適応障害の、その後。
(※しんどい描写あるし、長めです)
卒業した。大学。
どうやら卒業できるらしい。
今朝大学から謎のアンケートメールが届いたので、なにかあったようだとWebページを見に行くと、卒業者の公示が貼られていた。
自分の学籍番号が一番上にあることを確認し、ついでに私と同時に卒業する同学年は1人もいないことも確認して。体から力が抜けていくのを感じた。
本当にお疲れ様。
よく頑張ったね。
自分にかけようと出てくる言葉はその2つだった。
久しぶりにnoteを開き、かつて自分が書いた記事を読んでぽろぽろ泣いた。
まさかこのときの記録を残しているとは思わなくて。そして今の私がもう忘れてしまった熱量に触れて。
この記事を書いたのはもう1年半前だ。
そこから今に至るまで、復学と休学を繰り返しながらどうにかして卒業にこぎつけた今の私を記録しておきたい。
うーん。我ながら混乱するが、どうやら1年在学→1年半休学→1年半在学→半年休学→1年在学、という流れのようだ。卒業には6年かかった。大学は2学期制なので、半年ごとに当時を振り返りたい。
2021年後期
夏休み
前回の記事を書いた2021年9月頃は夏休みで、当時の日記を振り返ると休学するかしないかでめちゃくちゃ迷っていた事がわかる。
適応障害で抑うつ状態だった休学初期からするとだいぶ回復してきていて、
「勉強は好きだけど大学はムリ」という自分の状態がなんとなくわかっていた。一方で、コロナ禍のうちにオンラインでできるだけ単位をとっときたいという気持ちやどこかで「通常ルート」に戻らなくちゃ、という焦りがあったのだと思う。
あとは「大学はムリ」の理由がまだ言語化できていないことも私を不安にさせた。なんとなく、なんでムリなのかを言語化しなきゃいけないような気がしたけど、大学について考えるだけで気分が重くなるので考えるのをやめた。
エネルギーを大学で耐えるために消費するのではなく、好きなことを好きな場所で好きな人とやるために使いたい、というようなことも考えた。それは言い訳じみているとも感じられたけど、その時はとにかく大学から離れるだけで楽になれる気がしていた。
休学、そして高知へ
その後なんやかんやで休学し(しんどかったからか記憶も記録もない)、気の向くままに過ごしていたら、いつの間にか高知へ来ていた。1年前に初めて過ごしたその土地がすっかり気に入って、1年ぶりに足を運ぼうという気になったのだ。
そこで出会った人、海、景色、食べ物が最高で帰りたくなくなった私は、旅行中にどうにか長期滞在できる手段を探し、1ヶ月後には高知でみかん農家さんのお手伝いをさせてもらっていた。
1ヶ月半の滞在の中で完全に高知にハマってしまったのはもちろん、そこで働く人達のバックグラウンドも私の視野を広げてくれた。十数年働いていた会社をやめて移住し農業を始めた人、親の跡を継ぐつもりなくトラック運転手をしてたけど、結局望んで帰ってきて畑を引き継いでいる農家さん。広告代理店でバリバリ働いたあと、地元に帰ってきてゲストハウスをやっているお姉さん。
卒業するかしないか、就活はどうするか、という視野で固まっていた私には、就職してもそこがゴールじゃないことがはっきりと見えたことが大きかった。就職したとしても絶対に迷う。だったら今思いっきり迷って悩んでおきたい。
一方で、「大学で学ぶこと」「大卒という肩書」も別の角度から見えてきた。「私も高校に行きたかったのに女だからと学費を出してもらえなかったのよ。」と語るおばあちゃん。「水道工事の資格をとって稼いで、この建物を買ったの。女将さんと呼ばれるのが夢だったの」という民宿のおばちゃん。
自分が何か拠って立つスキルを持つということ。自分が新しい世界に飛び込むときに、そこに持ち込むことができる視点、専門性を持つということ。
高知というでかい自然とおおらかな人の中でさんざん遊び(追加で1ヶ月半別の町に住み込んだ)、エネルギーを取り戻した私は、4月から復学した。もう無料で休学できる2年は使い切ってしまったし、さっさと卒業して大学から離れたかった。(なにしろ適応障害はその環境から離れることが大事なのに、発症から4年も関わり続けているのだ。)
2022年前期
復学、沖縄で
私にとってはありがたいことにまだコロナ禍は続いており、オンラインで授業を受けることができた。ひょんなことから沖縄に住むことになり、自然が近い環境で授業を受けられたのも私の気をラクにした。大学の講義室の中は息が詰まるけれど、強い日差しと大きな空、南の風の中でパソコンの画面に映る「大学」という存在はちっぽけで、それとならちょっと向かい合える気がした。1日の授業の終わりに買い物に行って、毎日信じられないくらいきれいな夕焼けを見ながら帰るのも、まだ使い慣れない島豆腐やゴーヤを使って料理を作るのも、大学の外に確かに私の人生は存在すると感じさせてくれた。
一方で、そんな状態でも大学と向き合うには私のエネルギーの100%を必要とした。だから沖縄にいるにも関わらず、新しい人間関係や場所との関わりをほとんど持てなかったのは残念なことではあった。ただその時の私の優先順位は一にも二にも大学の単位だったし、全部大学のせいにしてそれ以外は頑張らないことにしてしまうある種のわがままな日々は、それはそれで楽しいものだった。半年だけ、と名残惜しさが残るくらいの短い沖縄生活も私の性に合っていた。
2週間の期末試験期間だけは大学に通い、お金と人と美味しいものと、ありとあらゆるものを使って自分をなだめながら受講科目の試験を全部受けきれた。抑うつ状態のときは大学に行くために朝起き上がることすらできなかったので、試験会場に行けるくらい回復したんだと、ちょびっと自信になった(同時に2週間が限度だということもわかった)。単位も取れた。
夏休み
夏休みは最高に楽しい。「大学に行くべきなのに行けていない適応障害の大学生」というフィルターが取っ払われて、正当に休んでいい「普通の大学生」になれる。「普通」なんてものが本当にあるかは置いておいて、「今何してるの?」というよくある問いに「大学生です。夏休みなので……」と答えられるのはやっぱりラクだ。やりたいことも行きたいところも勉強したいことも、山のように湧いてくる。
さて、でもラクである分、楽しい分、私はすぐに辛かったことを忘れてしまう。忘れるのは生きやすくしてくれる機能だと思うけど、授業を受けていたときの辛さをすっかり忘れて「来期は大学に通えるかも!」という希望がもっともらしく感じられてくるので困る。だてに休学と復学を繰り返していないので、それを見越した過去の最も苦しかったときの自分が「夏休みになったら大学に行ける気がするかもしれないけど、絶対辛くなるからね。無敵のときじゃなくて、一番つらいときの私を忘れないで決断して」という趣旨のメッセージが残していた。
2022年後期
大学に行く
とはいえやっぱり新学期はすごくやる気に満ち溢れている。もしかしたら大学行けるのでは?という希望を持って大学に行ってみる。(今期から対面授業に全面移行することが決まったので、大学に行けないなら単位は取れない=卒業できない、という絶望の裏返しでもあった。)
結果、無理だった。
大学の敷地に踏み入っていることに気づくのと、気管がぎゅっとしまって息がしにくくなるのとどっちが先だったかは覚えていない。気管ってここにあるんだ、と変な思考を飛ばしながら両耳にイヤホンをはめ、聞き慣れた音楽を聞く。講義室に入ったら授業が始まるまでは小説を開きフィクションの世界に没頭する。
授業内容は面白かった。いつも黒板に向かって一方的に話す先生方がなぜ対面授業にこだわるのか理解できなかったけど、確かにオンライン授業とは違う臨場感があった。第一回の授業らしく法の理念を語る先生の口ぶりからは、本当にその分野が好きなんだなと言う熱量が伝わってくる。租税法の観点って面白いかも。そう思っているのに、涙が止まらない。黒板が見えなくなる。マスクは呼吸を妨げたけど、おかげで口を歪めても見えないので思いっきり泣きながら最後まで授業を受けた。
これではとても今学期の最後まで授業を受けることはできない。1週間なら泣きながら受けたって良いけど、その先に朝起きあがれなくなって、部屋から出られなくなって、自分の意志で体を動かせなくなる可能性を私はもう知っている。死なないのが最優先だ。こういう時は我慢することを頑張るんじゃなく、我慢しなくて済むように頑張ったほうがいいと思った。頑張りたいエネルギーはまだ少し残っていた。大学の学生相談窓口に電話をかけ、教務係にもメールを打つ。学生相談は新学期のためか予約で埋まっていたが先に教務係が先生との面談を取り付けてくれることになった。
どうしても大学という場所に行けない。オンラインでの受講や録音、資料の配信という措置をとってもらえないだろうか。という趣旨の私の要望に対して、帰ってきた答えは「できない」というものだった。
オンラインでの講義はコロナ禍という特殊な状況に対応したものであること。他の学生との公平性。それに加えて先生が特に強調したのは対面での授業に価値を置いている、という大学の理想だった。
コロナ禍で先生方が録音を取るようになり資料も配信が通常になり、今後もコロナに感染して休んだ学生のために録音は取るとのことだから、それらを配信する「配慮」の手間はこれまでより減っただろう、というのは私の勝手な期待だ。正直ダメ元だった。
他の学生との公平性、についても視覚障害、聴覚障害を持つ学生にも完全にバリアをなくす支援はできない、限界はあるとの例まで出してくれて納得した。
ただ、大学の授業は対面で行われるべきであるという理想を理由として前面に押し出されたことがとにかく悲しかった。私は大学の理想に適応できなかった。大学ができる配慮は、朝起きられない学生に午後の授業の受講を勧めることや、一度にやってくる提出期限を負担に思う学生にその期限をずらして告知することであって、オンラインであればどうにか授業を受けられるが大学という場所には行けない私はその配慮の範囲外だった。
「あなたのような人はたくさんいるから。自分だけだと思わないで」
「大学に来れない人はあなたのように繊細な人で、真面目な人。大雑把な人はそうならない。でもね、繊細というのも長所だから」
たくさんいるなら大学として対策を打つべきなのではないか。孤独だと悩んでいるわけではなく、授業を受けたいのに身体的な理由で受けれないと言っているつもりだったのだが認識の齟齬は大きかった。
私が「繊細」でそれを短所と捉えていることを前提に話されて困惑する。私が繊細かどうかは私が決めるし。
結果的に私は独学で教科書を暗記して試験だけ大学で受けるという法学部ではそこそこありふれたやり方で単位取得を目指すことになったが、それが録音や先生が作成した資料を通して授業を受けることよりも大学の理想に近かったのかは分からない。
窓口はもうひとつあった。予約がようやく取れた学生相談。対応してくれた先生は私の状態を聞いてすぐ特別支援の先生につないでくれた。そちらでは適応障害の症状や何ができて何ができないのかを明確にして診断書とともに「合理的配慮」の申請ができることを知った。
ただそちらは月単位で時間がかかる手続きで、相談のために大学に行くことすら難しくなっていた私にはその選択肢は選び難かった。教務係を通してではなく先生方1人ひとりに事情を話して配慮を求めるという提案もしてもらったが、先の面談で打ちのめされていた私は「もうがんばれません」とまた泣いて、その手段を取らなかった。取れなかった。
実家で
大学に行くのが辛いのに何度か通ったり先生と面談をしたりしているうちに、より足は重くなり、ついには大学のある仙台にいることすら辛くなってしまった。また部屋から出られなくなるのは怖いので、さっさと実家に戻ることにした。
その頃は実家もかなりのピンチで、母は癌になり、抗がん剤治療を打ち切ったところ。祖母は余命4日と言われ、さらに両親はコロナに感染していた。挙句の果てに娘が大学に通えず帰ってくるってすごいな。
とはいえ家族の病気はわかりやすい悲しさで、適応障害のしんどさとはまた違ったものがある。当時の私にとっては、その悲しみには正当性が与えられているようで変に気楽だった。両親がコロナから回復するのを待って実家に帰ると母は不安障害を発症しており、私は父と祖母の葬儀をし、母を病院に送迎し、家事をする日々を送った。(幸か不幸か)大学どころではなかった。
大学の学生相談窓口に電話で話を聞いてもらったりしながら1ヶ月を乗り越えたところで独学での勉強を再開した。シラバスを参考に、できるだけ時間割通りにその日の授業範囲を教科書で読み込んだ。先生の裁量でオンデマンド配信される授業も僅かながらあり、それらに助けられながら消えた1ヶ月を取り戻すべく勉強した。
モチベーションの半分は大学への恨みつらみだった。私の「勉強したい」を「大学の勉強は対面でするもの」なんて理想を掲げてで遮断しやがって。負けない。怒りながら、泣きながら、吐き気をもよおしながら勉強した。吐き気って分かりやすい拒絶の表現だな、とか変に感心した。ほとんど自傷行為だった。
良かったのは半年(実質3ヶ月)だけと期限が決まっていたこと、これが終わったら大学から解放されること。それに加えて「やりたくないけどやっている」ことに自覚的であったことだと思う。
抑うつ状態だった休学前は、「大学に行きたいのに行けない」と思いこんでいた。勉強したいのにできない。頑張りたいのに頑張れない。頭と体がちぐはぐだったので体が言うことを聞いてくれなくなった。
今この時点で私はこの大学に行きたくない。この環境で勉強したくない。この方向には頑張りたくない。それを自覚しながら、それでも卒業したいのは本当だったので、そのために嫌なことを受け入れた。
(とはいえ相当に不健康だったし法学そのものも嫌いになりかけたのでもうやりたくない。)
なにはともあれ最後の期末試験が終わった。試験期間の2週間だけ大学に通学することはできた。息がしづらかろうと、涙が出ようと、もう試験が終わったあとのことばかり考えていた。
3月のいま
ずいぶん長くなってしまった。インスタに載せた写真や自分の記憶を振り返ると楽しかったことが大半なのに、日記を振り返るとしんどかった日の記録が多くて驚く。
そういえば、休学してからネガティブな自分を表現するようになった。大学に行けなくなるまでは「悩みがないのが悩み」というようなポジティブ人間で、そこに価値を置いていたのに。悲しみや怒りを大事にするようになると出てくる出てくる。今まで閉じ込められていたネガティブな感情がどっと出てきて、自分でも驚くくらい。かなしいよね、つらいよね、しんどいよね。でもその気持ちが、自分では結構好きです。
さて。今は春休み。試験が終わった後に「ちゃんと休む」と自分に言ったはずなのにやっぱり楽しくなっちゃって散々友だちと遊んで映画見て勉強して旅行して……と忙しくしてたので、一旦ほんとにちゃんと休もうとしている1週間。
就職は決まっていません。新卒?とかのために卒業を先延ばしにしようかとも思ったけど、大学と就活の両立は絶対できないと考えてまずは卒業することにした。
だから「適応障害を越えて私は今バリバリ働いています!」みたいな文章は書けなかった。そういうのが求められているのか知らないけど。
でも、前の記事で適応障害は私にとって「挫折」であり「誕生」だと書いたように(書いたことすら忘れていたけど今もそうだと思う)休学してから私の世界はより豊かになったと思う。いろんな場所に行って、いろんな人と喋って、いろんな生き方を知って。詩が読めるようになったり、人前で泣けるようになったり、そんな小さな変化がたくさん。というかそれ以前の自分を覚えていなさすぎて実はあんまりきちんと比較ができない。もしかしたら、もう少し時間の経過が必要なのかもしれない。
だからまたいつか「その後」を書きに来れたらいいな。
*「適応障害」と名前をつけることは未だに良し悪しだと思っていて、普段自分についてはあまり使わないのですが、使うと社会的にわかりやすかったり伝わりやすかったり主張しやすかったりするので今回は使ってみました。
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