鴨東物怪録3「流し雛」
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流し雛堰落つるとき立ちにけり 鈴木花蓑
呼び出されて表へ出ると、大家の老婆が、手のひら大の丸い藁を手に、門前で待っていた。
藁の中央には、かろうじて一対の男女だということが分かるシンプルな人形(ひとがた)が載っている。大家曰く、去年の雛祭りの日に下鴨さんで買った雛人形らしい。家の穢れを引き受けていただいた後、一年後に川へお流しするものだそうだ。そして、今日がその流し雛の日なのだが、急用が入り、神社まで行く時間がなくなったので、代わりに川へ流してきてほしい、ということだった。
要するに、雛人形を川へ流すお使いを頼まれたのだ。
春休みでやることもなかったので、軽い気持ちで引き受ける。部屋に戻って調べたところ、あまり時間がないようだったので、さっそく出掛けることにした。とはいえ、せっかくの外出の機会なので、散歩も兼ねて徒歩で向かうことにする。
部屋を出たところで、隣室に住む色白の女性――、弥生さんに出くわした。挨拶はしたものの、話題らしい話題もない。かといってそのまま通り過ぎるのも憚られ、なんとなく妙な間が生まれた。そこで咄嗟に、大家から預かった雛人形を見せたところ、随分と気に入られてしまった。ぜひ欲しいとのことである。
いったん断ろうとはしたが、今日が誕生日だと言われては断るわけにもいくまい。弥生さんが特に欲しがっているのはお雛様のようだし、片方でも流せば大家への義理は立つだろうと思い、桟俵からお雛様を取り外して、弥生さんに贈ることにした。
◆
のんびり川沿いの通りを上がっていたら、時間を越してしまっていた。
ほとんど人はいなくなっていたが、念のため関係者らしき人に聞いたところ、流すだけならまだ大丈夫とのことだったので、預かっていた雛人形を、――といっても「雛」はもういないのだが――、神社を縦に横切る細流にゆっくりと浮かべた。
流れんとして流れざるかと思いきや、やはり流れているといったような、悠長な速さで桟俵が流れていくのをぼうっと眺める。眺めていると、段差を落ちて姿が見えなくなる直前に、寝ていたはずのお内裏様が立ち上がったように見えた。しかも、こちらを恨めしそうに見ている。
目を擦って確かめてみたが、そのころには姿を消していた。見間違いのような気もするが、なんだか気味が悪い。早々に立ち去ることにする。
◆
帰りも同じように川沿いの道を下がっていく。ところが、片道三十分そこそこの道のりが、帰りに限って妙に長い。そのうえ、よく見知ったはずの景色が、まるで見覚えがないように感じる。
これはもしやと思って振り返ったところ、先ほど細流にゆだねたはずのお内裏様が、はるか後方からこちらを見ていた。
驚いて角を曲がると、姿が見えなくなった。
ほっとしてしばらく歩いていると、またどこかから視線を感じる。振り返ると、やはり遠くからお内裏様がこちらをじっと見ていた。立ち止まって観察したが、こちらに近付いてくる気配はない。
明るいうちには帰れると思っていたが、気付くと夕方になっていた。
それでも一向に、諷詠館に着く様子はない。振り返るとお内裏様がじっとこちらを見ている。立ち止まって見ても動いているようには見えないが、少しずつ距離が縮まってきているような気がする。
いつのまにか夜になった。
お内裏様はどんどん近付いてきていて、もはや家一軒を隔てた距離にいる。何をしてくるわけでもない。ただ、こちらを恨めしそうに見ているだけである。
とうとう真っ暗になった。
暗闇の中でも、お内裏様の姿は不思議と浮かび上がって見える。もはやお内裏様との距離はほとんどない。
追いつかれてしまったらどうなるのだろうと考えて、自然と足が走り出した。走り出してはみたが、それが無駄だろうということは分かっているので、すぐにあきらめた。どうやらお内裏様は、振り返るたびごとに、少しずつ近付いてきているらしい。だとすれば、振り返りさえしなければどうにもならないはずである。ぜったいに二度と振り返ったりはしない。そう固く決意を決め、歩を進めようとして――、
「お前なにしとんねん」
背後から話しかけられて、咄嗟に振り返った。
「しまっ……、」あまりの驚きに腰を抜かしながら背後を見回したが、お内裏様は先ほどまでと同じように、じっとりこちらを見ているだけだった。声の主を探して塀の上を見ると、案の定、黒猫がいた。
「おのれ、えらいことしよったな。わしが来ぉへんかったら、二度とうちに帰れんとこやったんやぞ」
そう言われて、気付けば諷詠館の門前である。助かった――、とは思ったものの、お内裏様はまだ目の前にいる。もはや手の届きそうな距離である。
すがるように黒猫を見上げると、彼は呆れたような目でこちらを見下ろしていた。
「つがいのもんを”べっこ”にしたら、そらぁバチがあたるやろが。ほんで、お雛さんはどないしてん」
「えっと、弥生さんが欲しいって言ったから、誕生日プレゼントにと思って……、」
「隣の女に渡したぁ? お前そら……、」 黒猫が怪訝な顔をする。
「……まあ、ええわ。ともかく、はよ返してもらい。このままやと、おのれ、えらいことになんで」
◆
結局、事情を話して、お雛様は弥生さんから返してもらうことになった。
すんなり返してくれたものの、なんだか少し寂しそうな顔をしていたので、代わりの誕生日プレゼントは用意することを約束した。
お雛様は翌朝、お内裏様と同じところへ流した。段差を流れ落ちる直前、仲良く夫婦で手を取り合っているように見えたのは、気のせいではあるまい。
そんなことよりも、今は、弥生さんに渡すプレゼントについて悩んでいるところだ。恥ずかしながら、女性にプレゼントを渡すのは初めてなのである。黒猫に相談したら、自分の寺のお守りを勧めてきた。まったく、肝心なところで役に立たないやつである。
賀茂御祖神社の流し雛
賀茂御祖神社(通称:下鴨神社)で毎年3月3日に催される神事。桟俵に乗せた一対の雛人形に穢れを託し、境内を通る御手洗川へ流すことで、子どもらの無病息災を願う。いわゆる雛祭りの原型であり、現代でもこのような神事を行う地域は全国各地に点在する。
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