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【短編】バ ナ ナ

 ある日、駅に向かって歩いている僕の視線の先にバナナが落ちていた。

 今まで大根やネギなんかが落ちているのは見たことがあるけれど、バナナが。しかも一本だけ道端に落ちているなんて。
 この人通りが多い道のど真ん中に落ちているにもかかわらず、誰にも踏まれることなく完璧な形で立っているバナナ。え?立っている?

 僕は急いでバナナに駆け寄るとバナナの前にしゃがみこんだ。

「なんでこんなところにバナナがあるんだろう?」
 僕は心の中でそうつぶやいた。はずなのに。なぜかすぐ隣から男性の声が聞こえてきた。

「誰かが落としたんじゃないですか?」
 まさか無意識のうちに声に出ていたのだろうか。びっくりして声がしたほうを振り返ると、僕の隣でサラリーマン風の男が僕と同じようにしゃがみこんでいた。いつの間に。
 
「でも、バナナって腐りやすいし柔らかいからこんなに綺麗な形のまま落ちていることなんてあるかなぁ」
 僕は視線をバナナに戻すと誰に話しかけるともなくそう口にした。そして何ともなしにそのバナナに向かって手を伸ばす。バナナをつつこうと思ったわけでもバナナをつかもうと思ったわけでもなく。ただなんとなく。

「……」

 バナナに触れるか触れないかのところまで僕の手が近寄ったそのとき、隣の男性が何かつぶやいた。しかしその声は小さくて、僕には何か言ったのはわかったけど何を言ったのかは全くわからない。でも僕は彼が何か重大なことを言ったような気がして、慌ててバナナに向かって伸ばしていた手をひっこめた。

 よく考えてみれば、目の前にあるものがバナナだとしても、こんな不自然な形で存在しているものにうかつに手を出すのは危険だったかもしれない。僕は自分のうかつさを反省し、それと同時に背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

 それにしても、今、あの人はなんと言ったのだろう。このバナナについて何か知っていることでもあるんだろうか。そう思いながら隣の男性に目をやると、彼はさっきと変わらないポーズでバナナをじっと見つめていた。

 ぴしっとしたスーツに綺麗に磨かれた革靴。さぞかし高級取りに違いない。しかし彼のすぐそばに置かれているビジネスバッグはそんな彼とは不釣り合いだった。パンパンになるまで荷物が詰め込まれ、年期が入っているのが一目でわかるほどくたびれているその鞄。
 なんか変だな。
 
 そう思った瞬間、僕の中の僕が危険だと僕に向かってアラートを鳴らし始めた。

 通勤ラッシュで忙しい時間帯。駅に向かう人の流れなんてお構いなしに道のど真ん中にしゃがみこんでいるこの男性(とはいえ僕自身もその隣にしゃがみこんでいるのだから、この行動だけで彼が危険だというのなら僕もたいがい危険な人間になってしまうのだけど)。ちょっと普通じゃない。かかわりを持たないほうがよさそうだ。

 と、その時。僕はあることに気が付いた。そしてしゃがんだ状態のまま顔を上げると、きょろきょろとあたりを見回した。

 やっぱり。そうだ。
 僕たち以外、このバナナに気がついていない。

 道行く人たちは僕がこのバナナに駆け寄った時と同じくらいいたし、そのスピードはしゃがんでいる僕から見ればかなりの速さではあるけれど、あの流れに乗っている人達からすれば驚くような速さでもない。そう。いつも通り。

 いつもの日常。いつもの朝。いつもの通勤時間。いつもの風景。

 そんないつものみんなには、いつもではないこのバナナやそれに付随する僕たちの姿は見えていないようなのだ。
 現に、こんなに堂々と道のど真ん中にしゃがみこんでいる僕と目が合う人は誰一人としていない。ということは、チラリとでもこちらに目を向けてくる人がだれもいないということで。

 かといって、こんな道のど真ん中にしゃがみこんでいるにも関わらず、今現在まで僕は誰にもぶつかってはいない。僕の姿を認識していないはずの人々が僕をうまく避けているのだろうか。しかし、そんな不自然なことってあるだろうか?でも、周りの全員が認識していないはずの物体を避けているのだとしたら。このバナナが無事だった理由はそういうことになるんだろう。

 でもどうしてだろう。なんでだろう。そんなことを考えている僕をますます混乱させるかのように、目の前にあるバナナが少しずつ色を変えはじめた。

 黄色から橙。橙から茶色。茶色から緑。緑から黄色……

 なんだ。このバナナ。いや、これって本当にバナナなんだろうか。バナナに見えているこの物体はバナナではないかもしれない。まさか。そんな。

 僕は隣の男性を振り返り、同意を求めるように彼に目線を送る。彼はそんな僕に気が付いていないかのように、色を変え続けるバナナに魅入られているようだ。不自然なほどギラついている目。ばっちりセットされた髪型とは裏腹なだらしない口元。その違和感に僕の目が惹きつけられる。
 なんか本当にやばい気がする。バナナが色を変えているのも、僕に警告の合図を出してくれているんじゃないかと思えてきた。

 急いでここから離れないと。さっきとは種類の違う冷たい汗が僕の背中をつーっと滑り落ちた。僕はその感触を合図にゆっくりと立ち上がる。彼とバナナから距離をとらなくては。2、3歩後ずさった僕はクルリと身をひるがえし、しっかりと足にチカラを込めてぐっと地面を蹴り出した。

 しかし、僕の足は地面からの押し返すチカラを受け取ることはなかった。
 地面が消えた?まさか。そんなはずは。僕は急いで足元に目をやる。ある。地面は確かに僕の足元に。ある。じゃあなんで?どうして僕は地面の感触を感じられないんだ?手のひらに爪が食い込んでいる痛みも、額を流れる汗も、じっとりと僕を包み込む空気の生ぬるさだって感じられるのに。

 その時、パニックになりつつある僕の視界の端で何かが動いた。その何かを確認しようとしたところ、僕は自分の身体が思い通りに動かないことに気がついた。ただ顔をそちらに向けたいだけなのに、首が回らない。どうして。ならばと爪が食い込んだ手を開こうとしてみるも手すら思い通りに動かない。爪は手に食い込んだままだし、そういえば僕は走り出す瞬間のポーズをとったままじゃないか。
 
 そういえば、あの男は……。
 唯一自由に動かせる眼球を男がいたあたりに向けてみると、そこに男の姿は無かった。一体どこに行ってしまったのだろう。僕は男から逃げようとしたけれど、状況から考えるとまだ僕はあの男の隣にいるはずなのだ。
 あの男はどこに。

 いや、男だけじゃない。僕は駅前の通りにいたのだ。なのに周りに人の気配がしない。きょろきょろと目を動かしてみても、人の姿はひとつも見つからない。さっき男の横にしゃがんでいたときは確かに人がいた。たくさんの人が。駅に向かう人。駅から吐き出される人。人。人。人。あれだけたくさんいた人が一瞬のうちに消えた?まさかそんなことあるわけない。

 胃からなにかがこみ上げてくる。気持ちが悪い。頭がくらくらする。なんだなんだなんだなんだ。一体これはなんなんだ。思わず目を閉じると瞼に光を感じた。

 黄色……橙……茶色……緑……黄色……

 これはバナナの色。でもバナナは僕のちょうど真後ろにあったはず。目を閉じる前、僕の視界の範囲内にはバナナは存在していなかった。だとすると、今目を開ければ目の前にバナナがある?

 深呼吸を3回したら目を開けよう。
 いち。
 に。
 さん。

 恐る恐る目を開けてみる。しかし、僕の瞼はしっかりと協力接着剤か何かでくっつけられたように、うっすらとさえ開くことができなかった。
 どうして僕がこんな目にあわなくちゃいけないんだよ。

 道端に落ちていたバナナ。
 今僕が置かれている状況を推測すると、全ての元凶はあのバナナ以外考えられない。でも、なんで?あのバナナは一体なんなんだ?不自然な場所に不自然な状況で存在していたバナナ。そしてそのバナナは不自然に光り、今は僕のすぐ目の前に不自然極まりなく浮かんでいるのだろう。

 なんなんだよ。あのバナナ。隣のサラリーマン風の男がおかしくなったのだって、やっぱりあのバナナのせいに違いない。あんな気味の悪い表情。頭がおかしくなってでもなけりゃ、あんな顔つきにはならない。あのバナナは一体僕たちに何をした?くそっ。そもそもあれはバナナだったのか?

 頭の中で僕をこんな状況に追いやったバナナの姿を思い返していると、僕の頭の中で想像されただけなはずのそのバナナが僕に向かって話し始めた。

”どうして?なぜ?そんなことを考えるからなのです。すべての流れは滞ることなく。それがこの世界の理です。あるがままをあるがままにとらえられない。少しの違和感に必要以上にこだわってしまう。流れを滞らせる。対流させる。混乱させる。すなわち、異物。異物は速やかに排除。排除。”

「異物ってなんだよ。流れを滞らせる?混乱?一体僕が何をしたって言うんだ。それに排除ってなんだよ」

 瞼に映る光が赤に変わった。
 赤い点滅。初めはゆっくりと。そして段々早く。早く。早く。やがて僕が認識できる速さを超えたのだろう。僕の瞼が赤く染まり続ける。

 あのバナナは結局何だったんだろう。大多数の人が認識していなかったバナナ。それに気がついてしまった僕。気がついてはいけないものだったのか?トラップ。踏み絵。探知機。

 とにかく僕はバナナに気がついてしまった。そしてあのサラリーマン風の男も。彼はどうなってしまったのだろう。いや、考えるまでもないか。あのバナナの言う通りなら、彼は排除されるのだから。

 そしてこの僕も。

<終>

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