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「爆発のしょーちゃん」と、粘りの漢~追悼:特撮監督・中野昭慶~

 昭和の特撮を語れる人物が、また一人亡くなられてしまった。

 「爆発のしょーちゃん」とは、あさりよしとおの漫画『宇宙家族カールビンソン』の舞台となる惑星で、主人公達と同じ学校に通う現住生物の一人「ショーちゃん」の異名である。
 この漫画自体がアニメ・特撮作品のパロディ満載で、とりわけ現住生物に関してはいずれも特撮関係のスタッフが由来。夕陽が好きな「ジュン君(=大木淳)」、釣り操演の好きな「コーちゃん(川北紘一)」、手前に何かモノを置いた目線で語る「ジッソーくん(実相寺昭雄)」等々。そしてショーちゃんは「爆破好き」。とにかく爆破と聞けば目が無いのだった。

 そんなキャラのモデルとなった中野監督だが、氏の特撮人生は波乱と困難の道だった。60年代の円谷特撮黄金期に特撮班のチーフ助監督を務め、下積みで実績を残していったものの、70年代に入った途端状況は一変。円谷監督の急逝、特殊技術課の廃止、さらには東宝そのものが会社の経営立て直しで組織を再編したのに伴い、映像制作事業は残ったもののスタッフのリストラや異動は避けられず、長らく同社の特撮を担ってきた技術者達が次々去っていくという、余りにも寂しい状況に追い込まれた。
 映像技術課のトップとして中野監督は東宝に残ったものの、71年公開の『ゴジラ対ヘドラ』や翌年の『対ガイガン』で与えられた予算は「最盛期の3分の1以下」と語られるほどの低さだった……しかしその状況下であっても、中野は「低予算だから」を言い訳にせず、如何に面白い「画」を作るかにこだわり続けた。

 「特撮」には映像としてのリアルさ、そしてケレン味が求められるが、中野監督はそこで「爆発」や「コミカルさ」「一点豪華主義」に活路を見出し、時間にも制限がある中で戦い続けた。とりわけ「爆発」は特に目立つものだったため、その視点で語られることが多かったのである。
 しかし爆発は危険も伴う。より迫力ある爆発シーンを撮るべく有鉛ガソリンを用いたり、様々な薬品を混ぜて撮影に挑んだはいいが、爆風でスタジオのドアが開いてしまったり(屋内かよ!)、薬品が気化した瞬間に有毒ガスが発生し、撮影中に一瞬気を失った経験もあるという。監督はインタビューでそんな映像作りを
「どこまでこだわれるか、粘れるかが勝負だった」
 と語っている。特技監督は技術者で「文系・理系どちらかの素養を持つ」と語り、師匠の円谷を「両方こなす人」と呼ぶ一方で自らを「文系の凡人」と評する中野監督だが、師匠とは真逆の恵まれない環境下で特撮の灯を絶やすまいと粘り続けた中野は本当に凡人なのだろうか。自分にはそう思えないのだ。

「宮本武蔵なんか全然偉くないよ、あいつは強かったんだから。本当にエライのは一生懸命生きてるヤツだよ、江分利みたいなヤツだよ!」

映画『江分利満氏の優雅な生活』より

 そんな中で73年に製作された氏の代表作『日本沈没』は記録的ヒットとなる。製作期間は非常にタイトだったものの、久々の大作予算と科学考証を取り入れて作られたリアルさとケレン味溢れる映像は、それまで燻っていた中野の真骨頂がまさに爆発した瞬間だった。とりわけ中盤の見せ場となる東京大地震は、わずか3分足らずの場面で栄華を誇った大都会が一瞬にして崩れ去り、畳み掛けるように描写される崩壊・爆発・洪水(津波?)によって地獄と化すさまは、円谷から続く東宝特撮の歴史を絶やさんとする中野の意地を見せつけた瞬間でもあった。

 しかし一方で中野監督はファンからバッシングされる時期もあった。その原因となったのは日本特撮史を追った書籍『大特撮』である。50~60年代における円谷英二監督の功績を称えておりそこは何の異論も無いのだが、一方で70年代における中野昭慶監督に対してはコテンパンに批判していた。かの『日本沈没』ですら「特撮ではなく企画の勝利」とし、所々の特撮シーンに関しても「日本が滑り落ちるように沈むなんて全くリアルではない」と記すほどだった。
 だがほんの数年前にノルウェーで発生した地すべりの映像を観た時、物凄い既視感があった。そして思った。「どこが『リアルじゃない』んだ、あの映画で描かれた通りじゃないか!」と。

 先に挙げた「爆発のしょーちゃん」もそんなバッシングから誕生したキャラといっても過言ではない。一方で川北紘一氏に関する期待度は大きく、とりわけ『ゴジラVSビオランテ』をネタにした回では
「オヤジさんから受け継いだ伝統芸能をショーちゃんが爆発で滅茶苦茶にしてしまい、彼がようやく飽きたから今度は僕が引き継ぐことにした」
とコーちゃんに言わせるほどなのだ。かつてのマニア(というか特撮評論)界隈における円谷英二至上主義ゆえ、ひたすら中野を低く評価する姿勢が顕著に現れた描写といえよう。

 しかし、なぜそうも蔑まされた理由も薄っすらとではあるが分かってしまう。中野特撮を酷評した『大特撮』が作られる前には朝日ソノラマの『ファンタスティックコレクション』があり、その背景には日本におけるSFブームやアニメブームがあった。その折に、改めて過去の映画・テレビ特撮作品も再注目や再評価がされ始めていたのだ。
 そして78年夏には日本でとうとう『スター・ウォーズ』が封切られた。あの作品は特撮で描かれる「リアル」と「ケレン味」のレベルを格段に上げ、かつ映像の作り方にも革命を起こしていた。では、我が日本特撮は今現在(※当時)どうなっているのだ? と目が向けられてしまうのも察するに余りある。

 時間と予算の制約がある中で円谷特撮の灯を絶やすまいと粘り、こだわり続けた中野。しかし当時は伝統よりも「革新」を求めていたのだろう。『大特撮』の中でそれらの「粘り」や「こだわり」は全く評価されなかった。一方で同時期に『宇宙からのメッセージ』を製作した矢島信男は同書籍で高評価されている。既存の技術を活用しつつ、最新鋭の特撮用カメラを導入し、拙いながらも新たな合成技術を採用しながら400カットも捌いた特撮技法はさぞかし斬新に映ったはずだ。そこにはどことなく
「今のままだと日本の特撮は立ち遅れてしまう」
という「焦り」を感じる。その「焦り」こそが『大特撮』における中野叩きと矢島絶賛を産んだ、と自分は推測している。
 とはいえ、各作品を評しつつ特撮史を分析して語る書籍でありながら、伝統を守り続けていた側を酷評した結果、当時大勢の特撮ファンを円谷至上主義・中野叩きへと向かわせてしまったのは疵瑕があったといえるだろう。
 ……ただ、自分もその影響を受けた特撮バカ野郎である。反省せねばなるまい。

 21世紀に入り、ファンの評価も変わっていった。庵野秀明監督や樋口真嗣監督といったクリエイターが、次々と中野監督リスペクトをし始めた。過去にどう酷評されようと自分達はこれらを観て育ち、映像の世界を、特撮を志したのだ、と。もちろん全く不満点が無かったわけではなかろうが、当時一瞬でも感じた「凄さ」「面白さ」に敬意を評したい……自分にはそう思えるのだ。これらもひとえに中野監督が粘り、灯を絶やすまいと奮闘し続けた結果だろう。

「要するに時間はかかったけれど、ようやく客観的に評価してもらえる時が来たということなのかな」

 貴方が命懸けて撮った爆発に、自分はずっと魅了されるのだろう。
 本当にありがとうございました。改めて、ご冥福をお祈りします。

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