2(続き)つまりは目を覚まして、

あ~やらなきゃ、とか、やりたいことが一杯だね!と、いうことだ。

(*これはインスタントコーヒーという題で先日書いたnoteの続きです。)

だから、コーヒーを飲むわけなんだ。いつだかどこかで誰かが、コーヒーはインスタントのほうが目が覚める、何が入っているのか知らないが、覚醒作用はインスタントのほうが強く、仕事が大変で眠れないようなときはやっぱりインスタントではないかい、と言ってたのを思い出す。

微妙にだけど、それは正しいのではと共感したことが何度かある。

ちょっと言いたいのだが、世の中にはおそらく、コーヒーが即、劇的に効いてちょっと困っちゃうくらいの人と、飲んだところでほぼ効いていなく見えるが、じわじわと積み重なったカフェインがある日突然目に見えて効いてくる人と、いるのではないか。

自分は、後者である。もともと非常に強い眠気を持っている人間なので、コーヒーごときで眠気覚ましなどと笑止、と長年思ってきた。でも一応世間に流布している説によればコーヒーは目が覚めるんでしょ…と実際自分にはそんな効果ないからと諦め半分ながらも、でもちょっとくらい効果出てほしい、と都度思いながら飲むことを暫く、続けた。

結局、いつも通り起きていたいときには起きていられず、寝てしまうときは一瞬で寝てしまう、のだが、いつからか、寝入ってから3時間ばかりすると大変いやな動悸とともに突然、ぐわっと目が覚めるという、睡眠障害的効果が表れるようになった。

いやはっきり睡眠障害である。いやな動悸とセットでネガティヴ感情が一気に湧き上がりまくりの、深夜の、真っ暗時間の目覚めである。最低である。精神不安定の入口である。

それでも起きれたからよかった~、なんかしよう、と思って、やる…こともあるが、そのようにサクッと切り替えて虫のようにあっけらかんと行動できず、中途半端な覚醒と重たい頭と体と勝手に沸き起こったネガティヴ感情の渦を抱えてどんよりと無為に過ごしたことも多々ある。多々。

(*いや人間、「虫のように」、も大事である。虫をバカにしているのではないのだ。いや、虫はいろいろすごいと思う。でも虫の話ではないのでやめよう。)

コーヒーは劇的効果が即効で表れる人だけが、その時々に頑張りたいような機会において、楽しんだらいいのではないだろうか。「眠気覚ましに…」、という期待を裏切られない、って素敵なことだからね。

そもそもカフェインの取りすぎは決して心身に良いものではなく、またコーヒーは体を冷やし頭痛を引き起こす効果もある。そして頭痛が起きようものならその最中は物事への集中力が著しく阻害されてしまう。非生産的な一日、ともするとしょうもない失敗までしやたらあれこれが遠回りになってしまう。そんなどうしようもない一日…がやってくる。コーヒーは助けてくれないよ。むしろ、痛めつけて終わりかもしれない。自分の場合は、ろくなことが無かったのでは?と、書いていて思ってしまったw

だいたい、具合が悪い時コーヒーを飲みたいとは思わない。症状が悪化する気がする。

ここまで、コーヒーの覚醒効果についてのみ語ってきて、純粋に飲み物として美味しいからとか、香りを楽しむとか、そういった感覚面は無視してきた。コーヒーを使ったお菓子など、フレーバーとしてのコーヒーに魅力もあると思う一方で、コーヒーとかワインというものは大人になって飲んでみたところ幻滅した味覚でもあると思う。子供の頃、あの大人たちが飲んでいるあれは、どんなにか美味しいものであるに違いない、等と期待しすぎだったのだろう。うーむ、また脱線してきた。

要は、なんでなんでなんで…と変に不満だったことも、いや別に、ええやん?と思うようになり、むしろなるほどな、と理解さえ生まれてきた、という話でもあった。

要は、と言いつつ、具体例をはしょるので、なんだかわからないだろう。でも、いい。つまり、それほどに時間が大切で、他にやりたいことが、あった。重要と思えることを大事にしていたということだった、と思った。

私も、重要と思えることだけ、大事にしたい。長いか短いかしらないけど、やっぱりそんなに生きている時間は長くないのなら、たとえば、もう充分苦しんだ、と自分が思ったことに時間を使いたくない。なんであれ、「もう充分」ということをわざわざ文章化したいとも思わない。時間もエネルギーもただ減ってくだけの繰り返しだ。他に何がある。

まあとにかく、きっと今後も、インスタントコーヒーを進んで飲みたい、とは思わないだろう。ジンクスみたいなもので自分でも納得いかないが、やや不吉なアイテムだからだ。(*私にとってはということで、インスタントコーヒーを愛用すること一般に文句があるわけではないです)

それに、インスタントでなくともやっぱりコーヒーよりも紅茶のほうが好きだろう。でも、だからってコーヒー飲まないかというときっと普通に飲むんだろう。


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コーヒーはともかく、文章を書くということについて自分が思うことをちょっと書く。

noteをやっていていろんな人の文章を読んでいると、毎日書くということを自らに課し、本当に日々やっている方々を結構見かけるが、毎日投稿ってほんとにきついし大変と思う。偉業である。何よりタフだなあ、と思う。

ところでそれが自分だったら…。毎日投稿しようとは…思わない。たぶん、しばらくそういうことをやってみようと思わないだろう。なにかを言葉にしてネット上に上げるという行為は、毎日やりたいということではないから、一度投稿したら(先日つぶやいたように)1-2日くらいは間をあけたいと思う。書きたいというよりもむしろ、ちゃんと間をあけたい。そんな程度の間でも結構、すぐ書かなきゃいけなくなるのだし?1日おきなんてあっという間だから。なら毎日はどれだけ”やり続ける”感があることだろう。ずっと、ずーっと間をおかずやり続けている、そういう感覚だと思う。

それが苦じゃなきゃいいと思う。速く文章が書けるんならなおいいよね。私は文章を書くのは全く速くない。しかも、その書いたものを即誰でも読めるところに置く、ということは「苦」でもある。もちろんうれしいという気持ちもあるんだけど、苦、はどこかに存在する。

なんだろう、淡々と、自分の書く事だけを見つめて書いてのっけて終わり、にできたら違うかもしれないが、他の人の書いたものや作ったものも気になるし読みたい。そのためのnoteなんだろうし。ランダムに目につくものやフォローしている人たちの発信を読んでいくと、言葉に溺れていく感この上なくて、狂気を感じてくることがある。いろいろな人たちの言葉などに救われたり、笑えたり、感動したりもしながら、そうなのだ。

狂気という言い方が深刻すぎてアレなら、お酒を呑んでいて真剣に酩酊ゾーンに入るすれすれにいたり、境界線をひょいとまたいだりしているような感じか。人間、完全に酔い潰れたら使い物にならないように、ほどほどのところで離れよう、と思う。というか、離れたい。そしてそのほうが、自分は続けていける。

それに実際何かを書いていないとき、何かほかのことをしているときのほうが、言葉や書こうということも自然に出てきたりして楽しい。


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過去にあった感情でも、それはそれで意外と残っているんだ、と気づくことがある。思い出すかどうかだけなこともある。しかし、現在から見るとき、それらの感情をそのまま今も生きる…ということとは違う。それはいろんな理由から。プロセスがあった上での今の理解や、感情もあるからだ。

(過去から今を無理なく生き続ける感情も、また別にあるけれども。)

自分が生きているのは今このときの、何ともつかない、見慣れない新しい感情なのであり、新しい心の動きだ。過去の感情は、その時の思い込みだったり、その時の条件に縛られてそういう風にあるしかなかった、臨機応変でもなかった、その時、勘違い交じりに信じていたことから反応していた、自分の直観や警告として感じたことも信じきれなかった、などなど…

過去の感情は時に、よりエモーショナルに感じるが、それは、古い型をなぞっているから、よりわかりやすいだけかもしれない。まるでアートとおんなじだと思う。なじみ深いけれど古い感情の型、リアルではあまりないがドラマティックな感情、”お約束の檻”のなかの叫びや自虐癖、理屈に合わない自責癖などから、手を切って現在自分ではどう感じているかといったことに集中するのがいい。




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