読書感想文(57)レイ・ブラッドベリ作、伊藤典夫訳『華氏451度』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回読んだのは、最近NHKの「100分で名著」でも取り上げられたディストピア小説の名作です。

この本を知ったのは実はほんの数ヶ月前で、読書が好きだという話をした時に高校生がオススメしてくれて知りました。
かなり熱を入れてオススメしてくれましたが、読み終えた今ならその興奮もよくわかります。

そして今回読むに至ったのは、ジョージ・オーウェル『1984年』を読んだのを機に、他のディストピア小説も読んでみようと思ったからです。

感想

まず全体的な感想としては、ストーリーも描写も盛り上がって面白かったです。
文章が程よく装飾されていて良いなと思いました。
ストーリーは第一部から今後の展開が気になって仕方がありませんでした。
ほんの少しだけ、翻訳らしい読みにくさは感じましたが、比較的読み易いので、難しい話が苦手な人にもオススメです。

この本を読んで初めに気になったのが、クラリスの発言でした。この作品の中では少数派の思考の持ち主。一つ一つの物事を丁寧に観察しています。そしてそれが少数派となったのがこの作品の舞台ということです。
後にベイティー隊長はクラリスについて「いろいろなことに、なぜ、どうしてと疑問を持ってばかりいると、しまいにはひどく不幸になる」と言っています。『whyからはじめよ』という本があるように、最近よく言われている大事な考え方です。しかし逆に言えばそれを強調しなければならない現代であるとも言えます。
また、じっくりと物事を観察する時間がない、というのもこの本で大きなテーマであると思います。この辺りはミヒャエル・エンデ『モモ』とも通ずるところがあるように感じます。これについては本文でもまとめられていたので、後で引用します。

この作品のような社会になってしまう背景として、人々が幸福を追究した結果、より楽なものを求めて、物事を考えなくなってしまったというようなことが書かれていたと思います。
そしてこれも現代ではしばしば言われることではないでしょうか。
わかりやすさばかりが求められてしまい、本質を見失ってしまうことがあります。本質を理解することではなく、納得してわかったふりができることが目的になってしまいます。
自分の頭で考えること、これは単純ながらとても大切なことです。そして考えるために知識も必要です。

また、考えれば考えるほど不幸になるということについては、高校生の時に私も考えたことがありました。
これについては大学の授業でとある先生が「色んなことを深く考えようとする人は大抵人生上手くいってないんですよね。なぜなら人生上手くいってる人は、上手くいってるので考える必要がないからです」と言っていました。勿論、世にいう成功者は様々な失敗の上に考え抜いて今成功しているのだと思いますが、「自分の人生上手くいってるわ〜」と思っている人がそれが変わることを想像するのは難しい、ということでもあると思います。
ただ、私はそれでも考えないよりは考えた方が良いという結論に至りました。
何故かと言われると難しいですが、一番の理由は私自身がそういう人間でありたいと思うからです。
こういう自分像についても時々考え直すことが大切だなと思います。

きみに必要なのは本ではない。かつて本のなかにあったものだ。(中略)さがしものは手にはいるところから手にいれればよいのだ。古いレコード、古い映画、古い友人。自然の中に求めてもよい。みずからのなかにもとめてもよい。書物は、われわれが忘れるのではないかと危惧する大量のものを蓄えておく容器のひとつのかたちにすぎん。

これも先程述べた本質の理解こそが重要であるということに繋がることではありますが、それ以上にあらゆる物事を題材に学びがあることも言っているように思います。現代短歌もこうしたところを目指しているのかなと思いますし、その記録媒体として短歌を用いるというのは、記憶に残りやすいという点で良いなと思いました。

話が少し逸れましたが、続いてこの作品の社会に足りないものが三つ挙げられます。
一つ目が情報の本質、二つ目が余暇、三つ目は情報の本質と余暇の相互作用から学んだことにもとづいて行動を起こすための正当な理由です。
これらは現代においても非常に重要なものだと思います。
一つ目は言うまでもないでしょう。私の周りにいる社会人の多くが、このために読書をしているように思います。
二つ目は私が最も重要だと思うものです。というのも、これは『7つの習慣』の第3の習慣に関するところの、第2領域「緊急ではないが重要なこと」に属するものだと思うからです。
実は私は現在、まさにこのために余暇を取っていますが、実感できるレベルで思考の柔軟性が増しています。
余暇は現代においてもっとも気にしなければならないことであるように思います。
そして三つ目は、これも重要です。情報と思考によって行動を起こすことです。そして自分を行動させるための動機付けが必要です。動機付けについてはまだ不勉強なのですが、内的動機付け或いはモチベーション3.0が必要なのだと思います。

「フェーバー教授?」
「なにかね?」
「ぼくはなにも考えていません。いつものように、いわれたとおりに動いているだけです。金を引きだしてこいといわれたから、引きだしてきましたが、自分ではまるで思いつきませんでした。いつになったら自分の考えで動けるようになるんでしょう?」
「そのことばが出てきたということは、もうすでに自分の考えで動いているということだ。これからもわたしを信用してくれんとこまるぞ」

ここは名場面だと思います。
自分で考える機会を奪われてしまった社会で、主人公が自分で考えて行動していることを自覚します。
現代に生きる人々も自分で考えて行動しているかということは常に意識しておくことが大切ではないでしょうか。
一方で何かに自分の考えが影響されているということも自覚しておくことが大切だと思います。

「 わかる、わかるぞ。きみは失敗を恐れておるんだ。だがね、決して失敗を恐れることはない。失敗は糧になる。わたしは若いころ、臆面もなく無知をさらけだしておった。強烈なしっぺ返しを喰らったよ。しかし四十になるころには、なまくら刀が磨かれて、鋭い切っ先に変わっていた。無知を隠せば、だれにも攻撃されず、なにも学ばぬままだ。

この作品の社会は、考えることによる不幸を取り除こうとした社会です。
ゆえに自分で考えようとした時にこのような恐れが生じるのは自然なことのように思います。
そしてこれもまた現代において大切なことではないでしょうか。失敗を糧にすべしというのは頭で理解できていても、心の中のどこかでやはり失敗を避けたいと思ってしまうものです。
ただ、これについてどこまで失敗しても大丈夫かということを真剣に問えば、ある程度までは簡単に行動を起こせるようになると思います。そしてそこまでたどり着くためにもやはり「考える」という行為が必要です。

「すくなくともきみは正しいことをするために、ばかなことをしたのだ」

これもすごく大切にしたい考えです。
「正しい」というのはなかなか難しいものですが、何か既存の常識を打ち破るには、例えバカなことでもやらなければならない時もあるし、不必要にやってしまうこともあると思います。重要なのは、自分が信じるところを信じて行動することだと思います。

思い出そうとしなくていいんだよ。必要になれば出てくる。

これは本の内容について述べたところです。
私は最近よく本を読むようになってこれを強く感じます。
昔好きだった小説などを読み返すと、「自分のこの考えのルーツはここにあったのか!」と驚くのです。
精読の重要性もわかるのですが、私は経験重視の学び方が合っていそうなので多読を目標にしています。

おわりに

この作品は面白い上に様々なことを考えさせられました。
同じくディストピア小説の代表作とされるジョージ・オーウェル『1984年』と比較すると、『華氏451度』の方がドラマティックで面白く、読みやすいように感じました。
一方で『1984年』はかなり重くのしかかってくるような感じです。
他にどんなディストピア小説があるのか全然知りませんが、またそのうち読んでみようと思います。

というわけで、最後まで読んでくださってありがとうございました。

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