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罪悪感ときみとぼく。

この、SNSを始めたばかりの、誰も読んで無さそうシーズン大好きです。
やりたい放題。書きたい放題。
私は自意識過剰なので、人目が気にならない状態がすきです。

うぇいうぇうぇいうぇいうぇい(/・ω・)/←浮かれ。

さっきも、テントウムシダマシ対策に購入した液を嬉々として載せるなどの傍若無人ぶり。食品由来100%の液とか、テンションあ・が・るー。

しかし、テントウムシダマシとはいえ、殺めてしまったとき、改めて思いました。私と言う人間の残忍さを。
そして、その残忍さについて少々考えたのですが、これは、優先順位が存在するがゆえの残忍さだと思います。
私は、テントウムシダマシよりもジャガイモを優位に置いているから、容赦なく排除する。排除という言葉でコーティングしてはいけない。殺害した。これは差別ではないのか。自然の摂理に反しているのではないか。人間はいつだってそうだ。人間ていうか私な。

そこからさらに考えたんですけど、差別とか排除って、優先順位とか序列を自分の中で決める…価値基準として持つこととセットだと思うので、一度決まってしまえば、あとはあまり頭を使わない。それを疑わなければいい。
脳ってエネルギーをたくさんつかうので、放っておくとラクしようとするんだと思います。それも気に食わないので、使ってやんよォ…頭ァ…オラァ…(ヤカラ)。

そんなわけで、私は自分自身のクソさに辟易したので、上記の液をほくほくと買いに行った次第です。結局、頭を使わずお金で解決。
(今は色々あ~る~…す~ご~い~…)。
速攻駆除!とかもあったのですが、そこはもっと平和的な交渉を試みたい。と思ってのチョイスです。

自分優位、こと自分にとって愛着のあるものや、生存(食料)がかかると、暴力性を正当化しかねない。本当に殺害にまで至らなければならないのかどうかは、重々検討していきたい。
だって私の来世、テントウムシダマシかもしれない(高確率)。
なんの疑いもなく殺すなよ、と思います。来世の自分的に。

しかし、それはそれで問題を他や後に追いやっただけの可能性もあるため、決して善というわけではない。
そういうことを自覚し、この罪悪感を忘れないようにし、いろんな生物、植物と、共生してゆきたいと思います。
自分も他の生物もいずれ死ぬことは免れない。
であるならば、可能な限り尊重してゆきたい。

そういえば最近、この近辺でもゴキブリが出るようになりました。
忌み嫌われておりますが、森にもいるし、家に出るのも種類がある。
こういう自然との共存はまた、難しいですね。
いや、さっきまで書いていた理屈でいえば、共生しとけよ、って話なんですけれども(なんか嫌…刷り込みかもしれない)。
人間、居住空間においては、やはり異物に対して過剰になってしまうところがあります。そのくらい、家というものは脅かされたくない空間なのだと思います。

ですので、差別や排除の仕組みを明文化できたとて、すぐに撤廃できるのかといえば、難しい部分が多々あるのだろうと。
組織の理屈、序列の構造、イエという制度などを見ても、思います。

一歩ずつ。
あまり既存の価値観に呑まれ過ぎないように進もうと思います。
今日は、テントウムシダマシという言葉だけ、覚えて帰ってください(だいたいの人にとって何の役にもたたない)。

以上、ありがとうございました。
今日も生きました。はなまる💮


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