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桜並木と母の消失


 二階の窓から、家の前の通りの桜並木を眺めていたら、買い物袋をさげ、リュックを背負った母が帰ってくるのが見えた。昼下がり、いつも母が仕事から帰ってくる時間だ。
 母はわたしに気づくと、足を止め、ニコニコ笑って手を振った。わたしも手を振り返して、玄関に向かった。

 家の前に続く桜並木は五分咲きで、この陽気では、明日か明後日には満開になるかもしれない。
 この桜の木は、何年たってもまったく大きくならない。
 だいたい、わたしが家から出なくなってから、何年ぐらい経つのだろう。わたしも歳を取らないようだし、母も中年ながら、いつまでも若々しい。
 それでも、一年が過ぎて春になると、毎年ひょろひょろとした若木に桜の花が咲く。花の咲き具合もスカスカした、物足りないような頼りないような桜並木だ。
 
 一階のダイニングキッチンで、母がテーブルについて疲れた顔をしている。卓上には、コンビニで買って来たサンドイッチやお弁当が、雑然と積まれている。
 母は外で働いてるのだと思うが、どこでどんな仕事をしているのか、わたしは知らない。母も自分の仕事に関わる話をしない。家にどれぐらいお金があるのかもわからないけれど、働けとも言われない。
 
「お昼、何か食べた?」
 母が訊いた。
「いや、まだ」
「ほら、好きなのを食べなさい」
 そう言いながらも、母は、たまご蒸しパンを掴み、わたしの前にポンと置いた。わたしは椅子に座り、言われるがままにたまご蒸しパンの袋を破って、しっとりふわふわの黄色いパンを毟りながら食べた。

 昔のことを、ふと、思い出した。
 父の姉の旦那さんのことだった。
 
 こどもの頃、親戚が集まる場で、わたしがひとりでいると、必ずと言っていいほどその伯父が現れた。わたしを強引に膝に乗せて、わたしの腕を大きな手で掴み、上下にごしごしさするのだった。
 次第に伯父の息が荒くなっていき、耳に熱い息を吹きかけてくるので、こども心に不気味だし怖かった。こんな時、こどもというのは、これが多言するのが憚られる事態だと気づいてる。

 そのことを、何気なさを装って、母に告げ口したことがあった。伯父をわたしから遠ざけてもらいたかった。
 こどもなりに配慮をして「何だかわからないんだけど~」というノリで、母に、伯父がわたしをむりやりに膝に乗せること、腕を擦りながらハアハア息をすることを話した。

 母は、
「男って、大人の女が怖いのよ。情けないよね。抵抗しなさそうな女の子しか相手にできない男もいるのよ。それにこどもって、まだそういうことがわからないだろうしね。大人だったら、変なことされたらきっぱり撥ねつけるからね。だから手を出せないのよ」
と、したり顔でそう言った。
 
 わたしの頭に、たくさんの「?」が浮かんだ。
 いや、そういう返事を期待していたわけじゃないんだけど……と、もやもやした気分がしばらく抜けなかった。

 黄色いパンを口に入れながら、その記憶が蘇った。

「田村の伯父さんっていたでしょ。昔さあ、しょっちゅうあの人に無理に膝に座らされて、気持ち悪かったよ。あの人、わたしの腕さすりながら、耳元でゼイゼイ息荒くしてさ。こども相手にキモイわ」

 あまり雰囲気が深刻にならないように、さらっと口にしてみた。
 母は箸の先で、幕の内弁当の細々したおかずをつついていたが、しんみりと眉尻を下げて、手を止めた。
「田村さんも、最後は可哀想だったわよね。男の人はたくさんお酒飲んだり、煙草吸ったりするから、だめなのよ。体が悲鳴をあげちゃうのよ。あの人、大酒のみで、ヘビースモーカーだったでしょ。もっと早く節制してれば、長生きできたかもしれないのにねえ。だから女の方が寿命が長いのよ。わたしが若い頃、設計事務所で経理やってたんだけど、設計士の男の人たちがスパスパ煙草吸うのよ。部屋中が煙で曇ってて、わたしの髪の毛にも服にも匂いがつくし、わたしも煙を吸ってただろうし、わたしが副流煙が原因で病気にでもなったら、あの人たちに責任取ってもらわないと」
 そう言って、母の一人語りが止まらなくなった。
 
 毎度のことではあるが、あ~~わたしが言いたいのはそういうことじゃないんだよな~~と、ムカムカしながらも、母の話が途切れないので、椅子の上で身動きすることもできなかった。
 母は、わたしが母のお喋りを聞くことが、ひどく我慢を強いられることだと気づかない。母は自分が満足するまで、延々と話し続ける。

 この家全体に、母の磁力が働いているような感じがするのだ。その力に絡め取られているようで息苦しい。わたしが家から出ない原因を、ただ責任転嫁してるだけだろうか。

 もう三日、母が帰って来ない。
 いつものように張り切って、朝六時に玄関から出て行ったきり、戻らない。
 三日目の夜に、わたしは母を探しに行った。
 といっても、どこを探せばいいのかわからない。母がどこで働いてるのかを知らないので、無闇矢鱈と、近所の人けのない街中を歩き回った。
 以前から知ってるようで初めて見るような、奇妙な家々。小学生の頃に遊んだ記憶のある古びたささやかな商店街。営業しているのか閉店してるのか、ぼんやりと店内が明るい飲み屋の並ぶ小路。稀に、眩いヘッドライトが、不吉な知らせに急かされるようにスピードをあげて通り過ぎてゆく。
 
 母を見つけ出すことはできなかった。当たり前だ。こんなに家の近くにいるなら、すでに帰宅してるだろう。
 
 濃く黒い夜空が、青色がかってきた。わたしは空を見上げて、母が今、ダイニングテーブルについて、いつものようにトーストと甘いカフェオレの朝食を食べていることを祈った。
 
 薄暗いながら、朝日が街を浮かび上がらせてきた時分に、諦めて家に帰ることにした。
 明るくなるにしたがって、桜の花が爛漫と咲き乱れている姿が見分けられるようになる。
 何年ぶりかでフル稼働したせいで、足の筋肉が痛んだ。靴を引き摺るように、桜並木に沿って、家路についた。
 頭上の桜の花叢が、昨日の昼に見た時の三倍ぐらいの大きさに膨らんでいる。背も高くなり、幹も堂々と太くなっている。
 一夜にして成長したのだろうか。そんなはずはない。もともとこんなに立派な木だったのだろうか。それとも、気のせい? わたしは目に見えて樹木が成長するほど、何年分も街を彷徨っていたのだろうか。まさか。そんなことがあるわけない。
 微風が吹くと、惜しみなく花弁が零れる。
 
 光線の加減なのか、家の外壁がぼそぼそとささくれているように見える。玄関にカギをさして、ドアを開けた。
 たたきに母の靴はない。家の中を見て回った。廊下や階段の隅には埃が溜まり、歩くとみしみし音がする。一階も二階も長らく人が住んでいなかったように、カーテンは色褪せて、全体的に薄く埃をかぶり、空き地のようにがらんとしている。
 
 母が寝起きしている部屋のドアを開けた。そのとたん、線香の煙に燻されて籠った匂いを、無防備に肺に吸い込んでしまった。
 この部屋も、ほかの部屋と同じように、誰かが生活している気配がなかった。
 
 見たことのない仏壇があった。
 その、旅慣れた人の荷物のような、コンパクトな仏壇の中を覗き込むと、短くなった白い蝋燭の横にライターが置いてあり、細い一輪挿しのような筒に線香が入れてあった。
 位牌が置いてある。その手前に、季節が来て花がほころぶように、自然な微笑を浮かべている母の写真が飾ってある。
 先端に赤く火のついた線香が一本、線香立てに差されている。そこから一筋の煙が立ちのぼっている。
 わたしは、疑うように母の写真を見つめた。
 
……わたし、もういなくなったから、いいかげんに、外に出てきなよ。
 母の声が、鼓膜を通り抜けた。

「勝手だよ。お母さん」
 わたしはこぶしで床を殴った。激痛が直に骨にきた。理不尽な痛みのせいで、さらに怒りが強くなった。
……そんなことしても、自分が怪我するだけだよ。自分が損するだけだよ。
 無責任に明るい声が、どこからか横笛の音色のように響いてきた。
「勝手すぎるよ。何とかしてよ」
 わたしは声を荒げた。

 部屋の中を突風が吹き抜け、母の声も気配も壁を素通りして空へ舞い上がった。母が悪戯っ子のような笑顔を浮かべて、バイバイ、と、手を振っているのが見えた気がした。
 仏壇の線香から立ち上る煙が掻き乱された。
 
 長い時間が過ぎ、白い煙は上昇する一本に細い線に戻っていた。
 どれほどの時間が経過したのだろう。
 わたしは力が抜けて、ただぼんやりと母の遺影を見つめていた。
 
 独りになって、ただ、ぼんやりと。

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