見出し画像

【台東区】東京時層地図・上野国立博物館編

上野の森は徳川家のお寺だった。

※2019年5月訪問


博物館は80年前の建物。
圧倒的な存在感を誇る。
建物自体が視界からはみ出している重厚感。
これが国家レベルの博物館なのだ。
時間が許されるなら一日中へばりついていたい。
なんなら朝から晩まで一人で昼寝食事付きで博物館巡りでも良い。
そんな生活してみたい。

今回は国立博物館の平成館の東寺、密教展に行ってきた。

唯一撮影可能な展示物、帝釈天。象に乗っている。他にも増長天、多聞天は一見の価値あり。

画像1

老若男女ならぬ、老人老人老人。

密教展に老人が沢山くるという事は、世の中は密教に興味あるのか。
いや、興味があるわけでなくて、宣伝してるから来るんだ。

私も頂戴した無料券で来たわけだし…

展示でマンダラが多数あった。図絵である。

正木晃 「知の教科書 密教」によるとマンダラには二種類ある。

凡人が悟りを開くマンダラは、右下から反時計回りに回っていき真ん中に向かう。

悟りを開いた者が凡人を救済に向かうマンダラは、真ん中から下回転し時計回りに回っていく。

大体が凡人が悟りをひらくタイプらしいが、実際みるとどこから見ていいのかわからないし、似たようなものに見えてしまう。

曼荼羅や密教道具は今ひとつ理解出来なかったが、仏像は非常に良かった。
今にも動きそうな生命があるように見える。


次へ進もう。

今回は地形図から。

博物館の噴水を目の前にした状態で撮影。
ざっくりいうと青い部分は標高5メートル以下、茶色の部分は標高20メートル以上。上野台地とも言える。

画像2

縄文時代は標高の低い青い部分には海が来ていて海岸線だった。

海岸線には死者を埋葬したり、貝を一ヶ所にまとめて捨てる貝塚があった。

縄文人の貝塚や埋葬場があるような場所は、後の世に霊的な何かある場所とされ、寺や神社ができるようになったというのが中沢新一 アースダイバーの主張。

現実にはどうなのというと、この地形図の北側、東側、海岸線に沿ってびっくりするほど寺だらけだ。

博物館の北側にある寛永寺は徳川家の菩提寺。

江戸城からみて、北東のいわゆる鬼門に位置する場所のため、風水的にそこに寛永寺を置いたという話もある。

風水がどれだけ効くのかはわからない。

鬼門という考えも、古代の中国で北方の異民族が北東から攻めてきたからということかららしい。

それを日本に持ってくるのは全くのナンセンスだとも思えるが。

さらに上野は摺鉢山古墳という前方後円墳まである。

ここは住んでる人々にとって、この場所は昔から神聖な、容易に立ち入る事のない場所であったということが言えるかもしれないがどうだろうか。

中沢新一 アースダイバーが単なる空想とも言えないのが、東京の貝塚の多さだ。
100以上ある。実際はもっとあるだろう。

知人の親方の話によると、遺跡や遺物が発見されそれが公になってしまうと教育委員会がやってきて、工期が大きく遅れてしまうために、遺跡っぽいものが出てきても見なかった事にしたり、骨が出てきたら袋いれて、一ヶ所にまとめてナムナムして終わりにしていたという話を聞いた。

それでも教育委員会のホームページには都内の遺跡は沢山あることが確認できる。上野のこの辺り自体が遺跡なのだ。

画像6

文明開化時 1876-84(明治9~17年)

画像3

地図の切り替わっているところで、精密に書かれているところとそうでないところがある。
おそらくはアプリの仕様上こうなっているのだと思う。2枚の違った地図を貼り合わせているのだ。

北側が徳川墓地、そしてその菩提寺である寛永寺がある。

北東にはのちに鶯谷駅ができるのだが、まだ出来ていない上野止まりの頃の話だ。

博物館があったあたりは、もとは寛永寺の本坊で、幕末に彰義隊が立てこもり、官軍の殲滅作戦により、この辺り一帯は焼け野原になったとある。

博物館は「内国」とだけ読める。

1877年の内国勧業博覧会の本館として建てられたものだろう。
南には博覧会陳列場とされる建物がある。

もしくは1881年に建てられたものかもしれない。
1923年大正時代の関東大震災で崩壊するまでは存在した。

明治末期 1906-09(明治39~42年)

画像4

寛永寺境内に、何か仕切りのようなものができて、ひとつひとつの墓が独立しているように見える。徳川家の墓だ。

今の東京藝大の所に音楽学校ができた。
その北には天台宗の寮がある。

博物館東側の慈眼堂とはなんぞやとgoogleで調べると天海を祀っている所だった。
大変な長寿で数々の逸話がある有名なお坊さんだ。
なるほど、明治末期に近くに天台宗の寮があったりするわけだ。
寛永寺自体が天台宗で開祖が天海なんだ。

西の比叡に対して東叡と呼ばれ、江戸時代はこの場所一帯が寛永寺だったとか。
上野の山は霊場とも言える場所だったのだ。

博物館の北側には池の茶室があり、今では期間限定で一般公開されているようだ。

画像下の擂鉢山古墳の横に大仏との表記がある。

明治の初期まで大仏殿があり、明治期には大仏殿を撤去、その後は戦中まで釈迦如来の大仏があった。今では顔面だけ残っている。

これ以上落ちないと言うことで受験生に人気だそうだ。


関東大震災前 1917-28(大正6~昭和3年)

画像5

博物館は明治末期と同じ形をしている。この後、関東大震災によってほとんどが使用できなくなり建て替えられる。

寛永寺は霊屋、二霊屋といわれた区画を作っている。(たまや)と呼ぶようだ。

歴代将軍を祀った豪華な霊廟だったようだが、のちの空襲により焼け落ちた。

豪華絢爛な彫刻がほどこされた立派な門があったようだ。

博物館前の竹の台と書かれているところは竹台陳列館。
明治期の博覧会陳列場の建物の名残だろうか。


昭和戦前期 1928-1936(昭和3~11年)

画像7


この時代の重要施設は白抜きされたりするのだが、あまり前後の地図と変わっていないので、戦時の重要度は薄いようだ。

寛永寺に徳川吉宗墓の表示がある。

いきなり吉宗の名前が地図に出たということは、戦前に吉宗人気が高まった為かもしれない。
質素倹約、質実剛健がこの時代のスローガンだろう。


その時代の流れにあった歴史的人物が世の中にひろく知らしめられるのは、今も昔も変わらないようだ。

博物館、科学博物館も現在も残っている。
アメリカ軍の空爆はかなりの精度で狙って爆撃していたは明らかなので、意図的に避けたのではないかと思う。目と鼻の先の徳川霊廟は空襲で焼失した。

戦争中には下町が空襲で1日に何千の人達が亡くなり、この地は仮の埋葬場となった。
楽しいばかりが歴史探訪ではないという事を認識する。


高度成長期前夜 1955-1960(昭和30~35年)

画像8


戦後。博物館の姿が変わっているが、博物館自体は戦前の1938年11月に開館とあるので、戦前の地図の少し後に新しいものができたことになる。
鉄筋コンクリートの重厚な造りは明治神宮の宝物殿によく似ている。

博物館前の表慶館の歴史は古い。
1900年に大正天皇が皇太子だった時代の結婚のお祝いとして建てられた。

博物館の敷地にはいると、展示物みたさに博物館に脇目も振らずにこの建物を素通りしてしまうが、この表慶館そのものが、明治建築をいまに残す重要な文化財なのだ。120年前の建物はほとんど残っていない。

バブル期 1984-1990(昭和59年~平成2年)

画像9


凌雲院という寺はなくなり、西洋美術館になった。

以前、新宿オペラシティは長楽寺跡であるということがわかり、個人的には動揺していたのだが、そもそも墓や寺趾に他の建物が建つのはなんの不思議でもなんでもない事だったのだ。

これは大事だ、大発見、もしかするとこれは公然の秘密だぞと思っていたのは、私だけだったかもしれない。

明治期の廃仏毀釈の流れで、社寺や墓地がなくなり、移転し、空いた広い土地に大きめの施設を作ったというのが、自然の流れなのだろう。

上野の公園は縄文の遺跡であり、古墳であり、将軍家の菩提寺であり、幕末の戦場であり、戦中の埋葬地であり、慰霊の地であり、霊場なのだ。

そして今では多くの観光客が集まる観光地となったのだ。


最後に凌雲院跡に建つ西洋美術館前にあるロダンの地獄の門のレプリカ。

画像10


真ん中上にはいわゆる考える人がいる。

これがロダンで、地獄の門で、考える人と認識できるようになっただけでも収穫は大きい。

昔、オルセー美術館にいったとき「考える人」が単体で飾られていたという記憶がある。しかし、そんなものはないらしい。

無いものを見たつもりになっている。

記憶はいい加減のようだ。自分に都合のいい記憶が入っていることがよくある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?