打ちひしがれるくらい辛い出来事が起きた際は、セルフコンパッションで自分自身をしっかりとケアしたいと思います。

「あの時は辛かったね。でも頑張って前に進んだね。あの時の私、ありがとう。」

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