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『僕らを育てた特撮監督のすごい人 佐川和夫編 上・下』

 コミケ戦利品紹介は今まで数回してきたが、上・下巻とボリュームがとんでもないためココで紹介。

 経歴を追うと、佐川氏は1939年産まれ。大学生時代に各映画会社及び放送局でアルバイトをした後、最終的に1962年に東宝へ契約社員として入社。特技監督・円谷英二の弟子となる。翌年、円谷特技プロダクション設立に伴って移籍し『ウルトラシリーズ』『マイティジャック』『怪奇大作戦』の特撮を担当。70年に円谷英二が他界した後は『帰ってきたウルトラマン』『ミラーマン』『ファイヤーマン』『ジャンボーグA』といった昭和期の円谷プロ作品で特撮のメガホンを取った。77年にフリー契約となり、矢島信男率いる特撮研究所に在籍。そして平成期でも『電光超人グリッドマン』や『ウルトラマンティガ』で特撮を手掛けている。

 まさに昭和TV特撮の生き証人と呼んでも過言ではなかろう。円谷英二の門下生時代から特撮監督として独り立ちしてからを、関わった作品の思い出や撮影時のエピソード、先輩・後輩に当たる同業者の逸話も交えて語られている。その話一つ一つが「あの作品の裏側」を見ているようで実に興味深い。
 とりわけ危険な特撮シーンでの裏話は興味深い。1962年『世界大戦争』では「核ミサイルで地獄と化した東京」を撮影する際、製鉄所に特撮セットを持ち込んでそこに溶けた鉄……佐川監督曰く実際は「スラグ(鉄を精錬した際に出る金属カスの総称)」を流し込んだそうだが、その量が予定よりも多かった。セット自体は分厚いベニヤ板で囲ってあったものの、スラグが溢れてベニヤ板があっという間に延焼。すぐそばには撮影主任の有川貞昌がいたものの、ずっとレンズを覗いていたためそれに気付かず、たまたまカメラに付いていた佐川氏が慌てて有川氏をバァーンと蹴り飛ばし、重いカメラをもそれこそ「火事場の馬鹿力」で担いで退避させた。直後にスラグがセットから溢れ出したため、まさに間一髪だったとか。
 あとで有川氏からは「ああいう時はそれでいい」と。御本人も「若い時は機転が利くのが大事。歳を取っちゃうと一瞬『どうしよう』って思っちゃう。でも本番だから流れ出てくるまでカメラは回ってるし、そこまで(映像として)使えるわけですよ」。あの地獄の映像は本当に命がけだったのだ。観ているコチラがゾッとさせられるのも当然だったのだろう。

 そんな特撮に関する逸話と共に、当時の東宝社内における「特撮」の扱いや立場も赤裸々に語っている。東宝特撮作品は本多猪四郎と円谷英二が名コンビ・鉄板の布陣とも呼ばれるが、佐川氏にとって本多監督は「特撮を『立てる』」演出や編集をする方だった。「円谷さん」「本多君」と呼びあう関係だったのも大きかったと思うが、本多監督はそれだけの敬意を持って特撮映画作りに携わっていたのは確かなようである。
 しかしこの本を読んでいると、東宝社内において円谷特撮を上手く活用できる人がどれだけいたのか? という疑問も浮かんでくる。「特撮を使いたがらない監督さんも多かった」そうだが、これは特撮が一つの見せ場になる一方で「作り物の映像」だと思われるのを嫌がる人もいたのだろう。偏見ともとれるが、これに関しては東映の矢島信男監督も自身のインタビュー本で同様のことを語っている。特撮として携わった作品にクレジットされないのも、結局は「作り物」だと見られたくないからだろう、と。

 それだけではなく、円谷特撮については予算の問題もあったようだ。「円谷組」と呼ばれるほどの大所帯で「現場だけでも最低七、八十人。そこに外注で頼んだりもする」。本編とは別に、別働隊としてこれだけの人(そしてカネ)を責任持って動かせる監督さんが果たしてどれだけいたのやら……
 本多・円谷コンビが産まれたのも、円谷の技術力と映像の凄さは当然として、本多自身もまた「特撮は『作り物』」と言われようが、円谷の持つ力を全面的に受け入れ、本編でも見せるところでしっかり魅せる演出力を持っていたからだろう。この出会いが無かったら日本の映画界、いや映像界隈は一体どうなっていたのか。特撮に憧れてその道を志す人間が産まれることも無かったのだから……

 それ以外にも、ディープな特撮ファンなら知っている方々の名前と、その方にまつわる様々な証言も出てきて「え、そうだったの?」と幾度となく思わされた。まさに特撮の「ウラ」話。読んで損はない。


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