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三途の川で待ってます

一章

”カナカナカナカナ……”
 庭に面して吊るされたすだれの隙間を通り抜け、ヒグラシの声が私の耳に届き始めた。
 いつもなら一人のんびりと布団に横たわったままふんわりと漂ってくる夕餉のいい匂いを楽しんでいる時間なのに、今日はいつもとは違って私の周りにはたくさんの人が集まっている。ワイワイと話をするわけでもなく、みんな何だか少し寂しさをこらえたような顔をしながらじっと私を見ている。
 そんなに見られていたら恥ずかしいじゃない。
 みんなの視線から逃げるようにゆっくりと瞼を閉じ、私はふうっと息を吐きだした。吐いた息と一緒に魂まで抜け出したのか、私の身体は重力から解放されたかのようにとても軽くなった。
 あら、ついにこの身体とお別れする時が来たのね。
 お医者様が私の首元にそっと手を当て、しばらくしてからその手を離し「お亡くなりになられました」と言う姿を、私は自分の身体から少し離れた場所から「ふうん」と他人事のように見つめていた。
「おばあちゃん!」
「お母さん」
 その場で動かないみんなを横目に自由に動き回れるようになった私は最後のお別れを始めることにした。
聞こえていないとわかってはいるけれど、私はひとりひとりに順番に声をかけていく。
 あら、娘。あなたいつの間にか老けちゃったわね。ふふふ。息子はお腹が育ちすぎじゃないの? もっと運動しなさいよ。あ、虎ちゃん! あなた、いたずらはほどほどにしておきなさいよ。ほんとにもう。お隣のゲンさんには本当にお世話になりました。先に逝ったリカさんには伝えておきますね。リカさん、また仲良くしてくれるかしら?
 全員の顔をゆっくりと見て回り一通り挨拶を済ませた頃、私はいつの間にか現れた光に向かってすうっと吸い込まれはじめた。
 さようなら。悲しまないで。私はとても幸せだったわ。
 目の前では私の過去が走馬灯のように駆け巡り始める。みんなの姿はとっくに見えなくなってしまった。段々と小さくなっていく声はだいぶ遠くなってしまってはいるものの、まだかろうじて聞こえている。
 しかし、その声ももうすぐ静寂へと飲み込まれていくのだろう。そんなことを思いながら流れるがまま身を任せていたところ、最後の最後、本当に最後に聞こえた小さな小さな声が『みたらし団子』と言ったのを私はしっかりと聞いてしまった。
『みたらし団子』
 それは私の大好物であり、この人生において切っても切れない食べ物である。嬉しい時、悲しい時、落ち込んだ時、あらゆる場面で私と共にあった『みたらし団子』
ああ、みたらし団子。
 気が付くと、目の前をものすごい勢いで流れていく走馬灯の中の景色は、いつの間にかすべてみたらし団子に置き換わっていた。
 近付いてくるみたらし団子。通り過ぎていくみたらし団子。去っていくみたらし団子。右を見てもみたらし団子。左を見てもみたらし団子。初デートでみたらし団子を頬張ろうとして盛大によだれを垂らした私。それはいらないからもう二度と流れてこないで頂戴。
みたらし団子。みたらし団子。みたらし団子。
 ああ、みたらし団子!
 早く帰らないと!
 今辿ってきたであろう場所を振り返り、元いた場所へと戻ろうとしてみても眩しすぎるこの光のせいか、それとも見えないくらい遠くまで運ばれてきてしまったからなのか、帰りたいあの場所を見つけることはできなかった。私のいた世界は私の前から跡形もなく消えてしまっている。
 もう戻れないんだ……
 私はがっくりと肩を落とし、呆然としながら、先ほどまでと同じように流されるがまま光の中を運ばれて行くのだった。

 どれくらい運ばれてきたのだろう。まばゆいばかりの光が少しずつその勢いを弱めてくると、徐々に視界が戻ってくる。
「か……わ……?」
 目に映る世界に輪郭が戻ったとき、私の目の前にはゆったりと流れる大きな川が横たわっていた。
「へえ。これが噂に聞く『三途の川』っていうやつなのかしらね。想像していたよりずっと深いし広いわねえ。でも、どうやって渡ればいいのかしら?」
 右を見ても左を見ても橋ひとつ見当たらない。しかし、私は確実に死んでしまったのだから、この三途の川を渡らないわけにはいかないわけで。
「うーん。困ったわねえ」
 強硬手段を取って泳いで渡ろうかとも一瞬考えたけれど、いくら私が死んでいるとはいえそれは無謀だろう。そう思いなおした私はとりあえずその場にしゃがみ込み、この三途の川を攻略するための一人作戦会議を開くことにした。
「こうやって一人作戦会議を開くのも久しぶりねえ」
 小さな頃はよく開いていたこの『一人作戦会議』をしなくなったのはいつの頃からだろう? 懐かしい気持ちと三途の川の渡り方で悩む気持ちの間を行ったり来たりしながら川の渡り方を考えてみるけど、探している攻略方法はなかなか見つからない。
 そんなこんなで川から吹く心地よい風に吹かれているうちに、私はいつの間にかこの場所ですっかりと眠りこんでしまっていた。

『チリン チリン……』
 どこからか聞こえてきた澄んだ鈴の音で私は目を覚ました。
 そして、目覚めると同時に自分自身の状況を把握し、思わず顔を赤らめる。穴があったら入りたいとはまさにこのことだ。
 いくら人通りがほとんどない三途の河原だとしても、そして私がいくら八十を超えたおばあちゃんだとしても、こんな場所で無防備にゴロリと大の字で転がって気持ちよくぐっすりと寝てしまうだなんて。なんてはしたない。
 急いで足を閉じて座りなおし、乱れた髪の毛を手櫛で整えながら私はきょろきょろと辺りを見回した。周辺に人影が見えないのを確認してホッと胸をなでおろした後、鈴の音の出どころを探し始める。
 空の明るさは眠りに落ちる前と少しも変わってはいないので、たっぷりと眠ったような気がするだけで実際はほんの数分しか眠っていなかったのかもしれない。でも、それにしてはおかしい。
 だってほんの数分しか眠っていなかったとすれば、眠りにつく前には見当たらなかった目の前に現れたこれについて一体どうやって説明すればいいのだろう? かといって、これが出来上がるまでの長い間ずっと私が眠りについていたとも考えられない。
 ここは三途の河原。
だから現実世界とは違って、何が起こっても不思議は無い。そういうことなのだろうか……。
 そんなことを考えながら、私は目の前の川岸にいつの間にか現れていた、木で作られた船着き場を眺めていた。
 私は大工さんとお茶を飲みながら談笑したことは数在れど、大工仕事はしたことはない素人だ。それでも、あの船着き場が数日で出来るようなものでは無い立派なものであることくらいは分かる。
 やっぱり不思議だ。
 色々と不思議だ。
 しかし、私はどう考えても辻褄の合う答えが見つからないこの問題について『三途の河原だから』の、その一言で片付けてしまうことにした。
 だって悩んだって何も変わるわけでも無いし。
 そうだ。そういうことなのだ。
『チリン チリン……』
 風がまた、鈴の音を運んできた。
 鈴の音がした方向を探ってみると、それは私の見ていたあの船着き場の方から聞こえてくるみたいだった。
 あれは何だろう。小舟?
 今まで船着き場にばかり気をとられていて気が付かなかったけど、立派な船着き場には不釣り合いな、オマケについてくるおもちゃみたいな小舟が一艘、ゆらゆらと波に揺られながら船着場に停泊していた。
『チリン チリン……』
 船が風に揺れる度、心地よい鈴の音がその後に続く。
鈴はあの船につけられているのだろうか。私はすくっと立ち上がると、鈴の音に誘われるようにその小さな船に向かって歩き始めた。

 小舟の上ではこんがりと日に焼けた青年が、三角座りを崩したような座り方でちょこんと座っている。目にかかるくらいの長さの髪をサラサラと風になびかせながら三途の川の向こう側をぼんやりと眺めている青年は、見たことが無いのに会った事があるような、そんな不思議な気持ちに私をさせた。
「あの、すみません」
 青年の近くまで来た私は、恐る恐る彼に声をかける。
「はい、なんでしょう?」
 くるりとこちらに振り返った青年は、見た目から想像した通りの爽やかな声でそう答えた。
「もしよかったらなんですけど、向こう岸まで乗せて行ってもらうことはできますでしょうか?」
「ええ、もちろんです。喜んで」
 立ち上がった彼は口元に白い歯をチラリと覗かせると、私に向かって手を差し伸べた。
「ありがとうございます」
 私は彼の手をそっと取ると、なるべくおしとやかな動きで彼の船へと乗り込む。ここからさっきまでいた場所までは少し距離があるし、彼はずっと向こうを向いていたみたいだから、私のあの失態は見られていないはずよね。
 そんなことを考えながら、彼の向かい側にちょこんと座った私は、彼ににっこりと笑いかけた。
「それじゃ、出発しますねー」
 ぎっこぎっこという音をたてながら、彼が櫂を漕ぐ。
 そのリズムに合わせて、鈴の音が鳴る。
『チリン チリン』
「鈴の音……」
「あ、いい音でしょ、これ」
 そう言いながら、彼は船の縁に立っている一本の棒に括り付けられた達磨の形をした鈴に目を向ける。
「本当はお守りなんですよ、これ」
『チリン チリン』
「へぇ。達磨の形のお守り」
 そう口にした私はふと、家の近くにあった『法輪寺』のことを思い出した。
 『法輪寺』別名『だるま寺』は、京都市内にあるお寺で、境内には大小さまざまな達磨が多数奉納されている。達磨さんにあやかり、転んでも起き上がる『七転八起』の不屈の精神のご利益を求めて各地からたくさんの人がお参りにくるお寺である。
 家の近くということもあり、私も小さい頃からだるま寺には何度も足を運んだ。家族そろってお参りしたり、友達と待ち合わせしたり、なんとなくぶらぶらとお散歩ついでに足を運んでみたり。
 心地よく顔をなでる風のように軽やかに、懐かしい思い出たちがどんどんと私の中で生まれては消えていく。
「懐かしいわね」
 そうつぶやいた私の頭の中で、ふと、思い出さなくてはいけない何かが小さく自己主張を始めたような気がした。なんだろう。私は何を忘れてしまっているのだろう。とても大切な事。大切……。
「おねーさんは、いい人生を送ってきたみたいですねー」
 私がナニカの存在をつかもうと思考に集中しようとしたとき、彼がノンビリとした口調で私に話しかけてきた。それまで形作られていたナニカは一瞬にして霧散していく。もう少しで掴めそうだったのに。
 残念な気持ちをなるべく表に出さないようにしながら、私は彼に返事をする。
「そんなことまでわかるんですか?」
「ええ。僕もこの仕事、結構長いことしてるんで。大体のことはわかりますよー」
 まだ『大人の男性』までは到達していないような若い見た目をしているけれど、そう見えているだけで本当はかなりの年季が入っているのだろうか。私は遠慮することも忘れて彼の顔をまじまじと見つめる。
 それに、こんなおばあちゃん相手に『おねーさん』と軽々と言ってしまえるとは、本当の彼は一体どれくらいの年なんだろう。
ひょっとすると『三途の川の七不思議』なんてものがここには存在するのかもしれない。
 そんなことを考えていると、風がサラリと私の髪の毛をなびかせた。
 あれ?
 私は子育てが一段落して以来ずっと髪の毛を短く整えているので髪の毛がサラリとなびくはずがない。違和感を覚えた私は顔の前になびいている髪の毛を捕まえると、目をそちらに向けた。
「うそ……」
 胸元まである長さの黒々とした艶のある髪の毛。
それはまるで十代のキラキラとしたあの頃の私の髪の毛そのものだった。
 え?
 不思議に思いながら、ゆっくりと手櫛を通してみる。サラリ。指の間をすり抜ける、とても健康的な若々しい髪の毛の感触。若い時はこんな感じだったわね。そんなことを思いながら、髪を一束つまんでじっくりと観察していると、髪の毛と一緒に視界に入っていた手にも違和感を感じた。
 無い。
 無くなっている。
 そこにあったはずの浮き出た血管やシミ、それどころかシワまでもが跡形もなく消えていた。そしてそして、私の手はキメの細かい滑らかな十代の肌になっているではないか。
「私、若返ってる!」
 思わず大きな声が出た。
 ハッとして口を押えた私を見て、彼は船を漕ぎ続けながらクスクスと笑った。
「びっくりしちゃいますよねー。ここに来ると、みんな若返っちゃうみたいなんですよねー」
 三途の川の七不思議は誰に対しても平等に効果を及ぼすのか。
 私は若々しい自分の手を何度もじっくり確認した後、頬や腕を何度も何度も触って懐かしい感触を思う存分楽しんだ。
 人生の終わりもなかなか捨てたもんじゃないわね。
 とまらないニヤニヤを何とか隠そうとしてみるけれど、私の意志を無視して勝手に持ち上がる頬はどれだけ下げようとしてみてもいうことを聞かない。
 そんな私の顔をニコニコと見ながら、彼は小さな声でこう言った。
「ユキちゃんは変わらないですねー」
「え?」
 彼の言葉に反応した私に気付いていないのか、彼は何事も無かったかのようにゆっくりとした口調で話し続ける。ちなみに私の名前はユキちゃんではないのだけれど。
「おねーさんはかなり満足してこっちに来たみたいですけど、しばらくこっちでゆっくりしていくつもりですかー?」
 ぎっこぎっこと船を進ませる彼を見ていると時間の流れがゆっくりになっていくような、そんなふんわりとした気持ちになる。
 これもたぶん三途の川の七不思議のひとつだろう。
「そうね。ゆっくりするのもいいかもしれないわね」
 頬を撫でる心地よい風を満喫しながら私はお兄さんにそう答えた。
「あっちで満足してこっちに来た人は、しばらくこっちでゆっくりしていく人も多いんですよー。あっちが辛かった人もみんなこっちでゆっくりして行くんですけどねー。あはは。ここはいいところですから。あ、そう言えばだいぶ前に来たおにーさん、上の人にヤイヤイ言われてるはずなのに、まだこっちにいるみたいですよー。そろそろ本気でおこられちゃうんじゃないですかねー。あはは」
 楽しそうに話す彼を見ていると、しばらくのんびりしていくのもいいかもしれないな。と私も思いはじめた。
 確かに私は人生をかなり満足して終えた。セカセカと急いで向こうに戻らないといけない用事もないし。そうね。ゆっくりしていこうかしらみたらし団子。

 あ

「ちょっとお兄さん! 急いでくれないかしら! ああ、もう!」
 急に急かし始めた私を見て、彼はきょとんとした顔をして動きを止めた。
「だ! か! ら! 私急いで戻らないといけないのよ! ぼさっとしてないで、早く私を向こう岸まで連れて行ってちょうだいな!」
「はっ! はいっ!」
 私の一喝に体をビクッとさせた後、彼は人間ワザとは思えない速さで船を進ませると、あっという間に私を対岸まで運び終えた。
「じゃあ! お兄さん! ありがとう! またね!」
 私はひらりと船から飛び降りると、一目散に生まれ変わり案内所まで走った。
あら、私どうしてこの場所を知っているのかしら?今回が初めての生まれ変わりじゃないってことかしら。
 いや、今はそんなことよりみたらし団子。
 受付にたどり着くや否や私は窓口のお姉さんに向かって早口でまくし立てた。
「あのっ! みたらし団子が! なので、なるはやで生まれ変わりお願いします! ああ、みたらし団子」


 生まれ変わって行ってしまう彼女を見送るのは何度目だろう。
 満足しきった顔でここまで来るのに、いつも彼女はゆっくりと休むことなくあっちの世界へと帰って行ってしまう。毎回懲りることなく、人生の幕引きの瞬間に抑えることの出来ないほどの未練を持ってしまう彼女。
彼女らしいといえば彼女らしい。

 前回はアユの塩焼き。
 その前はアイスキャンディー。
 そのまた前は何だったかな?

 いつか彼女がここでゆっくりとしていく日が来ることを僕は待ちわびてもいるけれど、心の奥底ではまた何かを思い出してバタバタと大慌てで帰っていく彼女を見送りたいと思っていたりもする。

 次に彼女に会うのが楽しみだ。

 川に浮かべた船にゴロリと転がって、僕は雲ひとない空を見つめながら、ふふふっと笑った。


二章

『チリン チリン』という鈴の音を聴きながら、私はこの世に誕生した。

 そう記憶しているはずなのに、そんなことを覚えているはずがないと否定する私も同時に存在していて、私の中の私は、私に対してどことなく違和感を抱いているような。そんな気がたまにする。

 私の名前は都ゆづき(みやこゆづき)。
 京都で産まれ、京都で育った。
 小さい頃はなぜかみたらし団子にこだわり続け、どれだけ機嫌が悪くてもみたらし団子をチラリと見せればニコリと笑う子供だったらしい。
 そしてそんな救世主のような最終兵器のようなみたらし団子を私の両親は『神様仏様みたらし団子様』と毎日のようにあがめていただとかなんだとか。
 両親はことあるごとにそんな話をするのだけど、そんな昔の事を言われても私の記憶にはそんなものは残っていないし、小さい頃の行動を大人になってからああだこうだ言われても今さら何が出来るわけでもないし。
 それに、両親が大げさに話を盛っている可能性も捨てきれないので私はその話が出る度に「へいへい」と聞き流すのがお決まりの対応となっている。
 そんな私は大学を卒業後、雑誌の記者になるという高校時代からの夢を叶え、東京のとある出版社でバリバリと働いていた。
地元を離れ、親元を離れ、自由を満喫しながらの一人暮らしの生活は第二の青春時代が来たかのように毎日が忙しく、キラキラと輝いていた。
 しかし、東京でそんな人生最高の生活を送っていた私だったが、入社して二年目、人生の転機が訪れることになる。
 あの年、前々から計画されていた新規の案件が大阪で立ち上がり、私はそのプロジェクトに抜擢された。実績を積んできたという自信はもちろんあったけれど、この異動は私が関西圏出身だからという理由が大きそうだな。なんてこともほんの少し感じていたりもする。まあ、この仕事が成功すれば、また東京へと戻るのだからそんなことはどうでもいいと思っていたけれど、そんなに物事が思い通りに進まないことがわかるまでそう長い時間はかからなかった。
 大阪へ移った後も仕事は相変わらず楽しく職場の人間関係も良好。部屋は南向きの角部屋で駅まで徒歩三分。コンビニも近く、ちょっと大きめの公園まで歩いて行けるという完璧な環境に恵まれた。
 それに加えてどこのお店に入ってもご飯は美味しいし、もうこの場所から動きたくないとまで思いはじめたあの日、私は会議室で新しい企画の打ち合わせをしている最中、突然意識を失い病院に搬送された。
 白い壁と天井に囲まれた硬いベッドの上で目を覚ました私の左腕には点滴の針が刺さっていた。
 思い出せる最後の記憶は、視界が灰色の砂嵐に浸食されていく中「大丈夫ですか?」と誰かの声を聞いたところまで。
 ああそうか、私は病院に運ばれたのだな。
 まだぼんやりとしている頭で私は体全体に意識を這わせる。うん。どこも痛いところはなさそうだ。こんなところでゆっくりと寝ているわけにはいかないと急いで体を起こそうとしたところ、慌てた様子の声が私の耳に聞こえてきた。
「都さんダメですよ。もうしばらく横になっていてください」
 声のした方向に目を向けると、ベッドの横にある折り畳み椅子に座っている後輩の姿が見えた。

 彼の名前は新堂みつる(しんどうみつる)。
 大阪支部に勤める私のひとつ下にあたる後輩で、仕事は出来るがとにかく鼻につく男。あだ名は『みつお』。彼の実家は京都の有名な和菓子屋で、噂によると一人息子にもかかわらず、みつおは実家を継がずにフラフラと異業種を渡り歩いているらしい。
 ご両親が寛大なのか、みつおが型破りなのか。よそのご家庭の事なので私がどうこう考えたって何にもならないのだけど。でも普段のみつおを見ている限り、後者なのではなかろうかと思わずにはいられない。
「あ、みつお。こんなところで何やってんの? 仕事は?」
 そう問いかけた私を上から見下ろしながら、みつおは
「あのね、都さん。誰がここまで付き添ったと思ってるんです? いくら社外の人間がいない会議とはいえ、それを放り投げてまで付き添った僕に対して『何やってんの?』はちょっとひどいんじゃないですか?」
 と、いつものように私に突っかかってきた。
 おいおい、私は点滴をして病院のベッドに寝ているのだぞ。もう少しあるだろうよ。ああ、面倒くさい。どうして会議室にいた他のメンバーが付き添ってくれなかったんだ。私はあの時部屋の中にいた面子を順番に思い出し、心の中でねちねちと絡むことにする。
「ああ、それは申しわけありませんでしたね」
 不満を隠そうともせずに謝罪する私を見下ろしたまま、みつおはパイプ椅子の上で足を組みなおした。
 いつも通り偉そうなみつおを見ながら、私は明日から何かある度に『命の恩人に対して~』だの『忙しいなか僕がわざわざ付き添ってあげたのに~』だの、ことあるごとに恩着せがましく言われるのだろうな……と、面倒くさいことに巻き込まれてしまったという現状に思わずため息が出た。
 そんな私の様子に気が付いているのかいないのか、みつおは私に向けていた目を窓の外に向けると小さな声で「よかった」と言ったような気がした。
 いや、あのみつおがそんなことを言うわけがない。私の弱った心が見せた幻。そう、幻に違いないのだ。現にその後
「都さん、ちゃんとご飯食べてます? お医者さんが言うには過労ってことらしいですけど、都さんて持ち帰ってまで仕事してないですよね? 何なら僕の方が仕事量も多いですし、外回りだって多いですもん。都さんが倒れるのなら僕が倒れる方が先じゃないですか?」
 なんてことをペラペラとまくし立てるように話し出したのだから。
 ああ、うるさい。
 倒れるにしても、みつおの目の届かない場所で倒れたかった。それが今の私の心の奥底から湧き出る全てである。
「あ、点滴終わった」
 私が空になった点滴バッグを見ながらそう言うと、みつおは「ちょっと待っててください」と言い残し、席を立つと看護師さんを呼びに部屋から出て行ってしまった。
 はあ。これで解放された。いや、まだだ。この後会社に戻る間もあのネチネチした文句を聞き続けなくてはいけないのだろう……。大きなため息をひとつついた私は、さっきまでみつおが見ていた窓の外へと目を向ける。
 今日もいい天気だ。
 真夏ほどではないが高い空に浮かぶ白い雲。その塊が流れていくのをぼんやりと眺めていると、部屋の入り口をノックする音が聞こえた。
「都さん。具合はどうですか?」
 そう言いながら白衣を着たショートヘアの女性が部屋に入ってきた。かなりふんわりとした空気をまとってはいるものの、立居振舞からしてこの人が先生ということで間違いないだろう。私よりも少し年上だろうか。ひと回りは離れていないような感じがする。でも、若く見えるだけで実は……。
 おっと、そんなことどうでもいい事を考えている場合ではない。質問に答えなくては。
「あ、はい。だいぶいい感じです」
 そう答える私ににっこりと微笑みかける先生の姿はまるで天使のようだ。窓から差し込む光までもが絵画などでよく見かけるような感じに先生に降り注いでいるようにも見える。
「それはよかったです。血液検査の結果は特に数値が悪いところはなかったんで、多分『過労』だと思うんですけど。痛いところやおかしいと感じるところありませんか?」
 私の顔を覗き込むようにしながら先生はゆっくりと尋ねた。
 先生のこの天使の微笑みは、今まで何人の人を虜にしてきたのだろう。顔も知らない歴代の恋の敗者たちに私は思いを馳せる。
 いやそんなことより、答え答え。
「はい。特にないです。もう大丈夫だと思います」
 その答えを聞きながら先生は私の手に刺さった点滴の針をさっと抜き取る。
「そうですか。大丈夫だと思いますが、もし明日になってもまだ調子が悪かったら受診してくださいね。詳しく検査しますので。あ、都さん。もう起き上がっても大丈夫ですよ」
 私が身体を起こしてベッドに腰掛け、靴を履いていると、みつおが看護師さんを連れて戻ってきた。
「先生、ここにいらっしゃったんですね」
 にこやかにそう言う看護師さんに対して先生もふふふっと笑う。
「そろそろ点滴も終わるかなーと思って」
 二人のやり取りを聞きながら、この職場はとてもいい環境なのだろうと思った。そして私は気付かれないようにそっとみつおに目を向ける。
「なんですか? 都さん」
 バレた。
「いや、なんにも」

 想像していた通り、帰りのタクシーの中でみつおは『僕は都さんの命の恩人』だの『こんなに優しい後輩は世界中どこを探しても二度と見つからない』だの『今日の僕の仕事の遅れは気にしてくれなくても全然大丈夫ですよ』だのとやっぱりネチネチネチネチと煩かった。
 点滴を受けてしばらく眠っていたことで回復した私の気力体力は今、このみつおによって吸い取られていってしまっているんじゃなかろうか。
 そんなことを考えているうちに、私はいつの間にかまた眠ってしまったようだった。
「……さん? 都さん?」
「……ん?」
 肩を揺さぶられて起こされた私はまだ頭の中がぼんやりしているが、タクシーが目的地に着いたことを理解した。
「都さん着きました。降りますよ。運転手さんにご迷惑ですから」
 みつおに促されるままに車を降りてなんの疑問も持たないまま目の前にある家に向かった私は、ポケットから出した家の鍵でドアを開けながらふと我に返った。
「あれ? なんで? ここ私の家じゃん。会社に戻るんじゃないの? まだ仕事終わってないし。ていうか、何でみつお私の家の場所知ってるわけ?」
 私の疑問に答えることなく、みつおは挿しっぱなしの鍵をつまんだままの私の手に自分の手を添えると、私の手ごと鍵をドアから抜き取った。そしてドアを開けると
「まあ、入って下さい。少し散らかってると思いますけど」
 と言い、私を部屋の中へと誘導した。
 いやいや、ここは私の家だし。何勝手に散らかってるとか言っちゃってるの。それに私はみつおを家に呼んだことも部屋の中に入れたこともないだろうが。
 靴を脱いで玄関を上がり部屋の廊下で色々と言いたいことを頭の中で整理している私をよそに、みつおは靴を脱ごうともせず手に持っていたビニール袋を私に向かって差し出した。
「これ、食べてとっとと寝て下さい。早く回復してもらわないと困るんで。あと、都さんの荷物は定時が終わったら坂井さんが持ってきてくれる予定です。僕は今から社に戻りますけど、なにか伝言あればどうぞ」
「あ、こりゃどうも」
 私は差し出された袋を素直に受け取った。
「伝言は……。会議をダメにしてしまって申し訳ないですとだけ。うん。後は財布とスマホがロッカーに入ってるのを持ってきてくれたら嬉しいかな」
 そう言いながら、私は自分の荷物が全て会社に置きっぱなしであることに気がついた。家の鍵はいつもズボンのポケットに入れっぱなしだから良かったものの、もし私が鍵を持っていなかったらみつおはもう一度タクシーを呼んで私ごと会社に引き返すつもりだったのだろうか。
「あ、ロッカーのキー預けとくね」
 キーホルダーにまとめて付けてある家の鍵と会社のロッカーキーを分離させると、私はみつおに手渡した。
「はい、確かに。じゃあ。とっとと寝て下さい。では失礼します」
 みつおはそう言って軽く頭を下げた後、部屋のドアをゆっくりと閉めた。
 部屋に入りエアコンのスイッチを入れると私はソファーにどっかりと腰を下ろす。
 それにしても、なんで倒れちゃったんだろう? 別に最近調子が悪かったわけでもないし、そこまで多忙だったわけでもない。それに人間関係で悩んでいるわけでもなかったのに。
 ついでにいうと、つい先週出た健康診断の結果もオールAで何も問題ナシだった。病院の先生は過労って言ってたっけ。自分が感じている以上に何かが負担になっているのかもしれない。
 そんなことを考えながら、私はみつおから受け取ったビニール袋の中身を順番にテーブルに並べ始める。
「おにぎりとゼリー飲料。それにジュースと……みたらし団子?」
 私は残業する時などにコンビニでみたらし団子を買って食べることがある。その頻度は確かに他の人達より多いかもしれない。いや、たぶん確実に多いだろう。
 でも、そのことに関して同僚やみつおに何か言われた覚えはないので、私がみたらし団子が好きだということはバレていないはずだと思っていた。しかし、差し入れにみたらし団子が入っているということは、私がよくみたらし団子を食べているのを知っていたということだろう。
私が思っている以上に私の趣味趣向は周りの人間にバレているものなのかもしれない。
 そんなことを考えながら、私はありがたくみつおにもらった食料を食べソファーにゴロリと横になる。そしてうとうとと夢の世界へと引き込まれて行くのだった。

 その日の晩、ピンポンの音でなんとか目を覚ました私は、ボッサボサの頭と浮腫んだ顔でフラフラと玄関までたどり着いた。そんな私の姿を見るなり坂井さんは「大丈夫? 明日有休申請しといてあげるよ。朝の連絡とかはいいから何も考えずに一日ゆっくり休んで」と言ってくれた。
 それほどに酷い顔をしていたのだろう。
 しかし、それは疲労が原因のせいなのか、それとも普段の寝起きの私の顔が他の人と比べてそれほどまでに酷いものなのか。どちらが正解なのかわからないところが悲しい。
「ありがとうございます」
 お礼を言いながら坂井さんから荷物を受け取った私は、カバンと一緒にコンビニのビニール袋も一緒に手渡されていることに気がついた。不思議そうな顔をした私に坂井さんが教えてくれる。
「あ、それね、みつおからの預かり物」
「みつおですか?」
 そう言いながら袋の中を覗き込むと中には食べ物が入っていた。
「差し入れはありがたいですけど、みつおからって思うと何か後が怖いですよね」
 私が笑いながらそう言うと、坂井さんも「ほんとほんと」とクスクス笑った。
 玄関で五分ほど明日の引き継ぎをした後、坂井さんは「本当に無理しなくて大丈夫だからね。ゆっくり休んでね」と言うと、手をヒラヒラと振って帰っていった。坂井さんはいつも優しい。
 坂井さんが帰った後、私はソファーに座りながらお昼と同じようにみつおからもらったビニール袋の中身をテーブルの上に並べていく。
 菓子パン、おにぎり、ゼリー飲料、栄養ドリンク、そしてまたしてもみたらし団子。みたらし団子を持ち上げた時、みたらし団子の裏側に付箋がくっついていることに気がついた。
「なんだろう? もしかして請求書とか? みつおならやりかねん」
 そんなことを考えながらも、病院のお金やお昼と今回の食べ物のお金を早く返さないといけないな。と、みつおに今日は本当に世話になってしまっていることを思い出した。
 でも過剰請求には従う気は全くない。私に吹っ掛けてくるなんて十年早い。そんなことをしてきたら仕事を増やしてやる。それとこれとは話が別だ。
 なんてことを考えながら目を落とした付箋には几帳面な文字が綺麗に並んでいた。そういえば、みつおは字がやたらめったらと綺麗なところも鼻につくヤツだったな。なになに。
「お大事にしてください」
 ……
 …………
 普通のメッセージにちょっと拍子抜け。でも続きがある。
「今回の案件については心配せず、ゆっくりと休んでください。まあ、僕がついているので心配なんてしていないと思いますけどね。あと、差し入れに関してはお気になさらず。病院代の請求は後日、請求書を発行しますのでよろしくお願いします」
 普通はこんなことを書かない。やっぱりみつおはみつおだった。
 私はみたらし団子を頬張りながらみつおのメモを何回も読み返し、食べ終わると携帯からみつおにメッセージを送る。
「今日は本当にありがとう。差し入れは遠慮なくいただきます。病院代は後日請求してください。案件についてはもちろん心配してるに決まってるでしょうが! あと、明日は休みますのでよろしくお願いします」と。

 それからしばらくの間、体調の波が上がったり下がったりする度に会社を休み病院へ通ってみたけれど、体調不良の原因はさっぱりとわからなかった。色々と検査をしてみても、セカンドオピニオンをしてみても全くもって原因がわからない。そしてそれだけでなく、日を追うごとに不調な日の割合が目に見えて増えている。
 そんな訳で、倒れた日から半年もしないうちに自分の体調に限界を感じた私は会社を辞めることにした。
「今までお世話になりました」
「ほんと、たくさんお世話させてもらいました」
「そりゃすみませんでしたね」
「いえいえ。出来る人がやるっていうのは当然のことですから」
「ほんっと可愛くない!」
「優秀な後輩に対する嫉妬としてありがたく受け取っておきます」
 可愛げのないみつおとの最後の会話はそんなやり取りだった。忘れようと思っても忘れられないくらい本当に可愛くない。でも、こういうやりとりも無くなってしまうと思うとちょっと寂しい。

 その後、しばらく大阪で過ごしてから私は実家のある京都へと帰ってきた。
 実家にはなんとなく戻りにくかった私は、家から自転車でニ十分ほど離れた場所に家を借りて一人暮らしをはじめた。体調がまだ完全では無かったので少し不安だったけど、今までも一人暮らしをしていたし、京都では実家にヘルプを求めることが出来る分大阪にいたときよりも安心だと考えて、最終的に一人で住むことに決めた。
 しかしそんな心配もよそに、京都に戻ってからしばらくすると今までの体調不良が嘘のようにすっきりと消えてしまった。あれだけ病院でも原因がわからなかったのに。不思議なものだ。
 そんな私を見て、地元の友達は
「さすが都っていう名前だけあって、『都(みやこ)』にしか住めない体質なんだねぇ~」
 なんて会う度会う度にからかってくるけれど、なんとなく全力で否定できないのはなんでなんだろう? 自分自身でも、心のどこかで『都』以外では住めないんだよねーなんてばかばかしいことを信じているのかもしれない。なんてことをたまに思う。
 いやいや、仕事辞めたからじゃない? そんな真っ当な気持ちももちろん持っているので私はまだ大丈夫だろう。

 ある日、お天気も良かったので散歩がてら愛車のママチャリで川沿いの道を走っていると、いつもは気にならない、土手に座っている人の後ろ姿が妙に気になった。
 どこかで見かけたことのあるような無いような背中をまじまじと見つめながら自転車の速度を落とし、その人の後ろを通り過ぎつつさりげない感じを装いながら私はその人の顔を確認しようと頑張った。そして頑張りすぎた。
 うぐっ
 よそ見をしていた私は堤防沿いに植えてある木に自転車で真正面から突撃してしまった。
 ガクッと揺れる視界。お腹に食い込むハンドル。そして耐え切れずに倒れこむ車体と私。加えてその衝撃でハンドルについているベルが『チリンチリン』と存在感をアピールするかのように激しい音をたてる。
 お願いだから今は存在感を極力消し去っていただきたい。こんな姿を誰にも見られたくない。
 しかし、そんな私の願いもむなしく、倒れている私の元に土手に座っていた人が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
 ああ、穴があったら入りたい。
「あ、はい。大丈夫です。すみません。お騒がせしました」
 あまりの恥ずかしさにその人の顔を見ることが出来ず、私は大慌てで自転車を起こすとペコペコと頭を下げ急いでその場を離れようとした。そんな私の様子をちょっとあっけにとられたような感じで見ていたその人は、少し驚いたような声でこう呟いた。
「あれ……? 都さん?」
 こんな無様な姿をさらしてしまった相手が知り合いだなんてなんたること。
でも、事の発端は後ろ姿がなんとなく見覚えがあるような気がしたから。ということは、その人が知り合いである確率が高いということだ。そんなことに今頃気がつくだなんて。
 知らないふりをして走り去ることを諦めた私は、顔を下げたままそっと視線を上げてその人の顔を見た。
 え?
 みつお
 なんでここに
「やっぱり都さん。こんなところで会うなんて奇遇ですね。今京都にいるんですか? それとも旅行か何かで?」
 私の動揺している気持ちに気付いているのかいないのか。みつおは自転車が木に激突したことなんて全くなかったかのような態度で普通に世間話を始めた。安定のみつおである。
「いや、私実家が京都でさ。まだ仕事は決まってないけど実家の近くに戻ってきたってわけ」
「へえ。ご実家、京都だったんですね。それは知りませんでした。って『まだ仕事は決まっていない』って、都さん。うちの会社辞めてからもう半年は過ぎてますよ? その間ずっと無職ですか?」
 さすがみつお。私の痛いところを確実に突いてくる。
「いや、それよりも。みつおはこんなところで何してるの? 川を見つめて佇んでるとかまさか彼女にでも振られちゃった?」
 話をそらすためにも反撃せねば! と、私がそう言うと、みつおは「やれやれ」といった表情で淡々と言い返してくる。
「都さん、相変わらずですね。僕が振られて落ち込んでる? 一体何を言ってるんです。そんなことあるわけないでしょう。それに落ち込んでいるイコール異性に振られただなんて、そんな単純なことばっかり言ってちゃだめですよ? もういい大人なんですから」
 ああ可愛くない。やっぱり可愛くない。もう可愛くない。
 いつの日か絶対にみつおを見返してやる。そんなことを考えていると、みつおがふふっと笑った。
「お元気そうでよかった。退社の日もかなり顔色が悪かったんで、これでも心配してたんですよ。今日こうやって、相変わらずなところも見れたんでますます安心しましたけどね」
 心配してくれてたんだ。と素直に思えるような発言ではなかったけど、まあ、みつおのいつもの言動からすればこれはかなり気にしてくれていたのだろう。でも『ますます安心した相変わらずのところ』が『自転車で木に激突したこと』ではありませんように。
 そんなことを考えているとみつおがびっくりするようなことを言いはじめた。
「実はね。僕もあの後、会社辞めたんですよ」
「へ?」
「いや、だから会社辞めたんですよ」
 それは今聞いた。
 そんな私が話を聞いていない残念な人間のように私の顔を見ながら繰り返すのはやめてほしい。私が聞きたいのはその理由である。
「なんで?」
 そう聞いた私にみつおはさも当然のようにこう答えた。
「仕事辞めるのに理由っていります?」
 ……
「いるだろうよ……」
 ああ。頭が痛くなってきた。
「まあそんなことはいいじゃないですか。都さん、今日この後予定あります? もしお時間があるのなら積もる話なんていかがですか?」
 予定はもちろん空いているし私が辞めた後の会社の話も聞きたい。
 しかし、みつおとの間に積もるような話は思いつかない。んー。悩ましい。
みつおは考え込んでいる私の反対側から自転車のハンドルをスッと握ると自転車をナチュラルに奪い取り「さ、行きましょうか」と歩き始めた。
「自転車泥棒は犯罪だ」
 そう言った私にみつおは涼しい顔をして
「これはエスコートです。感謝してください」
 と言い放った。
 感謝というのは違うのではなかろうか。そう思いながらも、何かを言えば百倍くらいになって返ってきそうな予感しかしなかったので、私は黙ってみつおについて行くことにした。

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