【渋谷区】代々木八幡神社と映画 PERFECT DAYSと高野山奥之院
先日、高野山奥之院にいってまいりましたので、それを含めてお話します。
今回は代々木八幡神社です。
代々木八幡の東京時層地図については、明治時代まで別当寺であった隣の福泉寺の回でおこなっております。
読み返すと江戸時代にこの地に移動した立役者である初代紀伊藩主徳川頼宜公の側室である圓住院殿の墓がちょっと荒れてるから何とかしたい。と結びに書いてありました。いきなり出てきて何言ってんだ感はあります。笑
この代々木八幡神社が舞台となっている映画があります。
パーフェクトデイズ
という映画です。
普段は映画の時間があるなら釣りや柔術にでもいったらいいじゃないかという考えなのですが、今回は奥さんに強く誘われたのでノコノコと行ってまいりました。
内容は主人公の役所広司さんが清掃員として毎日トイレ掃除し、日常の変化が少し起こるけど、ほぼなにもなく終わる映画です。
私の馴染みの場所である隅田川や代々木八幡神社、深町公園のトイレなどが舞台で、私も地味な仕事をしていますから、まさにコレは自分のことなんじゃないかとドハマりしました。
こういう地味だけど幸福を感じられる日々を送りたい。
ドハマりした挙句、今で寝起きにニーナシモンのFeeling goodをかけて布団をたたんでいます。
それからしばらく経って映画のエンドロールで YANAI という名前がよく出ていたのを思い出し、改めて調べたところ、
YANAIはやはりあの柳井。
ユニクロ柳井さんの次男の柳井康治氏が個人会社で企画発案、出資、製作、プロデュースを手掛けているのだとか。
なるほどだから衣装がユニクロだったんだ。
そして舞台となっている渋谷区は、東京トイレプロジェクトといって、安藤忠雄、隈研吾、佐藤可士和、NIGOといった有名デザイナーがデザインしたトイレがたくさんある区です。
こちらは笹川財団がお金を出し、これも電通出身の柳井康治さんが関わっていているのだとか。笹川財団は昭和のドン、笹川良一のつくった財団。そういえは渋谷区長は電通出身だった。
裏側を知ると、電通、ユニクロ、笹川財団の金持ち権力者が、貧乏でつつましやかな生活を讃美、自らの企画をさりげなく宣伝する映画という事にもなります。
なんだプロパガンダ映画か。
プロパガンダには興味を持っていて、注意深く見ているはずなんだけど、これは上手いなぁ、やられちゃったなぁという気持ちにもなってしまいますが、それでもやっぱり慣れ親しんだ場所が舞台になるのは親近感わきますし、自己投影してしまうのです。
結果的にこの映画は好きであると。
いや最高だと。もうこれは僕史上最高の映画だと。
で、映画で役所さんが座っていたベンチやら掃除していたトイレやらを眺めて余韻を味わっているのです。
代々木八幡神社
のホームページによると由緒と沿革は
ということは、
江戸時代に延寿院殿(圓住院殿)が数々の寄進をしなければこの神社は成り立たなかったということになります。
圓住院殿の夫は徳川家康10男の紀伊家初代藩主 徳川頼宜です。
徳川幕府の力を使って、現在ある神社の形になったといえると私は考え、圓住院殿のお墓まいりもするようになりました。
圓住院殿墓は、秋は杉が伸び放題で荒れた様子でしたが、今年のお彼岸すぎたら綺麗に刈られていました。お花を手向けられる方はいらっしゃったのですね。
ちなみに御線香おきと花瓶は私がお供えしました。
ここからが今回の
本題の和歌山城、高野山奥之院旅
となります。
お墓参りしている内に圓住院殿の夫である、初代紀伊藩主 徳川頼宣公のお墓参りもしたくなりました。
墓所は和歌山にあり、長保寺というお寺なのですが、災害により現在観覧中止。
その他は、高野山奥之院に墓所があります。
妻娘帰省中の今、このタイミングしかない!と和歌山城と高野山奥之院に行ってまいりました。
仕事終わりに18時に新幹線に乗って特急乗り継いで和歌山アパホテルについたのが23時。
翌朝から行動してその日に帰るという若干もったいない弾丸旅。
行ってまいりました和歌山城。
和歌山城は羽柴秀吉の弟、秀長が築いて、関ヶ原以降は浅野氏、徳川政権になってからは、徳川家康10男の徳川頼宜が入り運営していくことになります。
和歌山城から高野山奥之院の徳川頼宜墓所に向かいます。
同じ和歌山だからと距離感を甘くみていましたが、和歌山駅から和歌山線で橋本駅、南海高野線で極楽橋駅、ケーブルカーで高野山駅、そこからバスという行程。3時間かかります。
ようやくついた奥之院。
両脇に苔むした戦国大名やその一族の墓が延々と続き、その雰囲気に圧倒されながらも進むと、徳川頼宜公の墓はありました。
ここに来たかった。達成感もひとしおです。
個人ホームページで徳川頼宜墓所のことを書かれていたページをみたのですが、やはり見ると来るとでは違いますね。
徳川頼宣公晩年には、紀伊藩の財政は大きく傾いたとの事。
それには代々木八幡神社の建築も影響しているのでしょう。側室のお願いを聞いていたということは、正室、その他の側室のお願いも聞いていたことだろうし。その他もジャブジャブにお金を使っていたのかもしれません。
奥之院には教科書上の人物が多数ありますので、いくつかご紹介いたします。
各々、祀っているお墓は各地にあり、宗派も違うのですが集まっているのは不思議な感じがしました。
実際に墓石はどのくらいの昔からあるのでしょうね。
お墓の意匠は似た感じなので同じ時期なのか。
奥之院の終着点に鎮座しますのは、弘法大師御廟。この橋から先は撮影禁止です。
奥之院の余韻はいまでも身体に残っており、また機会をみつけて今度は宿坊に泊まりたいです。
最後に代々木八幡境内に見られる構造物を紹介
して終わりたいとおもいます
今回は昨年からやりたかったことが出来て満足な旅ができました。
350年の時を経て、東京代々木八幡の圓住院殿と高野山奥之院の南龍院公を繋ぐ旅が無事に終わってなによりです。(実際のところ和歌山の長保寺には2人のお墓も位牌もあります)
また行きたいと思います。
つぎは徳川頼宣神社絡みかな。