なぜ日本企業の人的資源管理はイケていないのか~Because everything is connected~
人的資源管理(HRM)の本を2冊読んだ。
どちらも教科書的に(日本の)HRMについてコンパクトにまとめてくれていて読みやすい。
しかし自分のキャリアをそこに当てはめてみようとするとなかなか難しくもある。
ぶっちゃけインターネット業界に失われた20年なんてなかった
私が社会人になってから大方生息してきたインターネット業界というのは、いわゆる日本の企業社会というところから見ると大分けったいなところだったのだな、という相対的な視点を与えてくれる読書体験だった。
インターネットだのソシャゲだのというところはなにせ成長してきたし、常に変化しているし、その変化の波に乗った企業の破竹の勢いも、乗り損ねた企業の没落っぷりも半端ない。
必然的に、企業の内部での人員調整などは早々にあきらめて、業界全体で人的資源の流動性を高めてエコシステムを構築しなければ対応はできなかったということなのだろう。
私は現在のトライバルメディアハウスで4社目だがこれまで勤めた会社はいずれも5年以上在籍している(7年以内に転職している)。
「毎回腰を落ち着けて働かれるんですね」と近しい業界の方々は言ってくれるのだが、少し離れた業界の(つまり終身雇用&年功序列の一般的な日本の企業にお勤めの)人事の方等からするとあまり信用ならないキャリア、ということになるようだ。
そんな少し他人事感のある感想を持ったりしたのだけど、これは別に他人事ではない。成長産業はいつか成熟産業となり、衰退産業になっていく。インターネットもいつかは。
あの頃の日本はすごかった(過去形)
今回読んだ2冊はいずれも21世紀になってから書かれた、または改訂された書籍なので、失われた20年らしい、変化への危機感が滲んでいる。
しかし、一方で私はこれらを読んで「じゃぱん・あず・なんばーわん」な時代に思いを馳せることもできた。
あの高度成長からバブルにいたるまでの時代に社会人をやっていた人たち、相当楽しかったんじゃなかろうか。
世界中で必要とされているモノを生産・販売しまくることに最適化した、社会構造と、法規範と、経営戦略と、組織構造と、人的資源管理の三種の神器(終身雇用・年功序列・企業別労働組合)と、、、全てがかみあっていた時代が、かつてこの国にあったのだ。
しかし時は移り、「なにか」が変わって歯車は噛み合わなくなってしまった。
私たちは過去に力強くなめらかに動いていたらしき機械の軋む音を聞きながら、時に止まっている箇所を見つけては原因はわからないながらとりあえず叩いてみたり、時に明らかに壊れている部品を見つけては本来そこに取り付けるべきではない部品に応急的に付け替えてその場を凌ぐことを繰り返すような、そんな時代に生きている。
TPAで学ぶ前、社会の閉塞感は感じつつも私はインターネット業界の人だと自己認識していたので、「なかなか面白い時代に生んでもらえたものだ」とどこか他人事のように思っていたのだが、社会の閉塞は実は私と隣り合わせでもあったのだということが最近感覚としてわかりつつある気がする。
変わってしまったのはなにか?
この国の歯車を噛み合わなくしてしまった「なにか」とはなんだったのか。
私の仮説は「豊かさ」だ。
「豊かさ」が消費者の「ニーズ」を変えた。モノからコトへ。
「ニーズ」が企業の「アウトプット」を変えさせる。少品種大量生産から多品種少量生産へ。製品から体験へ。機能からデザインへ。
求められている「アウトプット」が変わるならば「戦略」を変えなければならない。
「戦略」が変われば「組織構造」が変わる。ピラミッドからフラットへ。
「組織構造」が変われば「人的資源管理」も変わる。終身雇用から退職の多様化へ。年功序列から成果主義へ。
「人的資源管理」の変化は「労働者の人生」を変え、それが「社会構造」を変化させれば「政治」が変わり、最後に「法律」が変わるのだろう。
変化への対応がシームレスに速やかに行われれば良いのだけど、残念ながら大きな成功を収めた組織ほど、それが難しいということを私たちは知っている。ましてやそれが国まるごととなればなおさらだ。
失われた20年がもうすぐ30年になろうとしているけど新たな世界に適応した仕組に未だにこの国がアップデートされないのは、無理もないことかもしれない。
国自体がイノベーションのジレンマに陥る中で、私たちはどう生きるか
今、歯車の噛み合った時代から遠く離れたところで、私たちは生きている。
企業はこの間、終身雇用/年功序列/企業別労働組合の三種の神器のご利益がなくなったことを自覚して、新たなHRMの勝ちパターンを模索してきた。
例えば職能資格制度から職務等級制度への転換といったことが試行錯誤されたりしたという。
しかし、残念ながら一部の個別事例を除けば勝ちパターンを見出したとは言い難い。
かつての日本の人事考課制度は①企業組織へのコミットメント、②長期的な勤続、③幅広い実務能力の体得に対するインセンティブが働いていたと言える。そしてそれらは日本企業の経営や組織と整合性を有していたのである。
新しい人事考課制度は労働者に対し、より戦略的かつ自律的であり、専門性やリーダーシップを発揮して働くことを促しているのである。こうしたインセンティブは、従来の現場主義の経営に寄与するものとはかなり異なるものだといえるだろう。したがって、もし新しい人事考課制度が日本企業の経営に寄与できるとするならば、そこに経営や組織との整合性が、新たな形で実現されなければならないはずである。
:いずれも【入門 人的資源管理】より
日本企業の人的資源管理がイケていないとするなら、それはまさに企業経営や組織、さらに上記では触れられていない社会や法規制との整合性の不足こそが最大の要因ではないだろうか。
一方で私が労働政策とかについて10年くらい前から指針にしている濱口桂一郎さんが話されているように、あまりにも日本がもたもたしているうちに、世界は次のステージに進もうとしているようだ。
欧米ではこれまで事業活動をジョブという形に切り出し、そのジョブに人を当てはめることで長期的に回していくことが効率的とされた。ところがプラットフォーム・エコノミーに代表されるように情報通信技術が発達し、ジョブ型雇用でなくともスポット的に人を使えば物事が回るのではないかという声が急激に浮上している。私はそれを「ジョブからタスクへ」と呼んでいます。
Uberに代表されるいわゆるギグ・エコノミーや、AIの進化による自動化の浸透は、日本のみならず世界中で「これから人がどのように働くことが人類の最大幸福につながるのか」という問いを突き付けているように思える。
私には残念ながら、今その答えを導き出す力はない。
せめて個別の企業がどうすべきかという答えを絞り出すとするならば、これから成長しようとする企業は「コミュニティ」を目指すべきなのだろう。
企業のミッション・ビジョンに共鳴した人々が様々な関わり方で、その企業の価値を共創していく。
その関わり方は様々な雇用形態のみならず、株主だったりファンだったり、ひょっとしたらファンの友達だったりするのかもしれない。
では個人は?
不安に怯えたいなら「デジタル日雇い」、希望を掴みたいなら「ワークライフミックス」でいかがだろうか。
「好き」を突き詰め、AIに脅かされない創造的なアウトプットを時にお金に変え、時に無償で提供して感謝を得る。とかね。
どうせ先の見えない時代なら、明るい未来を描きたい。