見出し画像

【小説】推しグル解散するってよ⑦

    ** 真紀 **
 
 八月の蝉は五月蠅いが、高層階で暮らす真紀には悩みの種ではなかった。
二十年間、愛しさの塊であったGAPが解散すると知ってから二カ月が経っていた。簡単に経っていた。仕事も、それ以外も色々していたのだが、あまりにも早く過ぎ去った。
ダサいタイトルのフォトブックはとうに家に届いていて、見なければと思いながらもなかなか開けずにいた。
 真紀は久々に予定の無い8月の休日を、床に寝ころびながらぼーっとすることに費やしていた。
あの日から数日は一人になるたびに泣いていたが、次第に仕事やそれ以外に追われ、泣かずに済む日も増えていった。
(結局忙しさに助けられるんだわ)
仕事が忙しいことはオタ活をするにあたって嫌なことでしかなかったが、今だけは有難かった。
 
 ピコン。
 
 スマホにメッセージが届く。
『ケンジさんからイイネがありました』
無機質な自動メッセージ。
誰にも言わずに登録した婚活アプリからのものだった。
 あの日から1ヶ月経った7月。そっと登録していた。
 
―――――――――――――――――
 
『真紀ちゃん、生きてる?』
 解散が発表された翌日、SNSでメッセージをくれたのはGAPのデビュー当時に仲良くしていた理沙だった。
20年のファン生活の間に、千晶も真紀もお互い以外のオタ友ができた。
未だにファンを続けている友人もいれば、途中で辞めた友人もいた。
理沙は5年前あたりまでは熱心にファンを続けていたが、ある時期からコンサートやイベントに現れなくなった。
『かろうじて生きてるよ』
『良かった。真紀ちゃんのこと心配だったの。良かったら近いうちお茶しない?』
 真紀は解散発表から1週間後の土曜日に、理沙とお茶をした。
その日のことを、冷房で冷えた床の上でぼーっと思い出していた。
 
 互いの家のちょうどいい距離のカフェで落ち合った。
真紀の前に現れた理沙のお腹が大きく膨らんでいた。それが太っているそれではないことに、真紀はすぐに気づいた。
「え、おめでた?」
「うん、そう。7ヶ月。」
年齢よりも若く見える愛らしい顔立ちの理沙は、真紀に照れた表情を見せた。
理沙は真紀と同い年で、まだ大学生だった頃にコンサート会場で知り合った。当時はガラケーのメールしかできなかったが、メールアドレスを交換してせっせと情報交換していた。
トモヤのファンの理沙と大二郎のファンの真紀。
年下の千晶とはまた違った関係性の友情が、楽しかった。
「5年前からオタ活をセーブして、婚活してたの。結婚は4年前にはしてたんだけど、子供は不妊治療の末にやっと出来たんだよね。」
結婚すら知らなかった真紀は一瞬驚いたが、年齢的にはおかしいことではない。そうなんだおめでとう、と言った。
ただ、驚いたことが表情に出ていたのか、理沙は慌てたようなしぐさをした。
「あ、あの、話してなくてごめんね。」
「え、いいよいいよ。そんなことは気にしないで。」
真紀にとってその返答は純粋な本音であったが、逆に気を遣わせる顔をしてしまったかと一瞬の間に反省した。
オタク仲間の距離感は難しい。
とても近い距離で仲良くしている時期もあれば、しばらく連絡を取り合わない時期もある。恋愛話なんて一層、話しにくい。
話しにくいというよりも、互いの恋愛事情にはあまり興味がなく、推しの話をしていればそれだけで何時間も過ぎてしまう、といった方が正しいだろうか。
真紀にもまた理沙には話してないことがいくらかある。
理沙はお腹を撫でながら、なんだかね、と少し息をついた。
「どうしたの?」
真紀が聞くと、理沙は、うん、と相槌を打った。
「真紀ちゃん、ずっとGAP好きだよね?」
「うん、好きだけど・・・。」
「私、婚活してる間はオタ活より自分の人生を大事にしようって思って、結婚して妊娠して、子供が少し大きくなったらまたコンサート行こうって思ってたんだ。」
「そっか、そうなんだ。」
「でも、解散するなんてね。ビックリしたよ。」
ノンカフェインのコーヒーをゆらゆらとカップの中で揺らしながら、理沙は言った。
白いオーガニック生地のワンピースがふわりとお腹を包んでいて、窓越し、柔らかい陽に照らされた理沙は聖母のようだった。
ファン失格かなあ、とはにかむような、でもどこか少し苦い表情をした理沙に、真紀はそんなことないよと返した。
「推しは推せる時に推せなんてよく言うじゃん?私はそれができてなかったなあって。いつまでもある存在なんだろうって勝手に思ってた。だから、自分の人生を優先しちゃったんだよね。」
理沙がおだやかな声で言い、それからコーヒーをゆっくりと飲む。
真紀も同じくコーヒーを一口飲んだ。
「いつまでもある存在だって思ってたのは私も同じだよ。」
真紀は呟いて、少しだけうつむいた。
泣いちゃいそうだな、と理沙が言う。
「トモヤにまた会えるって勝手に思ってたなあ。秋から解散に向けてきっとツアーやるんだろうけど、出産前後だから行けないし。」
 真紀には理沙が尊かった。
コンサートは素敵だ。アイドルは素晴らしい。けれど、お腹に命を宿す彼女の姿もまた、とてつもなく美しかった。
「自分の人生を優先するのは当たり前のことでしょ。ファン失格なわけないよ。」
真紀が言うと、理沙はぽろっと涙を一粒、本当に粒のように目から落とした。
自分の涙に気づくと理沙は慌てて手元のペーパーナフキンで目元を拭いた。
「真紀ちゃん、ありがとう。私、ずっとGAPから離れてて今更真紀ちゃんにどんな顔して会えばいいかわかんなくて・・・・。」
声を震わす理沙に、バカだなあ、と真紀は言った。
 くだらない。大いにくだらない。
好きなアイドルをしばらく応援していなくて、また出戻ってくることを悪いことだと思っていたり、自分の人生を優先したことを申し訳なく思ってしまったり。
何かのファンであることはたかが趣味でしかないのに、誰にも教えられていないけど暗黙の了解で通っているルールのようなものが染みついていた。
真紀は理沙がそんなオタクのルールを律儀に気にしていたことが何だか滑稽にすら見えて、彼女にマイナス感情を抱くことはなかった。
「ホントはね、トモヤのソロ曲ずっと聞いてたの。」
理沙はすぅー、と息をついて話し出した。
「実は結婚してからも、ソロイベントだけはこっそり行ったこともあったんだ。」
「そうなんだ!」
「その時のトモヤはグループで見せる顔とは違ってしっかりしてて、トモヤってこういう一面もあるんだなあとか改めて思ってやっぱり昔感じた才能?みたいなの間違いじゃなかったんだなあって、トモヤって過小評価されやすいでしょ?でも実際裏回しとか上手かったしさすがトモヤだなあって思ってホントはあの子やれる子なのよ!それでさっ・・・・」
理沙はさっきまでの穏やかな口調から打って変わり、早口で話し始めた。
トモヤの話になると、出会った頃のオタク少女に戻る理沙に、
「ねえ、待って。」
「え、何、なんで真紀ちゃん笑ってんの?」
「いやー、理沙ってやっぱりオタクだわ。」
と、真紀は最大限の愛情をこめて、伝えた。
「ええ、どういうこと?」
理沙が笑うと、真紀は、そういうとこ、と笑って答えた。
「理沙はいま、幸せ?」
「……うん、幸せだよ。」
優しさと儚さと、愛らしさ、その全てを含んだ理沙の声に真紀は口元を緩めた。
「じゃあ、全部正解だよ。理沙が選んだ道は。」
理沙はまた泣きそうに声を震わせて、それから、ありがとう、と答えた。
その後は、フォトブックのタイトルに笑ったこと、前回のアルバムの感想、メンバーのバラエティでの活躍について…なんて話で盛り上がった。
―――――― 「とにかく体に気を付けてね。無事、出産できること祈ってるから。」
理沙が夕飯の準備をするとのことで、夕方前には別れた。
友達と会えばいつも夜まで飲みに行くコースの真紀には、こんなことも新鮮だった。
「ライブ当たったらトモヤによろしく伝えといて!」
18歳の女子大生、ではなく、38歳の主婦の理沙が真紀に手を振った。
でも、どこか18歳にも見えた。
あの頃の煌めきが理沙にはあった。
「昔、理沙が使ってた応援ボード、うちに1枚あるからそれ見せてくるよ。」
「それカビ生えてないー?」
「カビ生えてたらそこだけ直しとくから!」
「さすがボード職人!」
「職人ちゃうわ!」
さよならがなかなかできなくて、冗談を言い合った。
くだらない、他の人が聞いたらきっと何にも面白くもないような冗談。だけど大笑いした。
あの頃、大学の課題の提出を気にして、就活を気にして、でもライブに行きたくてアルバイトをしまくった女子大生の“私たち”がそこにはいた。
もっと彼女をコンサートに誘えば良かった。何も無い日も飲みに行けば良かった。
GAPが存在していれば、ずっと連絡を取れなくてもいつかまた会って、笑い合えると思っていた。
そう思っていたから、会えなくなってもあまり気にしていなかった。
アイドルが解散したって友達は友達だ、けれど、自分たちはもう“いい歳”でそれぞれがそれぞれの自分の人生を大切にしていく。
若い頃よりももっと深く、自分の人生に進んでいく。
 少なくとも理沙は、これから新しい自分の人生の扉を開いていく。
GAPのいない、この先の人生の扉を。
 
 真紀は理沙の姿が見えなくなるまで、大きく手を振った。

へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?