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『暗闇に戯れて』読んだよ

時勢的に勉強したいなと思ってト二・モリスンの『暗闇に戯れて』を読んだ。ト二・モリスンは『青い眼が欲しい』や『ビラヴド』などで知られる作家で、アフリカ系アメリカ人女性としてははじめてノーベル文学賞をとった。この本はハーバード大学の講義をまとめた文章で、黒人がアメリカ文学の中でどのように扱われてきたのか、作家の立場からテクニカルな観点で語ることで、黒人がアメリカ社会、あるいはアメリカの歴史の中でどのような役割を果たしてきたか、あるいはどのような役割を背負わされてきたかを論じている。

かなり込み入った文章で難しく、前提となるアメリカ文学の知識も全然ないので読み進めていくのに大変苦労した。本文よりも先に訳者の都甲幸治による文末の解説を読んだ方が内容がすっと入ってくると思う。最初はマジで全然何が書いてあるのかわからなかったけど、この本というか講義が小説を書く人に向けたものであるという前提を置いてみると意外とスッと入る場面が増えたので、「書き手として考えた場合」という留保をつけて読むといいかもしれない。小説に書かれた文章というのは基本的には全部作り物(起こっている出来事の総体とかはともかく、一文字一文字を連ねていって構成される文章そのものは一文字一文字の細部まで作者の意図によって形作られている)なので、キャラクターの行動や考え、それによって生じる出来事の描写は基本的には作者の営為だと判断できる。何を主観とするのか、その主観を置いたときに何を描写して何を描写しないのか、とかね。

その視点でアメリカ文学を読み解くと、客体としての黒人のキャラクターが小説の中で果たす役割も見えてくる。というよりも、ヘミングウェイやトウェインが黒人を作中に登場させながらも「果たさせたくなかった」ことが見えてくる。
本文の中で一番興味深かった例がヘミングウェイの『持つと持たぬと』という作品に登場する黒人の例だろう。この小説はチャプターごとに人称が変化し、主人公の白人男性で船乗りのハリーが語り手である第一部では黒人の名は出てこない。第一部全体を通して、この黒人は「ニガー」と呼ばれる。そして人称が変化する第二部では、黒人はハリーに「ウェスリー」と呼ばれ、地の文では「ニガー」と書かれる。この二つの名称がイコールの存在であることは本文中では示されない。第一部では言葉を発しないウェスリーは、第二部ではハリーの役に立つことしかしゃべらないし、「男(man)」という汎用的な呼称はハリーのために用いられるのみだ。
この黒人(≒ウェスリー)をできる限り透明化したいという意図がある、つまりはこの登場人物に黒人である以外の特徴や能力を持たせたくない一方で、話を進めるためにはどうしても船の舵を取る人物がハリー以外に必要(ハリーが船の上で別のことをするのが話の本筋なので)なため、ウェスリーは無言のまま船の前方を見守る。というねじれた描写によって、以下に引用するような奇妙な文章が生まれる。

「そのニガーはいまだ船を進めていた。そして前方で水面から勢いよく飛び上がる魚の群れを彼が目にしたのをおれは見た」。
「彼が目にしたのをおれは見た」というのは、構文的にも意味的にも時制的にもありえない。だがヘミングウェイは、黒人が喋るという事態を避けるために危険を冒した。
(中略)
より良い、あるいは間違いなくより適切な選択肢は、その光景を見た黒人に声を上げさせることだ。だがこの物語の持つ差別の論理のせいで、名前がなく、性別がなく、国籍のないこのアフリカ系の存在が、ハリーの仕事にとって重要な言葉を最初に発することは許されない。見る人物には、力と権威がある。見る力を持つのはハリーだ。

『暗闇に戯れて 白さと文学的想像力』ト二・モリスン著、都甲幸治訳、岩波書店

自分の書きたいものを書く上で必要な場面設定やキャラクターを綴るうちに、作家自身もどうしようもない、コントロールできないものが出てくる。それは「キャラクターが意思を持って勝手に動き出した」とかそういう話ではなく、「ここで船の前方に何かを発見したことにしたいけど主人公が今、優先的にすべきことは船の上での別の仕事なので舵を取っているのは別の人物にしなきゃならん」みたいな、物語上のセッティングと必然性だ。しかし描写というものは基本的に描かれた対象に力を持たせる行為なので、「黒人が何かを見つけて声を発する」という描写を入れた瞬間に作家の書きたいもののバランスが破綻してしまうことをヘミングウェイはもちろん知っている。そのため、上述したような奇妙な文章が生まれる。黒人が「魚がいました!」と声を出した瞬間に、注意深く維持していたハリーと黒人の力関係が破綻し、名もなき黒人は言葉を持ちその小説世界の中で活躍する可能性を持ったウェスリーとして読者に認知されてしまうからだ。

その作家としての懊悩と、結果的に出力されてしまった一文、それを喝破するト二・モリスンの作家としての目がものすごくスリリングだ。
本の内容は前述したように私には難しかったため正確に読み取れているとはいいがたいが、この本では、アメリカの成立過程では黒人差別は白人にとって自分たちの「自由」を認識するために用いられ、必要とされていたことが述べられている。ヨーロッパを離れて新天地を訪れ、アメリカ人となろうとしている人々はおそらく、黒人と黒人差別がなかったら互いに傷つけあって殺し合っていただろうとも。私達はアメリカ人だ、その根拠は、私達は黒人ではないからだ。と彼らは安心できた。そして他者化された黒人に、今度は自分たちの性質を「投影」する。いつか白人たちは暴力と野蛮によって襲われるかもしれないという怯えがアメリカ文学におけるゴシック・ロマンスには横溢しているが、なんのことはない、それは過去と現在において白人たちがネイティブ・アメリカンや黒人に行っていたことなのである。


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山田集佳
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