「禁煙物語」前編
ずいぶんお世話になったこの灰皿も今はもう用なし、でも蚤の市の骨董品のように相変わらず僕の家の玄関先にある。今日はもう一生やめられないかと思っていた煙草をどうしてやめることができたのかについて、いろいろ思いだしながら。
僕が子供の頃は、大正15年(1926年)生まれの父親が缶ピースやショートホープをずっと吸っていた。当時、煙草は家の中で堂々と吸っていいものだった。昭和30年代、40年代はまだまだ煙草を吸うことが大人の証明でもあるし、カッコよかったりもしていた。映画とか、TVのドラマとかでも煙草を吸うシーンが名場面になっているものも多かったように思う。
はじめての一本は、高校生の時に深夜、リビングのたばこ入れから親父の煙草をくすねて吸った、多分。少し咽(むせ)たけれど、何度が吸ってるうちに肺に入れられるようになると、頭がボーっとしてクラっとする感覚に、「これはすごい!」と。煙草を吸うぐらいでとは思いますが、当時の僕としては、この「頭がクラっとする」快感と、思春期にありがちなやっちゃいけないことをしているという背伸びした悪の喜びにはまり、隠れて常習犯になった。
ところが、これが、本当に僕の体質に合った。いくらでも吸える。高校生の時はまだ予算制約の問題と表立っては吸ってなかったのでそんな本数にはならなかったが、大学生になってバイトで自分で結構稼ぐようになってからは徐々に歯止めが利かなくなった。更にこれがやがて社会人になり、それなりのストレスも抱え、どんどん本数が増えて行き、やがては後年100本/日になってしまうのだった。一時は200本/日吸う将棋の舛田幸三先生に憧れたほどだ。
「タバコ」は肺炎を始め様々な病気の原因になるというような指摘は僕が若い頃からされてはいたが、まだまだ社会的には喫煙は許容されていた。僕も最初に就職先である銀行の支店で業務時間中に自席で煙草を吸っていた。(そのせいで、重要な書類の、それもよりにもよってサインのある個所を焼いて、人生初の始末書も書いた…)パリに赴任した時(1984年)も飛行機の座席でも吸えた。ジュネーブから帰国した頃もまだまだ大丈夫だった。
1998年から1999年にかけて日本の航空会社のフライトでは禁煙になって行った。この頃から世の中的に、おそらく、タバコ吸う方が分が悪くなったんだと思う。いろんなところで煙草が吸えなくなって愛煙家たちのイライラが募り始めたころ。僕自身もオフィスの自分の部屋では吸っていたものの、出向いた先では喫煙所に行かないと吸えなことも多くなり、海外出張すると長時間禁煙を余儀なくされ、空港についてもすぐには吸えない、そうこうしているうちに、「喫煙所」があったら兎に角一服しておくという行動が余儀なくされるようになって、あの自由を謳歌するかのような紫煙三昧の時代の気持ちになれなくなってしまったいた。
勿論、いくらきれいごとを言おうが文学的に語ろうが、これは単に僕が「ニコチン中毒者」に過ぎないということはよくわかっていた。なので、何度か、禁煙を試みている。これを読めば絶対禁煙できますよという「禁煙セラピー」も読んでは見たが、とにかく舛田幸三先生を目指そうとした超ヘビースモーカー、というかかなりの中毒患者なのでちょっとやそっとのことでは禁煙なんかできやしない。
経済的に考えても、仮に35年間毎日20本入りを4箱吸ってきたとして、一箱300円だとしたら…300円×4箱×365日×35年=15,330,000円、そっかー、15百万円煙にしてきたんだぁ。そろそろ本当にやめないとなぁ…
でも僕は意志薄弱な中毒患者なのでやめられない。ほんまに俺はアホやなあー、と思うしかなかった。そんな日々を過ごしていた時、思わぬところから蜘蛛の糸が垂れてきたのである(続く)
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