笑みがこぼれる飲食店経営を目指す

笑みがこぼれる飲食店経営を目指すSmile Free 4

私の飲食業 経験 第4弾 

いつも笑みがこぼれる飲食店経営を目指す、

笑顔でお客様を包み込み温かな雰囲気があふれる店舗

その雰囲気に導かれてファンが増え続けていく

一日の営業が終わり、売上集計をすると思わず笑みがこぼれる飲食店

目まぐるしく変化する飲食業界の中で、その様な飲食店経営を目指すためには

今「進化」が必要。その事を共に「考え」「共感」出来る方々に発信しています。

共に考え、共感して行く為に今回も私の事を知って頂くために経験談を続けて発信させて頂きます。

前回は韓国財閥系企業の日本法人化で、ビビンバチェーンの展開に奮闘した内容をご紹介しましたが、今回はその企業退職後、懲りずに「日韓の架け橋」事業に挑戦して行く話をして行きます。

既存のビビンバチェーンの収益性改善の失敗と新規ブランド立ち上げの不振の責任を取らされてCJ Foodville Japanを退社した私は、前職のコンサルティング会社の上司から声を掛けられコンサルタントに復帰します。上司の名前は 柏野 満 OGMコンサルティングでは専務を務めた人です。相手の経営者に寄り添い的確なアドバイスをする人気コンサルタントで、クラインアントからは大きな信頼を置かれていた人でした。
OGMコンサルティングの民事再生時は乱脈投資先の外食事業の代表であった事からその負債を抱え退社し5年その返済の為に必死に講演活動や教育関連セミナーで東奔西走しやっと完済し、より前へ出てコンサル事業を拡大しようとしていた時に、フラフラしていた私に声を掛けてくれたのです。

コンサル会社の名前は「サードクォーターコンサルティング」
学生時 水球のオリンピック候補選手であった柏野社長は、人生を水球の試合に準えて、第1クォーターを生まれてから20歳まで親の庇護のもとに育つ時期、第2クォーターを21歳から44歳まで、人生の基礎を作る時期、そしてサードクォーターは45歳から65歳まで、それまで身につけたものを人の為に使う時期、そしてラストクォーターは66歳から死を向かえるまでとし、互いに第3クォーターの年代にいる自分達がクライアントの為に尽くそうと言う意味で社名を「サードクォーターコンサルティング」としたのです。

4年ぶりにコンサルタントに復帰しましたが、CJ Foodville Japanにて実業の飲食経営を学び以前よりも幅の広いアドバイスが出来る様になっていました。
クラインアントを紹介して貰い以前の様に日本を駆け回る日々を送る様になりましたが、一方で韓国からも声が掛かる様になりました。韓国も4年近くコンサルの仕事としては離れていましたが、日本の視察旅行の案件や、以前世話をしていた店舗デザイナーからも声が掛かり、サードクォーターの仕事の合間に韓国へ赴き少しずつ韓国の活動も復帰して来る様な形でした。
1年ほどその様な形で仕事を続けていると、韓国にちょくちょく出かけている私を見て代表の柏野からメンバー集めて「韓国への視察旅行」を企画して見ろと声をかけて貰いました。
2014年の暮れ位だったと思います。

「日韓の架け橋としてもちゃんと復帰しなくては」と思いが募り、企画、募集を通して2015年春 25名の日本の経営者を引率して3泊4日の韓国視察旅行に出向きました。

以前のクライアントさんを頼り、事前視察をし、通常の韓国旅行ではけっして味わえないコースを用意し、韓国の食の都をと言われる全羅道まで足を運ぶという大掛かりなコースを用意しての案内でした。

食べ歩きだけでなく韓国の文化も堪能して貰うという意味ではとても充実した旅行でした。
25名という人数をガイドさん抜きで引率するのは骨が折れましたが無事に終わり「ソウルでの打ち上げパーティー」の時です、視察団の団長を務めて頂いた当時の「甲羅グループの鈴木社長」から突然提案を頂いたのです。

甲羅グループは大型カニ料理専門店「甲羅」でFCビジネスに成功し、焼肉のカルビ一丁の他に当時大ヒットしていた「赤から」他多くのブランドを運営していた大企業です。

柏野社長の一番のお得意様です。

「新井ちゃん、韓国で赤からやらないか? 君の韓国における人脈の多さには驚いた。ぜひやってくれよ」という提案でした。
突然でその場では確約はできず、「ありがとうございます。」としかお答が出来ませんでしたがとてもうれしい提案である事は間違いありませんでした。

実は「サードクォーターコンサルティング」は別会社でRCP(Restaurant Concept Planning)
という会社も運営しており、5店舗ほど「赤から」を運営していました。柏野社長のスポンサーである甲羅の鈴木社長が柏野社長の苦しい時代に好条件で「赤から物件」を与え、支援して貰った中で作った会社です。柏野社長が復帰できたのもこの「赤から」の成功があった事も事実です。

上記の提案に柏野社長も「よかったじゃないか、ぜひやってみろよ」と肩を押してくれました。

当時コンサルとしての力をつけようと「中小企業診断士」の資格を取ろうと教材を買って勉強を始めた所でしたが、この提案にはよろめきました。

どうするかと、3か月ほど熟慮しましたが、柏野社長に「ぜひ、やらしてください。」と告げたのです。

「日韓の架け橋」になる! とう言う人生のミッション!

ビビンバチェーンで日本では成しえなかった夢を今度は「韓国」で日本のヒットブランドを展開すると言う目標に換えたのです。

一度しかない人生「チャレンジ」すべき。と言う意志表明でした。

そしてRCP-KOREAと言う会社を サードクォーター、日本のRCP、甲羅グループ、そしそして私とサードクォーターの幹部で出資して立ち上げスタートとなったのです。

2015年も終わり掛けた頃でした。

韓国で私の勉強会に参加してくれていた若い人材を2人雇用し、彼らのアパートに居候しながら物件探し、物流の確保、韓国人に受け入れられるようなメニュー開発など始めました。

しかし、苦難の連続です。

まず、物件が中々見つかりません。

日本のヒットコンセプトです。目立つ好立地を探さなくてはなりません。

ソウルの一等地は保証金や家賃は東京並み。それに加え「権利金」と言う慣習があり、そこで営業をしている人が明け渡す権利を主張して支払う金額であり、超一等地だと保証金も合わせて物件取得費は5000万円くらい掛かります。2階や地下などでも3000万くらいになります。
とても手の出せる金額ではありませんでした。
物件取得費は1000万円位しか予算はありません。

そんな事が2,3カ月続きやっと次善の策で物件を見つけました。

商圏は良いものの立地はメインから1本入り200mほどで人通りが切れるあたりです。
建物も老朽化していましたが、保証金が1000万。権利金が200万ほどで取得でき日本式の居酒屋をしていた物件でした。うまく工事すれば居抜きで工事費は抑えられるかもという物件でした。

しかし、他の案件で韓国に来た「赤から本部」の甲羅の鈴木社長にお見せした所「?」

そして柏野社長に見せたところも「?」でした。

そして不動産業者が他の物件を見せ「現実の市勢」を説明しながらその商圏の1等立地を案内しましたが、3000万~5000万の壁は到底超える事が出来ませんでした。

結局、仕方なしに「ここでやってみろ」と言う事になりその物件を契約する事になり保証金+権利金+運転資金(社員の給料等)」で1600万を都合してもらい物件を取得したのです。

そして、本格的にオープン準備にかかるのですが。まだまだクリアーすべき事や難題が待ち構えていました。

まずは、営業許可を取る為には代表者の「事業者としての滞在ビザ」が必要です。
ビザが下りるまでは韓国国外には出られません。1か月以上滞在しなくてはいけません。
柏野社長が私に与えた使命は「日本のコンサル業務に穴をあけず韓国で赤からをする」
と言う事でしたので1か月以上留まるのは難しい状態でした。

そして何よりも大きな問題は柏野社長の体調が悪化した事。元々前立腺がんを患っていましたが投薬と定期的な通院で抑えていましたがそのがんが悪化し始めたのです。

加えて日本のRCPの業績がよく「赤から」の好物件が次々と出て来て出店が加速し韓国に回す資金が足りなくなったことです。

そんな中で柏野社長の気持ちが少しずつ変わって行きました。
最初は積極的に肩を押してくれましたが、私が物件取得に対しての難しさをちゃんと捉えていなかっ事や、営業許可を取得するのに必要な条件をちゃんと調べていなかったことなど経営者としてすべきことをちゃんと把握していない事に大きな不信感を抱いたのです。
その為に、韓国で「赤から」が成功する為の事業計画書をちゃんと作り、赤から本部の甲羅グループをちゃんと説得する材料を作れと言う使命を与えられました。

何回も、何回もダメ出しされました。その中でどんどん時間が過ぎて行きました。カラ家賃を支払う時期が来てもOKがでず、資金の調達が出来ずじまいで時間が過ぎるばかりでした。そのうちに柏野社長の体調が見る見るうちに悪くなり、私の日本のコンサルとしての仕事も穴をあけがちになり益々信頼を失って行きました。

結局、日本の仕事はやらず韓国に専念しろと言う事になり、ビザを申請して1か月韓国に滞在する事になりますが、その間に柏野社長に容体が急激に悪くなり、ビザ申請が下りた2016年 9月とうとう亡くなってしまったのです。

結局死ぬ間際まで資金送金の決済は下りずやむなく取得した物件を解約せざるを得ない状況に追い込まれたのです。

残ったのは1000万ほどの借金。送金して貰った金額の内、保証金の戻りを差し引いた金額です。(償却があるので全額は戻りませんでした。)
金銭消費契約書を交わして送金して貰った以上、RCP-KOREA代表として責任を取らなくてはいけない金額でした。

この事態に共に一生懸命やってきた社員にも愛想を尽かされ、デザインなどお願いしていた設計担当者、お世話になった不動産業者にも「営業せずに解約するとは何事だ」と散々文句を言われ、奈落の底に突き落とされた形でした。

何よりも日本の仕事も失ってしまった事が大きな痛手でした。

目の前が真っ暗になり約一カ月残務処理に追われましたが、ここから逆転劇が始まるのです。

その内容は次回にお話しする事にします。

「日韓の架け橋事業」はまだまだ続きます。

今回も長々とお付き合いいただきましてありがとうございます。

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