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「自己肯定感」という言葉がもつ3つの認識のずれ

自己肯定感という言葉が世間でよく言われるようになった。特に私が携わる教育の世界ではいろんな場面で出てくる言葉だが、どうも人によって認識が違っているように感じる。そのことを私なりに整理してみたいと思う。

1 自己肯定感を性格ととらえている

自己肯定感をその人が生まれもった特性とらえている面がある。若者が使う陰キャ陽キャのような側面と同じようなとらえ方にちかい。生まれもった特性だから変えられないという思いがるのと同時に、あの人は自己肯定感が高いの低いのいう時、高い人が優秀で低い人が劣っているという認識もある。

私はこれは違うと思う。自己肯定感は生まれもったものでもないし、上がったり下がったりするものだと言える。性格というような代え難い深いものというよりも自身のとらえ方や思考の枠組み、さらには時代の価値観など様々なものに照らして肯定か否定かが見えてくるものである。そもそも自己肯定感が人間的な価値を絶対的な要素であるということはあり得ない。

2 自己肯定感は肯定的な側面を増やしていくことという働きかけ

この認識は、「性格」と固定的にとらえているよりは進歩的出るが、考え方が一面的である。自己肯定感を高めるには、自分を肯定しないといけない。この点に関しては私もそうだと思う。しかし、その肯定できるものは「良いもの」でないといけないという考えが多い。得意なことは肯定できるが、不得意なことは肯定できない。だから、得意なところに目を向けてみたり、その領域を増やそうとすることに力を注いで、不得意なところはあまり触れないようにしようというものである。

また、成功体験を積むということも自己肯定感を高めると言われる。確かに成功すれば達成感や自信にもつながるが、それだけではないのではないか。成功体験を積ませるために、ハードルの低い課題をたくさんやってみたり、過度にほめたたえて「できた感」を演出することは果たして正しいのだろうか?

否定的な側面も肯定できてこそ自己肯定感だと私は考える。成功しても失敗しても自分はこれで良いのだと思えることが大事である。成功についてはそのまま喜べばよいが、失敗についてはその失敗の中から自分の挑戦した前向きさや、取り組んだプロセスへの肯定、さらには失敗してその次を考える知恵や、気分の落ち込みから回復する術、そういうものを見いだしていくことができると良いのではないか。

良い面だけを強調するような「肯定」は一種のナルシシズムのようで正直気持ちの良いものではない。人間には得手不得手があるし、好き嫌いもある。その両方があってようやく人間なのであって、できない自分、才能のない自分、怠ける自分、などそういう負の側面を肯定できる力こそ真の自己肯定ではないかと考える。

3 自己肯定感を表層の心理的現象と捉えている

これは自己肯定感が割と短いスパンで上がったり下がったりするという考え方である。確かにそういう側面はあるが、今日は肯定的でも明日になると否定的だというような、激しい変化があるものとは考えにくい。

自己肯定感は認知の枠組みによってもたらされるものととらえている。この認知がネガティブであれば、ずっと否定的であるし、認知が前向きであれば自身にたいして肯定的になれる。外的な要因(他人からの言葉がけや接するときの態度など)からも影響を受けるが、基本的には考え方によってもたらされるものであると私はとらえている。したがって、ここでいう短いスパンというのは気分の気分の浮き沈みにすぎず、肯定感と言えるほど深いものではないのではないかと考える。


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