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本当は死んでいたのかもしれない   コラム4

自分の過去の話をします。学生時代の研究室の話です。私が大学4年のときは就職氷河期と呼ばれる時代でした。なかなか就職が決まらず、本命の教員採用試験にも落ちてしまいました。

大学卒業後の進路をどうしようかと途方に暮れていたところ、研究室の先輩から大学院に誘われました。実は、大学院にちょっと興味があったので、行ってみたいなという思いもあったので、その誘いに乗って院試を受けて、大学院生となりました・・・

しかし、研究の世界はとても厳しく、就職できなかった代わりに行くようなところではありませんでした。教授や先輩に怒られないようにということだけが、院生時代の目標でした。人の顔色をうかがい、ご機嫌取りだけをしていました。

今思うとありのままの自分というのとは程遠い生活です。そんな生活をしていたので、院の1年目の終わりごろには、睡眠が浅くなり、睡眠外来に通ったりしました。

さらに院の2年目の春には、研究室に行くことができなくなってしまいました。大学院生にして不登校です。

かといって下宿にいても、何もすることがなく、ただ自分を責めるだけ。このまま人生がダメになるんじゃないかという思いがあふれて、

死にたくなる思いを何度も味わう日々でした。包丁を取り出して、おなかや喉元に刃を向ける。「今度こそ!」と思うのですがあと一歩のところで何かできない。涙がでてきたり、家族のことを思い出したり、下宿のおばちゃんに迷惑がかかるだろうなとか思ったり、いろいろな思いが頭を駆け巡りました。

結局、死ぬことすらできない自分にさらに情けなくなり、どうしたものかと思っていたところ、「あ、これは生きているんじゃなくて、生かされているんだな」という思いが湧いてきました。

そう思うと、「あー、もう自分はさっき死んだんだから、生まれ変わったことにしよう」という気持ちにもなりなんだかすごく気持ちが楽になりました。そのあたりから、自分の残りの人生を大切にしようと思うようになりました。

すると、大学院の生活も「私はこれをやります」と、どんどん行動を起こすようになり、最終的には論文は良い評価をいただいて修了することができました。

人の顔色をうかがう、ご機嫌取りの生き方は、他人に正解を求める生き方になります。その正解は、人によって変わるので、超難問なのです。しかし、自分を大切にする生き方は正解が自分、さらには神様から与えられるので、他人を軸に生きるよりははるかに楽になります。

ありのままの自分、自分の本音を押し殺して生活することは、自分じゃない自分を生きることになります。言い換えると誤ったセルフイメージという偶像を生きていることでもあります。

しかし、実際にそのただなかにいるときにはそのことに気づくことはできません。ここが辛いところです。だから、自分の弱さや言葉にしづらい本音を言葉にして聴いてもらう必要があると思います。

あり会のグループセッションや、カウンセリングは間違った自分を追いかけないということに気づき、助け合うための場でもあるのかなとも感じております。

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