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コンビニの水よりは高いけど、うちは会員価格でまとめ買いしてるから。

(※映画『星の子』のネタバレがめちゃくちゃあります)

最近『星の子』という映画を観まして、僕はすごくいい映画だと思いました。でもFilmarksの感想をざっと見たところ、そんなに点数が高くない。まあそれはいいんです。映画なんて好き好きですから。ただちょっと気になったのが「ふわっとしたラスト」「モヤッとしたラスト」というようなことを書いている人が多いなということ。
僕はちひろの意思を感じる、希望のある終わり方だと思ったので、「ふわっとしたラスト」と思う人が多いのがちょっと意外でした。

なぜ僕がこのラストに希望を感じたのか。
結論から言うと「ちひろが焼きそばを食べなかったから」です。

正直これだけでだいたい説明は終わりなんですが、僕は以前から映画の中で飲食物が演じる役割について興味があったので、今回はもうちょっと詳しく見ていきたいと思います。

ところで以前、こういう記事を書いたことがありました。

この記事では映画『花束みたいな恋をした』について、ひとつのパフェを分け合って食べていたふたりが、さわやかのハンバーグをそれぞれがバラバラに食べるようになるまでの物語だと書きました。

じゃあ『星の子』はどうだったか。
大きく分けて3つの飲食物が物語を構成していると言っていいと思います。

この話は、未熟児で生まれた主人公ちひろ(芦田愛菜)を救うために、父(永瀬正敏)と母(原田知世)が藁にもすがる思いで妙な宗教の水に手を出すところから始まります。

結果、ちひろは元気になります。この水に宇宙のパワーがあったおかげかどうかはわかりません。たぶん違うでしょう。でも両親にとっては妙な宗教にはまり込む十分なきっかけでした。

これが1つ目の重要な飲食物です。

中学生になったちひろは、妙な宗教にはまって行く両親からは一歩引いた、少し広い視野を持っているように見えます。タオルを頭に乗せて「水」をかけると風邪を引かなくなるという謎儀式を嬉々として執り行う両親をめっちゃ冷めた目で見ています。
だけど「水」は飲んでいる。学校の机の上には常に「水」のペットボトルが置いてある。同じ宗教の同級生春ちゃんと「水」の回し飲みをしたりしている。「水」を飲んでいれば風邪を引かないのだし、コンビニの水よりは高いけど、うちは会員価格でまとめ買いしてるから。
自分自身は妙な宗教が良いものなのか悪いものなのかもわからないでいるけれど、この「水」は両親が大事にしているものだから自分も飲んでいる。という状態。つまり「水」は妙な宗教の象徴ではなく、両親の象徴なのです。
それがはっきりするのが、ある事件をきっかけにぐったり憔悴して帰ってきたちひろに両親が水タオルの儀式を行おうとするシーン。
ちひろは激しく抵抗、拒絶します。「水」自体は両親の象徴なので飲んでいるけど、「水タオルの儀式」は絶対に嫌。ちひろはそういう絶妙なバランスの中で生きている。
その葛藤がピークになるのが次の日、具合が悪くなって保健室に行き、養護教諭と会話をします。「水」を飲みながら。

ちひろ「この水飲むと風邪引かないんです」
養護教諭「うん」
ちひろ「でもやっぱり風邪ですか?」
養護教諭「風邪でしょ」

「水」、つまり両親への盲信が揺らいだ瞬間でした。

そしてこの映画には、「水」と対をなす飲食物が登場します。

コーヒー

です。

「パワーを弱める」という理由でちひろの家ではコーヒーは禁じられています。しかし、幼少期に一度だけちひろはコーヒーを飲んだことがありました。姉のまーちゃんが作ってくれたインスタントコーヒー。
まーちゃんが家を出て音信不通になる前夜のこと、ふたりっきりで台所のすみに座ってインスタントコーヒーをすすったことをちひろはずっと覚えています。

ちひろ「苦っ」
まーちゃん「そのうちおいしくなるよ」

ちひろにとってコーヒーはまーちゃんとの思い出そのもの。そして中学生になったちひろは喫茶店でひとりコーヒーを注文しては、やっぱり苦いと顔をしかめます。"そのうち"はいつ来るのかなと思いながら。

コーヒーは姉の象徴であり、俗世間、外の世界の象徴でもあったのでしょう。「水」を信じる気持ちが揺らいだ後、自然においしく飲めるようになります。ちひろを気にかけて「うちに来ないか」と言ってくれる親戚の雄三おじさん一家と喫茶店で飲んだコーヒーでした。

最後、3つ目の飲食物が

焼きそば

です。
最初のほうで、宗教仲間の春ちゃんと「水」を回し飲みしていたと書きました。そのシーンでちひろは「海路さんの特製焼きそばが食べたい」と言います。海路さんというのはまあ宗教の幹部みたいな人で、信者が集まる研修旅行と言われる合宿みたいなイベントでその人が作る焼きそばがやけにおいしく、人気があるようです。
わかりやすいですね。この焼きそばこそが妙な宗教を象徴する食べ物です。

この映画の最後の舞台がその研修旅行なのですが、既に「水」を盲信する気持ちもなくしコーヒーが飲めるようになったちひろは、研修旅行で出された昼食にも夕飯にもあまり手をつけず、結局焼きそばには一切手を付けることはありませんでした。これは宗教への決別と言っていいと思います。

ではなぜ見た人が「ふわっとしたラストだった」と思うのか。
この映画は焼きそば拒否シーンの後、山奥で3人一緒に流れ星を見れるまで帰らないと言い張る困った両親とともに星空を見上げ3人で流れ星を待つシーンで終わります。
このシーンのラストカットが3人のバックショットでセリフがなく、静かにスッと終わるというのもひとつ原因かもしれません。確かにバシっと決まった感じではないですね。
内容としても、ちひろを絶対に宗教から逃さないぞという両親の意思を感じるセリフと演技に「うへえ」となるからではないかと思います。

しかし、両親の意思ばかり重んじるのでは不公平です。ちひろの意思はどこにあるのか。うちに来ないかと言ってくれた雄三おじさんに対してちひろは「私は今のままでいい 今の家のまま」と返していました。これは「ずっと現状のままでいい」という意味ではないと思います。なぜならその後彼女は焼きそばを拒否したから。
焼きそばは食べない。コーヒーは飲む。今の家のままでいい。これはつまり、私は姉のように両親を見捨てるつもりはない。幼い頃に自分の命を助けてくれた両親を、今度は私が助けたい。そう思っているということではないでしょうか。

星空を見上げながら、風邪を引かないはずの父親がくしゃみをしているのを見て、僕は胸がいっぱいになりました。

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