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青山一丁目駅から赤坂見附方向に徒歩4分。右手に公園が見える。

高橋是清翁記念公園だ。


高橋是清翁像



かつてここに高橋氏の私邸が建っていた。

1936(昭和11)年2月26日午前5時頃、2人の将校に襲われ、高橋は絶命した。

所謂【二・二六事件】である。

高橋は当時、軍部の膨張主義に対し、警鐘を鳴らしていた。

「国防の拡張は必要だが、財政のバランスというものがある」

決して極端な主張ではなかった。

軍事費は1931(昭和6)年に約4億6000万だったが、二・二六事件前年の1935(昭和10)年には10億4000万円まで膨れ上がっていた。
財政が破綻に向かっているのは明らかだったが、誰もが軍部が怖く、

「ちょっとおかしいですよ」

とは言えなかった。

誰だって命は大事である。

変に恨みを買って殺されかねない。

実際、高橋は殺されてしまったが、議会でも軍部に声高に異を唱え続けた。

財政家として至極真っ当な意見だが、臆することなく主張できる者はほとんどいなかったため、陸軍の過激派将校たちを刺激した。


高橋は「日本のケインズ」と呼ばれるように、財政家としてケインズと同じく積極的な財政政策が特徴だった。

1927(昭和2)年の金融恐慌では、債務支払いを猶予したり(モラトリアム)、日銀が銀行に特別融資したりの措置で、蔵相就任からわずか40日あまりで事態を収めた。

1932(昭和7)年には赤字国債を日本で初めて発行する積極財政で、世界大恐慌から日本をいち早く救った。

ちなみに「日本のケインズ」の呼び名は日本人が勝手に言っているわけではない。米国のピッツバーグ大学のリチャード・スメサーストの著書[邦題『高橋是清ー日本のケインズ その生涯と思想』]によるものである。


面白いのは、高橋が金融・財政関連の仕事に就いたのは、1893(明治26)年に日本銀行に勤めてから。

この時すでに38歳。

今はアラフォーからのスタートは珍しくないが、当時の平均寿命は40歳(乳幼児死亡率の高さが影響しているが)。

40歳以降の平均余命も25年程度で、人生の折り返しはとっくに過ぎている。

しかも、日銀の仕事とはいえ、建築現場の管理だった。

財政政策とは全く関係がない。

所謂「丁稚」からの再スタート。

高橋は朝早くから建築現場に通い、現場で作業員の話を聞くなどして、改善点を探す作業にも余念がなかった。人生をやり直す気持ちが強く、仕事に対する意識は高かった。



高橋は、1854年に幕府御用絵師の子として生まれるが、仙台藩高橋是忠の養子となる。

貧しい環境で育つが、13歳の時、藩の留学生に選ばれ、米国に渡る。

本人は留学のつもりで渡米したものの、学びの場は一向に得られず、意味もわからず契約書にサインしたところ、50ドルで農園主の下に奴隷として売られてしまう。

関係者の尽力もあり、翌年、逃げるように帰国する。


語学力を買われ、15歳で大学南校(現東京大学)の教授手伝いの職を得る。が、酒と芸者におぼれ、学校を退職して箱屋になる。

所謂「ヒモ」。

奴隷からヒモへ


あまりのことで、笑いのツボに入ってしまったワタクシ。

大江戸線の車内で、肩が震え出す。

『変な人と思われてしまう…』

震えを止めようとするが、止まらない……(^◇^;)

勿論、後に内閣総理大臣にまでなると知ってのこと。
ここで人生が終わってしまった、或いは不遇のまま亡くなってしまった方を笑うつもりなど毛頭ない。
根底には限りない愛と尊敬と心服あっての『笑い』である。
この人が後の首相であり、日本のケインズなのだ(笑)。



さすがに芸者のヒモを一生やるわけにはいかない。

何とかしなければと、知人の紹介で唐津に英語教師として赴任するが…。

毎日、3升(4、5リットル)を飲み続け、喀血する。

仕事どころか命の危機!


高橋の前半生の詳細は、死の直前に刊行された『高橋是清自伝』に詳しい。


先の【放蕩時代】の後は、【大蔵省出仕→失職→文部省→校長→浪人】

【養牧業→翻訳稼ぎ→相場】と続き、ここでまだ27歳。

日銀入行までまだ10年以上ある。

その後、一念発起して「商標」の研究で特許局長にまでなるが、行きがかりで官途を辞してペルー銀山の経営に当たろうし、

詐欺に引っかかる。


まだ車中。やめてほしい〜笑。


日本に戻ってきて、

福島での農場経営や上州での鉱山開発に立て続けに失敗し、破産する。


妻は縫い物の内職をする。


いやこれ、もしドラマの脚本として書いたとしたら、

三流脚本だろう。


作り過ぎ、でっち上げが過ぎると。

ありったけの不幸を並び立てただけの脚本と思う。事実と知らなければ。いや、知っても事実とは思えない…是清さん(^◇^;)


その後、「山師」と蔑まれながらも日銀に潜り込み、ようやく財政家としての才能を開花させていく。


数々の失敗のお陰で、いや、その失敗は、日本を守るための失敗でもあったと思えるほど。


ありきたりのエリート人生でなかったことが、後に国の財政政策へ実学として生きるのだろう。

生臭い政治やビジネスの世界で、平坦でなかった人生の学びが生きる。


『前例のないような件は、高橋さんのところに行くに限る。必ず即刻、いい考えを出してくれる』(日銀総裁も務めた井上準之助氏)


豊富な人生経験があったからだろう。


高橋が死ぬまで「楽天家」として生きられたのは、養家の祖母喜代子の影響。

「お前はしあわせ者だ。運のいい子だ」

と、言い聞かせられた。


どんな失敗をしても、窮地に陥っても、自分はいつかよい運が転換して来るものだと、一心になって努力した

高橋自伝

奴隷になっても、ヒモになっても、失職しても、破産しても…。
どうにかなるだろうと前を向き、自分の人生を切り拓いた。


高橋が絶命した部屋には、

【不忘無】

と書かれた揮毫の掛け軸があった。


何も無かったころのことを忘れない。



見てください。この柔和なお顔。

高橋是清翁像


ふっくらした顔立ちから、『ダルマ宰相』と呼ばれた高橋是清。

その人生も七転び八起き。
まさにダルマのよう。



ビルの合間。
国道246号沿いに残る小さな公園。

草月ホールの観劇に行って、偶然見つけた【高橋是清翁記念公園】。



二・二六事件は学校で習った。

高橋氏のお名前も存じ上げていた。

しかし、どういう人物かは知らなかった。

教科書ではわからない『生きた日本史』


これこそが学びの面白さ。


後に国を支えるために、天がこれでもかというくらいの試練を与えたか?と思うほど。

奴隷にヒモ、リストラ、病気、詐欺、破産……って、不幸のオンパレードの前半生。

不屈の精神で立ち向かい、結果を出し、最後は「殺される」という最大の『不運』が待ち受けていたわけだが、それも国のために言うべきことを言ったゆえの結果。

若いゆえ、博識ならぬ薄識のため自分が正しいと思い込んでいる過剰な若者はいつの世もいる。


二・二六事件前日、襲われた時のための訓練をしたらしい。

高橋は、逃げない想定で訓練したそうだ。

(もはや訓練ではない…)

覚悟していた。


その潔さ、豪傑さに心打たれる。


国家の中枢に要る人間とは、こういう人。

最後まで高橋はきっと、誇りを持って生きたと思う。




総裁選に出て欲しかったな。


是清さん!



ありがとうございます🙏




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