塩の街

海を見たのなんて何年ぶりだろう。遠くで波が遊んでいる。その音と焼けた塩の匂いが身体に染み込むまで、砂浜に足を踏み入れる事ができなかった。「夏だね」なんて嬉しそうに砂に身体を預ける彼女を傍目に、僕は波から目を離せずにいた。彼女の真っ白な肌が砂と混じり合うのが見ていられなかったのもある。僕が立っている場所は潮が満ちれば海に沈んでしまうらしく、足元から水の気配を感じた。彼女はそれでも体育座りでちょこんと、僕のそばにいてくれた。

「濡れちゃうよ?」
「いいの」
「そっか」
「君も座んなよ」

言われるままに、腰を下ろす。案の定、じわじわとズボンに水が上がってくるのを感じた。だがそれも、海とつながっているような気がして不思議と悪い気はしなかった。

「2人で海なんて初めてだね」
「1人でも何年ぶりかわかんないや」
「海嫌いそうだもんね」

彼女の笑い声が波に流されていく。僕は言い返したくもなったが、その笑顔を見ていたらそんな気もなくなってしまった。今日海が嫌いになるだろうという確信もあったからだが。

「私はね、去年来たの」
「そうなの?」
「うん。きっと最後はここだなって、なんとなく思ってたから」

彼女の言葉は砂のように、さらさらと僕の耳からこぼれ落ちた。それを拾い上げようとも思えず、いつの間にか砂浜に紛れてしまったその言葉をいつか後悔するだろうと頭の片隅で考えていた。

いつの間にか波は目の前まで来ていた。潮が満ち、彼女の脚を軽く濡らしては帰っていくその波は、キラキラと白い粒を大事に抱えていた。彼女の白い肌を波が滑っていく様子から僕は、目を逸らす事ができなかった。

「私ね」

波のせいなのか、彼女の声は震えて聞こえた。

「いつかまたあなたと出会うと思う」

もうほとんど白い結晶になってしまった彼女の脚は、海に溶け、広がり、波にさらわれていく。

「来年からは毎年来るよ。海」
「うん」

彼女は嬉しそうに笑う。それからさっきまで彼女だった塩の塊が波に流されてしまうまで、僕は一言も発せなかった。最後の一粒が海に溶けていくのを確認した時にはいつの間にか日が暮れていた。帰り際、僕はなぜか、手についた海水を舐めてみたくなった。きっとその日の海は少しだけしょっぱかったと思う。


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