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【短編】もういちど

小高い丘の上にある大きなお屋敷は僕の大好きな彼女の家。

でも、彼女がその家に住んでいたのはすでに過去のことだし、それにそのお屋敷がとても立派な佇まいをしていたのはもっとずっとずっと昔の話。そう。僕の大好きだった彼女は「家」とも呼べないような、今にも崩れ落ちてしまいそうな、かつては「お屋敷」と呼ばれていたであろう建物に住んでいたんだ。

今思い出しても、あの場所は本当に酷い場所だった。

雨がしのげる場所は彼女が一人やっとくつろげるほどの面積しかなかったし、一見部屋に見えるあの場所だってほかの角度から見れば壁がついたてのように立っていただけだった。

だから僕は何度も「こんなところに住み続けるよりも、僕の家に来ない?」と彼女に提案したのに、彼女はほっぺたをぷーっと膨らませ、怒ったふりをしながら「ほんと、失礼なんだから!」と言うだけで。彼女は決してその場所から離れようとはしなかった。

だからあの日。

彼女の家が崩れ落ちてしまったあの日。

あの日も多分、彼女はあの家のいつものあの場所にいたんだと思う。

しかし、あれから何度も何度もあの場所に足を運び、彼女がいたはずのあの場所をどれだけ探しても、彼女を探すために横によけた瓦礫を何度移動させたとしても、彼女が見つかることはなかった。

彼女はあの日だけはあの場所にいなかったのかもしれない。

いくら探しても見つからない彼女について、何度も僕はそう考えた。

でも彼女がもし生きていたとしたら、どうしてあの日から一度も僕の目の前にその姿を現してくれないのだろう。かなり控えめに言っても僕は彼女に好かれていたはずなのに。だから彼女が生きているなら、絶対に僕に会いに来てくれるはず。それなのにどうして。

彼女は僕に会いに来たいけれど、僕の家を知らないから会いに来れないだけ。僕が彼女の家だった場所で彼女を探している時間帯と、彼女がかつて自分の家だった場所に訪れる時間帯がずれているから僕と彼女が出会えていないだけ。ただそれだけのことに違いない。彼女の亡骸が見つからない以上、そう考えるしかない。

何日か彼女の家だった場所に通い詰めた後、僕は仕事を辞めた。
すれ違いを確実に避けるために、彼女の住処だった場所で彼女を待ち続けることに決めたのだ。この僕が誘っても離れることをしなかった場所。だから彼女は絶対にこの場所に帰ってくるに違いないのだ。

僕は彼女の部屋だった場所にその辺にあった木や石を使って支柱を立てて布を張り、雨がよけられる僕だけの場所を作った。そしてその場所で、彼女がいつもいた場所から掘り出した土まみれの彼女がかつて使っていただろう毛布を頭からすっぽりとかぶり、彼女との感動的な再会シーンを頭の中で何度も何度も繰り返し創造し続けた。

しかし、待てども待てども彼女はやってこない。

僕の予想では、1週間もしないうちに彼女に会えるはずだったのに。
大きなけがをしていれば彼女はこの場所から動けなかったはずだし、ここから離れられるくらいの体力があるなら彼女が固執していたこの場所からそれほど長くは離れていられないだろう。

なんで。
どうして。
彼女は帰ってこないんだ。

僕は最後に彼女と会った時の様子を思い出してみる。どこか変わったところはなかっただろうか。

いつも通り満面の笑みで僕を迎えてくれた彼女。

本当に?

あの笑顔はいつもよりも不自然な感じがしなっただろうか。不自然な感じ。不自然な。

どうだろう。
わからない。
僕にはわからない。

じゃあ、あの日彼女と交わした会話の中でいつもとは違うことはなかっただろうか。いつもとは違う。違う何か。

どうだろう。
わからない。
僕にはわからない。

最後に彼女と別れた時になのか違和感はなかっただろうか。いつもとは違う別れ。違和感。

どうだろう。
わからない。
僕にはわからない。

どれだけ考えても、頭の中にある彼女との思いでを探ってみても、僕には何もわからない。どうしてだろう。彼女とは年単位という長い時間を過ごしていたはずなのに。どうしてこんなにもわからないことが多いんだろう。

……?

その時、ふと僕の視界に赤いキノコが飛び込んできた。

小さな赤いキノコの入ったスープ。彼女の部屋にあったスープカップにいつも半分くらい入っていた飲み物。あのスープに入っていたキノコはあれではないだろうか。僕はゆっくりと腰を上げるとそのキノコに向かって歩き始めた。


初めてこの場所にたどり着いたとき、僕はあまりの空腹とのどの渇きに我慢できなくなり机に置かれたカップに入ったスープにこっそりと口をつけてしまった。

一口だけ。ごめんなさい。

心の中で謝りながら口に含んだ液体は僕が想像していたよりも僕の心と体に浸み込んだ。全身がしびれるような。心が飛び上がるような。生まれて初めての感覚。あれほどまでに生きているという実感を感じた瞬間はあれより前にもあれより後にも一度も感じたことはない。一口だけと思っていたはずなのに、気が付くと僕の手の中にあるカップは空になっていた。

極上の幸せに包まれていた僕はカップが空になっていることに気が付いた瞬間、絶望のどん底に叩き落された。

やってしまった。

誰のものかもわからない、それどころかひょっとするとこのカップの持ち主の最後の貴重な食糧かもしれないスープを、一口だけならともかく全部飲み干してしまっただなんて。スーッと血の気が引いた僕の指先から力が抜ける。危ない。そう思ったその瞬間、僕の手からカップの存在が消えた。
コトンと音を立てて床に落ちたカップに慌てて目をやる。

よかった。割れていない。

僕は慌ててカップを拾い上げると、元あったテーブルの上にそっとカップを置いた。

どうしよう。

とはいえ、やってしまったことは仕方がない。僕は飲み干してしまったスープの所有者に謝ろうと腹をくくり、その場で持ち主が返ってくるのを待つことにした。

どれくらいの時間がたったころだろう。僕の中では半日以上経っていたように感じたけれど、たぶんそれほど時間は経っていなかったのかもしれない。逃げ出したい気持ちを何とか抑えながらじっと固まっている僕の耳に、誰かの足音が聞こえた。

持ち主が帰ってきた!

背中にスーッと汗が流れたのがわかる。心臓が外にまで聞こえそうな大きな音をたてながら激しく鼓動している。

どうしようどうしようどうしよう。いきなり怒鳴りつけられたら。殴り掛かられたら。それでも僕が悪いのだから謝るしかない。覚悟を決め、凝視していた床から目を上げるとそこには僕が想像していたよりもはるかに若い、はるかに魅力的な女性が不思議そうな顔をして立っていた。

「あの、私の家で何を……」
その言葉が終るか終わらないかのうちに僕は大きな声で彼女に謝罪した。

「ごめんなさい。本当にすみませんでした。人の家だとわかっていて、ひと様の食べ物だとわかっていながら僕はこの机の上にあったスープを飲み干してしまいました。本当にごめんなさい」

頭をペコペコと下げながら何度も何度も謝罪する僕。そんな僕に彼女は優しく微笑んだんだ。

「いいんですよ。そんなにお腹がすいてらしたんですね。このあたりには何もありませんしね」


そう。
あの日から僕と彼女の関係が始まったんだった。

そして僕は次の日からこの場所に来るたびに毎回、彼女の部屋のテーブルの上にあるカップのスープを一口だけ拝借し続けた。

彼女がこのカップを手にしている姿を想像しながら。彼女がこのカップに口づけ、中の液体を飲み下す姿を想像しながら。彼女はいつもどの場所にどんな角度で口をつけるのだろう。どれくらいの深さで。そして、彼女の唇に触れた後カップに戻った液体を少しでも多く僕の中に取り込めますように。と祈りながら。しかしそれでも飲んだことがわからない量だけを計算してほんの少しだけ。本当に本当にほんの少しだけ。

それでも回数を重ねるたびに僕の中の彼女の割合は少しずつ少しずつ増えていくのだ。そしてそう想像するだけで僕は何とも言えない幸せな気持ちに包まれる。幸せな気持ちに包まれ、背徳感を感じながら彼女と過ごす時間は天国にいるようだった。

しかし、彼女に会えなければあの時間は味わえない。彼女が必要不可欠だ。彼女が。彼女が。どうしても。

赤いキノコの前まで来た僕は、ゆっくりとキノコに向かって手を差し伸べた。

この赤いキノコこそ、僕と彼女をとりもってくれるものに違いない。

なぜかわからないけど、僕はそう確信した。親指と人差し指で小さなキノコをひとつ摘まみ上げる。ぷつっという感覚が僕の手に響く。その余韻を感じながら僕はそのキノコをまじまじと見つめた後、口の中に放り込む。

ぬめっとしたキノコを噛みしめる。キノコ特有の香りが鼻から抜けるのと同時に、じゃりじゃりとした土の感触が歯に伝わる。土の香り。キノコの香り。森の香り。土の香り。香り。かおり。かおり。鼻から抜ける香り。それとともに、僕の身体からすうっと空気の中へ僕の意識は抜け出していった。

〈終〉


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