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行成と繁子

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「御匣殿騒動」をメインに行成の繁子への対応についてのあれこれ
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番外編 「枕草子周辺論」より

ここのところ「枕草子周辺論」(下玉利百合子先生)からの話が多い。 この本、本当に面白くて、今のところ取り上げたのは「御匣殿騒動」だけだけど、いずれまた別の記事について書きたいと思ってる。 出来事を時系列に並べての詳細な検証や解説はすごいボリュームで自分にはちょっと手に余るんだけど、理解半分にしてもパラパラ斜め読みしてるだけで楽しい。 (こんな読み方でいいのか…?😅)。 先生の執筆意図とは軽薄にかけ離れてしまうけど、ここではお気に入りの箇所を少しだけ切り取ってみたい。 行成を

御匣殿騒動 その四 おわりに

繁子に対しての行成の一連の行動の根底には、自分こそ嫡流の嫡流(師輔ー伊尹ー義孝ー行成)というプライドがあるように思える。 一応同じ九条流とはいっても末流(繁子は伊尹の異母妹にあたるが、母は不詳)の繁子が天皇の乳母、従三位など権力を持ち、大きな顔をしているのを苦々しく思っていたのだろう。 それに加えて、繁子という人が行成の苦手なタイプ(押しが強くて策略家タイプ?)だったのかもしれない。 嫌いな相手には嫌われるもの。 繁子にとっても行成は最大の苦手であったろう。繁子から見ると行

御匣殿騒動 その三 2年前の出来事

行成はなぜあそこまで繁子を避けたのか。 纏頭自体は通常の儀礼だったはずだから、行成が避けたかったのは纏頭そのものではなく「繁子」の方だったんだろう。 その後しつこく自宅にまで押しかけたのは明らかに繁子のやりすぎだけど、どちらも恩ある道兼の由縁者なのに正妻(未亡人)&その娘と繁子&その娘(尊子)に対する行成の態度があまりに違うのには驚く。 行成の態度からは有形無形に関わらず、繁子からは一切何も貰いたくないといった断固とした拒絶反応があるように思える。 話は2年前(長徳4年)に

御匣殿騒動 その二 続・行成と繁子のバトル

ここからの展開は下玉利 百合子先生に解説していただこう。 (少し長いけど) なんですかこのコント? 大河「行成の1日」のひとコマにどうでしょうw まず、繁子が「ひそかに」行成が来るのを暗戸屋で構えている絵がもう可笑しい。 きっと得意満面で女装束も被けるばかりに手に取って、今か今かと外の足音に耳を澄ませていただろう。 でもさすがは行成、その気配を察知してUターン。 と、普通ならここで諦めるところだが、繁子はそんなタマ(?)じゃない。 侍女に持たせて行成の小舎人童の苔雄丸に渡そ

御匣殿騒動 その一 行成と繁子のバトル

藤原行成といえば、その勤勉さ、誠実さで一条天皇や道長の信頼も厚い能吏・能書家。「枕草子」では意外に茶目っ気のあるところも描かれ、その日記「権記」は「小右記」と並んでこの時代の貴族の多忙な日常が伺える貴重な資料だ。 「権記」長保2(1000)年8月20日条に面白い記述がある。 長保2年は七日関白と言われた道兼の没後6年目。 この日は、藤原道兼と正妻との遺児が着袴を迎えた日であり、また奇しくも繁子との間に儲けた尊子が一条天皇からめでたく女御宣下を受けた日でもあった。 おもな登場

藤原繁子とは?

「光る君へ」第2回の相関図を見ると道兼と繁子は夫婦の設定のようだ。 繁子は藤原師輔の娘(母は不詳)で兼家の腹違いの妹に当たる。第1回目で俄然知名度を上げた道兼は兼家の息子なので繁子の甥ということになる。 現在の民法では叔母と甥、叔父と姪は三親等なので婚姻は出来ないが、当時は珍しくない。 たとえば道長の娘の威子と嬉子が姉彰子と一条天皇の間に生まれた敦成親王(のちの後一条天皇)と敦良親王(のちの後朱雀天皇)にそれぞれ嫁いでいる。 ちなみに威子は20歳で入内した時、敦成は9歳年下の