珈琲と自由
奪われて、なくなって使えなくなって、大切さに気付くもの。親の愛、足の小指の骨、毎朝そこにあった街路樹の緑。そして、自由!
ここ数ヶ月ある自由を失って過ごした。私が奪われた自由がなんだったのかは、ハンカチを選べる自由とか、前髪の分け方を左右選べる自由とか、そんなものを想像してもらってもいいし、外を自由に歩く自由とか、泣き笑う自由とか、そう言うものを想像して頂いても良い。
少し想像する。たとえばハンカチを選ぶ自由だったとする。ハンカチが生活においてどの程幸せを左右するかはあなたの価値観やこれまでの経験次第だが、考えてみて欲しい。今から過ごす一日を思い、家を出る時、あるいは前日の夜、ハンカチを選ぼうとする。すると、たとえば何者かが全くあなたの意思を汲まないハンカチを選ぶように指示するとする。明日は三年ぶりに親友と会う特別な日なのに、その人がいつかくれたお揃いのハンカチを選べない。
そんなときにふと気付くかもしれない。ハンカチを選べる自由の大切さに。
もう少し辛い状況を考えてみる。外を自由に歩けない。部屋から出ることにすら許可がいる。買い物もできなければ、好きな珈琲すら好きな店で飲めない。働くことも叶わない。たとえばそうなるともっとはっきり気付くだろう。ああ、あの珈琲はそんなにも私にとって自由の象徴だったのかと。誰かがいう。「テイクアウトすれば部屋で飲めるようにしましょうか」
違う。そうではないのだ、私が味わっていたのは、コーヒーという液体ではない。それをあの席で喫する自由だったのに。あなたはその牢屋のような部屋の中でどう過ごすだろう。
反面、生きている、ただそれだけで自由だらけでもある。好きに愛し、許し、信じ、思いやり、優しさを注ぐ。誰かの幸せを祈り、世界の平和を祈ることも。なくても心は縛られない。お金がなくてもそれだけは守れる。
とても便利な世の中だ。ボタン一つで人を傷つけ、いたわり、癒すこともできる。
大切なものに気づくにはそれに関する自由を奪われた時を、ときにリアルに想像してみるのも良いかもしれない。あなたにとって、それはどれほどの重さのものだろう。その人はどんな存在だったろう。
ボタン一つで消し去る前に、「わからない」で葬る前に。失うのは一瞬である。簡単である。それでも、たとえ複雑で面倒でも、守りたい大切なものはあなたにとってなんだろう。ほんの一杯の珈琲も、「その自由のない生活」を思い浮かべたら、ひょっとしたらあなたの人生の大切なピースであることに気づくけるもしれない。あるいは他人の失った自由の重さを、痛みをそうやって想像することも意味があることだろう。それを守れるのも、その人にあたたかい心遣いができるのもまたあなただけかもしれない。
選挙、朝ご飯、日常は選択に溢れている。選べることを当たり前と思わない日を、ほんの少し増やしてみるだけでも世の中はすこし、柔らかい芯を持つだろう。
(2020年夏の作品です)
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