感情込めて教科書を読んだっていいじゃねーか!
あー、これは嫌な記憶でしかないけど、思い当たる節が。
国語の授業で、立って教科書を読む(読まされる)機会は多かった。というか、誰でも一度は経験してるだろう。国内・海外問わず、何かしらの文学作品または随筆や伝記等の文章をある程度音読する。それはいいんですよ。
自分にとっての「嫌な記憶」は、台詞に該当する部分をどう読むか、だ。
そういう文章を読むと、自分の脳内では台詞にアテレコが入る。つまり感情が入るのだ。前後の描写からして、こんな感じだろうな、と考えながら読んでいた。
そして、朗読でもやはりそのように読んでいたのだ。
……クラスメイトは、そんな俺を思い切り笑っていた。
なぜだ。
なぜおかしいのだ?
どう考えたって、そう読めるじゃないか?
お前らは、この文章をなぜ何の感情も無く読めるのだ?
それが不思議で仕方がなかった。
何より、感情を込めて読んだのをからかわれるのが一番嫌だった。
自分なりに心を込めて読んだ一言を、バカにされる。
それが嫌で嫌でしょうがなかった。
いや、朗読は嫌いになってない。バカにしてくる奴らが嫌いなのだ。
しかし彼らのからかいに耐えられるほど、自分は強くなかった。
一時期は、教科書の朗読ともなれば
「俺のところに台詞の部分を回すな! 回ってくるな!」
と思うようになるくらい嫌になった。
……だが、嫌な思いのケリは、高校生の時にようやく付けられた。
現代文で、やはり朗読の時間が自分に回ってきた。
この頃の自分は、精神的に何か吹っ切れていた。何をしても怖くないような、他人からどう思われても別に構わん、俺は俺だ、という無謀さを持ってたような気がする。
そこで自分は、思い切り感情を込めて読んだ。自分が考えた通りに。
途端に、教室内は笑いというか驚きというか、
「どうしたんだ、おい?!」
という空気になった。
周囲からすればバカにしているトコもあったのだろうが、それでも当時の自分にとっては「してやったり」だった。
注目されること自体に快楽を得ていたのだから。
……嫌な記憶ではないけれど、痛いといえば痛い。
だがこうでもしなければ、バカにされた過去から逃れる方法は無かったように思う。バカにしてくる、てことは「アイツのやっていることは変だ」と言っているようなものだ。
だったら「アイツは、ああいうヤツなんだ」と認めさせてしまえばいい。
とまあ、こんな性分のお陰で色々と苦労したが、まあいい。
そもそも悪いのは、バカにしてきたあいつらなんだから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?