【太夫、傾国の娼妓(やり手爺)ときて今世悪妃とは、これ如何に?】第60話〜小雪side

兄様あにさま! 兄様! もういいよ! 何もしなくていいから! 手を離して逃げて!」

 泣き叫ぶ私の体は、今よりもずっと小さい。

 けれど崖にぶら下がっている私の手を掴んで必死に耐える兄様の体もまた、少年と呼べるほど幼い。眼下にはこごえる河が流れている。

 私が兄と呼ぶ少年の体は、痛ましさを覚えずにはいられないほど火傷だらけだ。特に私を庇って炎に曝された右半身は酷い。

 額から瞼にかけての3本爪の古い痕といい、いつも兄様は私のせいで大怪我をする。

「いたぞ! 将軍! いました!」

 細々と静かに過ごしてきた私達の集落は、突然やってきたこの男達に襲われた。

 私達を見つけた男の、手柄を得たかのような大声に、兄様の手がビクリと震える。

「兄様! 逃げて! 早く!」
『……渺々たる雪……すま、な……ど、か……生きて……』

 私達の集落だけで時々使う言葉。おまじないの時に使う事が多い。

 炎に照らされた赤い雪の中で、兄様の体はズルリと崖に向かって滑り落ちる。兄様は私になけなしの魔力を纏わせながら、宙で私を抱えこんで、共に落ちた。

 ふと崖の上に、私達を除きこむように見た人影が映る。

 そう思った瞬間、私達の体は冷たい氷に打ちつけられたかのようにして、水に沈んでいく。

 目も開けていられず、息もできない。けれどその時は、まだ兄様の温かさを感じられた。

 手を離しちゃダメ!

 濁流に飲みこまれ、もみくちゃにされる感覚。意識が遠のいていく中、必死に兄様から離れまいと服を掴んだ。

 なのに……。

「めがさめまちたか、ももたろこちゃん」

 体の痛みを感じながら、ゆっくりと目を開ける。すると私を覗きこんでいる、淡赤桃色の瞳と目が合った。

 随分と可愛らしい銀髪の女児だ。あの世の迎えか?

「かわかりゃ、ろんぶりゃ……どんぶらこっことにゃが……ながれてきちゃ……きたのれしゅ……ですよ」

 なんて思ったら、女児は舌足らずな言葉で言い直しながら話しかける。

「私……生きて……兄様! 兄様は!?」

 まだ自分は生きている。そう思った途端、痛々しい兄様の様子を思い出して飛び起きた。

 ちなみに、ももたろこちゃんとやらも、どんぶらこっことやらも、その時は意味がわからなかった。女児の創作童話をから引用したの後から知る事となる。

 女児は、たまたま旅行中に立ち寄った山中で休憩をしていると、私が川上から流れて来たのだと、拙い言葉で説明した。

「どうして! どうして手を離してしまったの! アンタも、どうして兄様を見つけてくれなかったの! どいて! 探さなきゃ! 兄様が死んでしまう!」
「いまは、だめれすよ!」
「放せ! 兄様! 兄……わぁぁぁ!」

 ただただ自分を責めた。ずっとつきっきりで看病してくれていたという、自分よりもずっと小さな女児にも八つ当たりをして、泣き叫んだ。

「お嬢様!?」

 旅をしているという女児の共の一人が騒ぎに気づいて飛びこんできた。現在はもう引退した、この女児の世話役兼護衛役だった女性だ。

「お前、少し落ち着きなさい」
「!?」

 女児を抱き上げて私を威圧で黙らせるまで、私は泣き乱れた。

 当時、共にいた護衛は他に二人いて、未だにこの女児を護衛している。ちなみに双子の護衛だ。

 この後、何とかして村に戻ろうとした。けど全身の骨が軋んで体は熱く、意識も朦朧としていた。自力では動こうにも動けず、生まれ育ったあの村に辿り着く事が、その時は叶わなかった。

 そのまま女児に、滴雫ディーシャお嬢様に拾われる形で身を寄せた。

 お嬢様は何故か私の村の言葉を知っていて、名を伝えると私を小雪シャオシュエと呼んだ。

 あれからも私はずっと探し兄様を続けている。あの日村を襲撃した男達の足取りもわからないまま、気づけばあれから十年余りの月日が流れた。

 小さな村で生きてきた私には想像もつかない程、年齢にそぐわない破天荒ぶりを発揮するお嬢様。そんなお嬢様にいつしか忠誠を誓うようになった私は、、つかず離れずで過ごしてきた。

 あの日、共をしていた双子の護衛達もそうだ。

 私達はそれぞれに諸事情を抱えている。その事情を知り、それでもお嬢様は私達を拾った。更に衣食住ばかりか、私達が望めば教育をも与える。

 使用人に教育まで施す雇い主など、聞いた事がない。馬鹿な方が雇用主としては扱いやすいからだ。

「うん? それでは雇用主が馬鹿だと、自ら主張するようなものでは? それに教育を受けて自ら考えて行動できる者を雇用する方が、長い目でみればお得なのですよ」

 なんて言いながら、お嬢様は私達を連れ回し、振り回す。

 そんな環境に、気づけば救われていた。兄様の事を諦めるつもりはない。私達の村を襲った男達の事も、見つけて復讐してやる。

 けれど私はお嬢様が許される限り、共に生きていく。そう信じていた。

 しかし現実とは酷いもの。お嬢様はよりによって、この稠基チョウジ帝国が四夫人の一人として後宮入りしてしまう。

 余談だが、お嬢様の父君を恨んだのは言うまでもない。もちろんそれは、お嬢様の側付きである私達だけではなかった。何ならあの方の人柄に触れる事の数少ない使用人達からも、かなりの恨みを買っている。

 しかしお嬢様の予想では、私達側付きをその内呼ぶ事となるらしい。待機を命じられ、渋々ついて行くのは見合わせた。

 そして予想以上に早く、お呼びがかかった。これには驚いた。仮にも帝国の後宮であるというのに、お嬢様は一体何をやらかしたのか。

 しかし喜び勇んで後宮へと馳せ参じた。お嬢様が入宮して三日目の夕方だ。

 私と共に参じた男達は、ます始めに首にとんでもなく雑な誓約紋をつけられた。幼い頃からこの手の紋には慣れ親しんだ部族出身の私には、あまりにも汚らしい紋にしか見えない。男達も些か憮然としているのは、お嬢様が時折扱う紋との違いを痛感しているからだろう。

 しかし皆が文句を言わずにいるのは、早くお嬢様の無事な姿を確認したいからに他ならない。

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