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【渋谷区】福泉寺

渋谷区の代々木八幡の隣にある福泉寺に行ってまいりました。


福泉寺は江戸時代では代々木八幡の別当寺にあたる場所です。

以前、廃仏毀釈時に永代寺の住職が富岡八幡の神職にスライドした件がありましたので、この神社はどうなんだろうなと思っていましたが、お寺で聞くまでもなく、こちらで書かれている通り

http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/fukusenji/

「第六十一世 貞憲 の代で神仏習合の時代は終わり、六十二世 智貞 は本堂庫裡を改築し寺風を改めました」

と書かれていたので別当寺の住職が神職にスライドというのは稀のようです。大抵のお寺は大人しく時流に身を任せていたのかもしれません。

江戸名所図会

斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』九,博文館,1893.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/994938 (参照 2023-08-30)

こちらの江戸名所図会の代々木八幡がつくられたのは1834年 天保5年

直観的にみると、手前の階段の所が現代の代々木八幡の階段かとおもいましたが、よくよくみると真ん中の建物が別当、右奥が本社となっています。

西側からの図とおもいきや、これは東側の図でした。

東側の階段は今もあって私道になって通り抜け禁止です。神社一帯の手前にある川は河骨川でしょうか。現在は川は暗渠化し沿うようにして小田急線が走っています。


江戸時代末期1855年頃

福泉寺と八幡の南の

御小姓組 小倉鈴之進 六百二十石

600石の旗本は今で言うと一石75,000円換算で年収4500万円ほど。旗本としては中堅どころですが、雇い人も多くて出費も多いので割と財政は厳しいようです。

国立国会図書館デジタルで調べてみたところ

文久元年(1861年) 続徳川実記(14代将軍徳川家茂の記録) に 小普請組 柴田能登守支配 小倉鈴之進 という名前がありましたのでその人で間違いないかと。

この柴田能登守は3000石の大旗本。実は戦国大名の柴田勝家の子孫だというからまた驚き。徳川家に士官していたのですね。てっきり秀吉に一族もろとも滅ぼされたのだと思っていました。

東京時層地図 明治13年 

この近辺については代々木八幡訪問時に行っておりますので・・・

と思ったら代々木八幡の記事は作っていなかった!!!なんてことだ。

以前、通称オリセンにいったときに、現代々木公園が練兵場となるにあたって、訣別の碑が代々木八幡神社に在ったということを取り上げただけでした。いずれ東京時層地図そこそこに詳しくしらべたいとおもいます。


明治後期

代々木八幡、福泉寺は半島のようになっているのがわかります。
縄文時代にはここまで水が入り込んできていて、鹿の角のようなリアス式海岸になっていたのだとか。

「その半島に住んでいる縄文人が岬の突端を貝塚や埋葬地として聖地とし、その思想は知ってか知らずか現代でも受け継がれており、社寺仏閣となっている。縄文人の聖域と現代人の聖域は同じだったのだ。」

というのが中沢新一さんのアースダイバー的考え。
真実はともかく、面白い発想であることには違いない。

そしてこちらの代々木八幡

なんと5千年前の縄文人の住居跡が発掘されているのです。

境内には茅葺の復元住居とその時の発掘された遺物を展示されている小スペースあり。昭和感漂う縄文人の蝋人形もあります。

要するにこの半島では縄文人が生活していた。

で、です。

この福泉寺から東の方角をみると、代々木公園一帯が木が生い茂っているのもあり、縄文時代に周辺が海が入り込んでいたことが想像できるのです。

墓所からの眺め

福泉寺の墓地内 眼下は2,3階住宅の屋根 奥が代々木公園

家家のある場所を海と見立てれば、まさにリアス式海岸そのものじゃないでしょうか。

縄文時代といっても10000年あるのでこのくらいの水の深さだったときもあるかもしれません。

縄文人は奥深く入り組んだこのリアス式海岸を丸太船で移動したりしていたのかな。海岸沿いには埋葬地や貝塚もあったといわれています。

縄文人の聖地が今も聖地だという中沢新一アースダイバー説を裏付ける隠れた場所です。


福泉寺の歴史

としては

こちらを引用しますと

●建暦2年 1212年 2代将軍源頼家の家来だった荒井智明という武士が夢を見て、隠居していた代々木の地に鶴岡八幡を勧請して庵を作る 

神社は天啓を得るパターンがあって、巣鴨の大鳥神社を作り直した人も夢になにかがでて私財をなげうって神社を再建したというんですね。こういう話ってあるんだな。

しかもこの創建話は代々木八幡に伝わっている話と全く一緒のもの。

ということは福泉寺と代々木八幡はスタートが一緒。

というか別当寺が福泉寺だから明治維新の廃仏毀釈までは全く一緒だったということか。

この別当寺と神社の関係性、今の感覚だとどうしたって別々に考えてしまって、一緒のものとは思えないですが、ほんの150年前までは一緒だったんですね。

●正保元年 1644年 江戸山王観理院支配に属して浄土宗より天台宗に改める。

この江戸山王観理院というのは赤坂の日枝神社の別当寺。明治維新後廃絶。まさに廃仏毀釈ですね。

●寛文4年 1664年 第三世長秀法印のとき、四谷千日谷の火葬場が千駄ケ谷を経て今の代々幡に移されることとなり、浄地を求めて奉遷する必要を生じ、たまたま圓住院殿の後援を得て、寛文11年(1671)より翌12年にかけて、別当八幡宮と共に、現在の地に奉遷しました(中興開基)。

ん、ということはですよ。1672年以前にはここにはなにも無かったっていうこと???

四谷千日谷というのは、今の信濃町駅あたりの場所。そこの火葬場が、今もある代々幡の斎場に移転。

この圓住院殿という人は大和国岩掛城主・山田政秀の第六女 大和国岩掛城というのは今の奈良県天理市に位置するようです。

大名かなとおもったら大和国は幕府領のようで大名ではなさそう。

●圓住院殿は元和八年(1622)紀伊徳川家藩祖頼宣(家康の第十子)の側室となり、当寺三世長秀と同族との関係によって、当寺で法要など営んだということです

なんと、円住院殿は徳川御三家紀伊藩初代藩主の徳川頼宜の側室。

たしかにWikipediaには側室山田氏と書いてある。大名ではないところからの抜擢なので相当気にいられていたのだとおもいます。

さらに側室入りしてから福泉寺を支援するまでのタイムラグが結構あります。側室入り1622年、和歌山藩祖の徳川頼宜1671年に70歳で没、福泉寺奉遷1672年。その間50年!!!

夫である徳川頼宜が亡くなったことに起因しているのでしょう。

円住院殿が側室入りしたのが15歳と考えても福泉寺奉遷時には65歳くらい。

このお寺の3世と同族、甥?というところが、なんとも不思議な話・・・

円住院殿は元禄3年没 1690年

80歳超えるまで生きたことになりますね。

当時としてはかなりの長寿だったと思います。

●円住院殿の娘松姫は上野吉井藩の始祖となる松平氏に嫁したところから、福泉寺は吉井松平家の崇敬をも得て次第に寺運は隆盛し、「江戸名所図会」所載の如き堂宇が整いました。圓住院及び松平家では、仏像、仏具、田畑など多く当寺に寄進し、その存続発展に資するところが多かったといいます。

上野吉井藩は現在の群馬県の高崎市。
藩祖となる松平氏に嫁いだということですが、Wikipediaみるともっと驚き。
元関白の鷹司信房の四男の信平に嫁ぎ、それが松平性を名乗り松平信平に。

松平信平は旗本としては異例の高位で、関白家×将軍家というマンガみたいな組み合わせ、孫の代には上野吉井藩の藩主となって大名となる。1万石のギリギリ大名ながら、扱いは国主と御三家と同等。

なるほどそれなら寺運は隆盛しますね。

寺内には代々木八幡、福泉寺の立役者、円住院殿のお墓があるようなので後々画像をとりにいってアップします。


ほかには

齋藤弥九郎の墓

●幕末の剣豪で、名を善道、号を篤信齊
江川太郎左衛門と共に江戸湾の測量、品川砲台の建設等に参画したことで知られています。
練兵館の館主として指導したのは、木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作、井伊直勝等門下三千余人に及んだといいます。
当寺練兵館は江戸三大道場のひとつで、「位の桃井(士学館)、技の千葉(玄武館)、力の齋藤」といわれました。
安政5年(1858)開墾地として寺領地より三千三百七十五坪の土地を購入し、三番町の道場から月に数回、門下生を連れて来て、自ら指揮をして開墾を行わせ、砲台築造の練習もしました。
その後代々木付近一帯に茶園を開き、代々木茶の名をおこしました。晩年隠居場として「代々木山荘」と名付けここに移りました。
明治4年10月24日没、74歳、遺言で代々木山荘に葬られますが、のちに小石川昌林院に移葬、弥九郎の遺志を生かすため、改めて同38年当寺に改葬しました。

これも大変なものが眠っていたぞ。
練兵館は現在の靖国神社内にあり、桂小五郎、高杉晋作、品川与次郎、井上馨、伊藤博文・・・なんじゃこりゃ、明治維新の中枢じゃないか。

そして斉藤自身は主人が韮崎代官の江川英龍で、水戸藩にもつながりが深く、安政の大獄では斉藤自身も巻き込まれそうになったということ。

うーん、江戸時代って単純に討幕と佐幕だけじゃないんですね。幕府内でもガチガチに揉めていた三つ巴。

大坪武門 著『幕末偉人斎藤弥九郎伝』,安倍関男,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/953206 (参照 2023-08-31)

斉藤弥九朗のお墓も写真撮り忘れていたので取ろうとおもいます。

円住院殿と斉藤弥九朗の墓は訪れるべき場所ですね。

その他、福泉寺の構造物

庚申塔 60日ごとに巡りくる庚申の夜、眠った人の体内から虫が出て、虫が天帝に報告してその人に罰が下されるという思想で、寝てはいけないと信じられていました。 庚申堂や当番の人の家に集まって寝ずに過ごして、そのあとにこういった塔が建立されました。この庚申塔の年季は1790年、1755年、1794年と刻まれています。
けっこう街歩きをしていると庚申塔をみることがありますね。時代とともに変わって60日ごとに集まって夜通し飲んでいたことになっていたらしいです。
お寺の山門はありませんが、一歩はいると右手にお地蔵様がたくさんあります。
目を引いたのはお地蔵さんの周りにあったこの戒名入りの石像。
なんと元禄十六 1703年 この年代って珍しいと感じて写真に収めました。

神社とお寺がこの地に来たのが1672年、その30年後くらいの石像ですから、この近隣の方なのでしょうね。

こちらは仏様の足跡のようなもの。石材はそこそこ古いようにみえます。
こちらは有無両縁万霊塔 明和5年 1768年 最初は明治5年だとおもっていました。明治にしては苔むしているので、日陰だからかなとおもいましたが、それより100年前でした。 
神社からのNHK方面の眺め
お寺の南側には高級マンションが立っています。おそらくですが土地はお寺か神社のものなのかなとおもいます。最近は土地持ちの社寺が大手デベロッパーと組んでマンションを建てるパターンが多いようにみえます。今、揉めている明治神宮外苑の開発問題もそうですよね。

ちょっと軽くお寺からの眺めを見てみて、紹介してみるつもりでしたが、どんどんと調べたいことが湧き出てきてしまいました。

また訪問して更新したいとおもいます。


追記



こちらが円住院殿のお墓

新しい卒塔婆はあるものの、現在の代々木八幡、福泉寺の実施的中興の祖のお墓がちょっとあまり綺麗に整備されていない感じがして残念

円住院殿がいなければこの地に代々木八幡神社も福泉寺もないんですよ


なんとかしたい所です


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