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♪創作大賞参加お仕事小説 【ミディアムで 素敵ステーキ 我が歩み】

<あらすじ>
 
時は1977年春。
各々の志望校に合格できた15の春を祝うべく悪ガキ4人組が企てたのは、ナイフとフォークを使うステーキを食べに行くミッションだった。
珍妙な出で立ちで予約席に案内され舌鼓を乱れ打ちつつ、自分たちに対する黒服の応対に感動を覚えた秀樹。
その後別々の青春時代から社会人生活を過ごすなか、次第に価値観の違いが芽生えることで、互いの妙な距離感は大きくなるばかり。
学歴優先と終身雇用をよしとする雅夫たち3人に対し、なりたい自分探しを続ける秀樹。
職場環境に悩み、若くして夢を叶えたかと思えば一転、食って生きるためだけの仕事に汗を流す日々。
そんな彼の一大転機となったのが・・・・・・
 
(あらすじ総文字数=289)
  
 
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【ミディアムで 素敵ステーキ 我が歩み】


 
1-1
 
「今度は俺たちで稼いだお金で食べに来たいよな!」
多くのビジネスマンがいわゆるサービス残業未満を終え、ようやく帰路を急ぐ姿を見せ始める午後6時台。
すれ違う人の大半が条件反射的に振り返る、存在感ならぬ滑稽さを如何なく漂わせた満腹少年4人組は、この一言で完全に一致していた。
 
時は1977年3月下旬。
場所は街路樹の桜の蕾がおそらく膨らみ始めていたであろう、オフィスビルが立ち並ぶ交差点付近の歩道上。
口腔内に残る風味を懸命に反芻しながら、大人への階段の先に見据えた、次なる目標。
今振り返ればなんとも可愛らしくも、まだ大海を知る由もない自分たちにとって、大袈裟でなく『崇高』と表現できるテーマだった。
 
それぞれが第一志望の高校に無事合格できた安堵と期待と不安が、胸の中でチャンプルー状態の悪友4人組。
誰からともなく言い出した『俺たちのお祝い』は、ナイフとフォークを使う店でステーキを食べるという、あまりに果敢過ぎる挑戦だった。
自分たちのルーツと言えば、荒っぽいばかりで富裕層が見当たらぬ、古くからの長屋街。
当時女性の髪形として流行っていた『ミニバーグ』を食べ物だと信じ込み、美容室の前を行ったり来たりしていたのも、嘘のような本当の話。
そんな小さな世界から1歩踏み出そうというのだから、作戦会議は熱を帯びて当然だった。
 
「ネクタイ締めてスラックスに革靴履いて、そのうえ予約していなければ、ステーキ店には入れてもらえないらしいぞ」
正しい知識を与えてくれる存在も見当たらず、ましてやインターネット検索など概念も言葉も存在していなかった時代。
全員の頼りない知恵を総動員から大真面目に収集した情報に基づき、最終的に捻り出した結論がこれだった。
 
ならばと父親の革靴とネクタイを拝借から、ズボンとカッターシャツは制服で間に合わせるも、なぜかスタジャン姿が1名。
これぞ珍妙なる出で立ちも、これで当日の服装なる難関をクリアできたとご満悦。
校則で定められた髪型や制服のシルエットなど完全無視も、男同士の取り決めを破るわけにはいかなかった。
「他人さまに笑われるような、そんな恰好で出歩かないでおくれよ」
困り顔での母親のお叱りと懇願を振り切るように、我先にと集合場所へと集結。
その個性的以上に前衛的な出で立ちは、かなり以上のインパクトだった。
 
待ちに待ったスペシャルな記念日、いざ出陣の時。
電話帳で調べて恐る恐る予約の電話を入れた店の前に整列したのは、営業開始時間の午後5時少し前。
そこは今から思えば、単なる小さな洋食屋さん。
それでもき存在感抜群の木製扉を目の前に、暫し動けず直立不動の謎の軍団。
「遅刻してしまったら、食べさせてもらえないのでは?」
ジャンケンでいきなりチョキを出して負けた1名が、重厚な扉を開く重責を担うことに。
 
 
1-2
 
あくまで一組の予約客として終始丁寧に接客してくれる、黒服姿の痩身の男性がなんとも大人で頼もしかった。
その立ち振る舞いのひとつひとつが、秀樹の記憶に深く刻まれていった。
実は笑いを堪えていたに違いなくも、微塵も感じさせなかったのか、もしくは珍客一行にそれを察する余裕の欠片もなかったのか。
 
『予約席』の三文字すら感動的な、一番奥の壁際の席に案内されての着席段階で、全員が夢心地。
続いてこの日唯一予習していた通りの展開となった場面のみ、俄かに普段の元気を取り戻しての大合唱。
「ミディアムっ!」
流石の全員志望校合格水準の英語力を発揮から、少しずつ冷静さを取り戻して店内を見回しては、
「スゴイよな!?」
潜めたつもりの声が、それぞれの喉から漏れてしまう繰り返し。
 
そんな時間が瞬く間だと感じられるなか、ついに念願の料理が運ばれてきた。
アイコンタクトでナイフが右手を相互確認。
十分な素振り練習を重ねた成果をいよいよ発揮する時だと、若きマメ紳士擬きそれぞれの肩に、無用な力が入った。
ここでなにを思ったのか、これから食事するにもかかわらずベルトを締め直し始めた洋二は途中で我に返り、慌てて緩めるべくゴソゴソ。
絶妙の角度で慎重にミディアムに切り込んだつもりも、次の瞬間指先に伝わった手応えに戸惑い、それぞれの指先が震えていた。
細かく身体を揺らしつつ呼吸を合わせて口に運ぶ繰り返しの中、先に運ばれていたスープは出番を失ってしまい、冷めた状態で最後まで残ってしまった。
 
うまかった。
美味かった。
旨かった。
 
この日の感動の記憶を語る日本語表現は、以上がすべてだった。
何度もお礼を伝えるべく、少し前に流行っていた水飲み鳥のオモチャみたく、ひたすらお辞儀を繰り返す少年たち。
そんな彼らに対し、黒服は一貫してプロの対応を崩さなかった。
 
義明のブレザーには、紙製のエプロンから飛び出したステーキソースがべったり。
馬主になったかのように「うまかった」がリフレイン状態の洋二の頬にも、直前までの格闘の痕跡が確かめられた。
仲間内で一番大人しく常識人っぽい雅夫は、無言でこの日の感動と旨味を噛み締めていた。
 
「それにしてもあの黒服の人、カッコ良かったな」
仲間を振り返った秀樹と偶然目が合ってしまったハイヒールの女性は、条件反射的に片手で口元を隠すもその表情は・・・・・・


2-1

含み笑いを堪える少し手前で、広いスタンドに点在する白いカッターシャツたちの動きに従ってみた。
グラウンドでは両チームの全力疾走もあり、プロ野球の数倍の速度で攻守交替が完了しようとしていた。

「凹凸工業の海山さま。会社までお電話ください」
テレビカメラの望遠レンズで射抜かれた不幸な御仁を単独指名の、ウグイス嬢の美声が響いた。
営業用カバンで顔を隠す男たちから少し離れた場所では、若いアベック……もといカップルが、いわゆる愛の相互確認作業中。
民放局の中継では画面に登場したアニメキャラが、そろそろジャンケンを終えた頃だろうか。

1985年、夏空の下の阪神甲子園球場、大会2日目。
やれ肖像権だの個人情報などと、世間が声高に連呼する令和の時代など想像もつかなかった、昭和50年代。
自らが熱心な高校野球ファンでもないことは、無料開放の外野スタンドに隠れるように陣取る、その他大勢とおそらく一緒だろう。
勤務時間中なる現実から逃げ場を求めるように、昨年の夏に続いて今年もまた、灼熱のスタンドに腰を下ろす午後。

中村秀樹22歳。
地域密着で展開する音楽教室の教室管理兼営業担当3年目。
入社早々から優秀な挙績を表彰される、経営母体である楽器メーカー期待の新星。
「辞めるのか続けるのか、今月中には結論を出さなきゃ」
これまでの人生最大ともいえるこの二択を急ぐには、それなりの理由があった。


2-2

町工場と戦前からの戸建て住宅と大規模集合住宅がランダムに共存するエリアが、秀樹の営業担当地区だった。
古びた地元商店街を抜けた少し先の勤務先は、通りに面した小さなショールームと、その奥が営業事務所。
上階のスタジオへ続く階段は急角度かつ狭く、とても機材の出し入れを考えた設計とは思えなかった。

30代半ばの肩書だけ課長以下数名の先輩背広組はいずれも、これぞ余剰人員集団。
経営側にとってお荷物どころか切り捨ててしまいたい営業所であることは、若き秀樹にもほどなく察せられていた。

普段は始業時間すら曖昧で、定められた朝礼も形ばかりどころか、省略も茶飯事。
覇気のない先輩たちは我先にと事務所を逃げ出し、向かう先はそれぞれが常連を越えて皆勤賞レベルの漫画喫茶。
秀樹も最初こそ半ば強引に付き合わされる日々を過ごすも、モーニングからそのままランチタイムに突入が当たり前。
苦手な煙草の臭いの中での軟禁状態は、大袈裟でなく拷問だった。

なにより一人暮らし秀樹にとって、このような無意味な浪費は死活問題。
金銭事情を正直に伝えて同行を辞退すれば、その回数分以上に職場内の居場所に窮し始めてしまう展開も、
「これも実社会の洗礼ってヤツだろうな」
元来一匹狼的な性格だったこともあり、自らの足を引っ張るかのような先輩上司たちとは、早い段階から一線を引き始めていた。

そんな総勢僅か8名の営業所、秀樹より数ヵ月前に入社した同い年の女性スタッフもまた、理不尽な洗礼を受けているようだった。
朝礼直後から始まる朝のスタジオやトイレ掃除を全部押しつけられ、その間先輩女子2人組は事務所でお喋りタイム。
「女子の世界が怖いのは、学生時代の教室内と一緒だな」
入社から数週間の時点で、秀樹は実社会の得体の知れない奥深さに、ある意味妙な感心を覚え初めていた。

一向に仕事のイロハすら教えてもらえる気配すらなく、
「せめて掃除でも手伝うかな?」
ほどなく女性週刊誌レベルの噂話が尾ひれを大きくするも、動じる気配すら見せず、
「毎日ありがとうございます!助かります!」
美咲の明るい声に、秀樹は早くもこの職場に対して腰が引け始めていた自身が恥ずかしく、次のひと言が咄嗟に声にならなかった。


2-3

秀樹が命じられた仕事は、基本ドアノックで個人宅を訪問する、いわゆる飛び込み営業。
令和の時代では実質不可能なこの古典的スタイルで、
「ピアノや電子オルガンを売ってノルマを達成せよ!」
さすがにこれは非効率的以前に無茶の極みなので、
「音楽教室に遊びにいらっしゃいませんか?楽器なんて無くても楽しめますよ」
園児や児童をターゲットにまずは生徒に引っ張り込めば、ここから掌返し。

この二段構成で保護者を精神的雪隠詰めにする、机上の論理としては練り上げたつもりの手法も、やはり甘くないのが世の中。
なにしろ営業部隊がこの体たらく、見込客は繁華街の大きな他店に逃げていくばかり。
稀に生徒宅から購入希望の相談が届こうものなら、そこから先に露呈するのは、これぞ人間の醜さ合戦。
同僚の机上に残された大切な顧客からの伝言メモを、周囲の目を盗んで破り捨ててしまう暴挙も横行していた。

「やっぱり信用できるのは芝田さんだけだな」
固定電話とメモ書きが最速伝達手段だった時代、秀樹は彼女にこんなお願いを。
「手間をかけて申し訳ないけど、俺宛の伝言はメモにして机に残さず、そっと教えてくれるかな?」
この一手がその後さまざまな場面で自身を救うこととなる、あまりに歪んだ職場環境だった。


2-4

「俺の部屋にも保険のセールスや宗教関連の勧誘が来るけど、みんな肝が据わっているよな……」
上司から命令されたわけでもなく、自ら始めた飛び込み営業活動。
倉庫に山積された音楽教室募集用のチラシが変色する前にと始めた理由は、秀樹にとってシンプルかつ切実だった。

「俺には朝から晩まで喫茶店をハシゴできるだけの金が無いんだ!」
美咲と手分けしてスタジオの掃除を終えるのは、大体正午近く。
意地悪でランチタイムを与えてもらえない彼女に代わり、自主的に受付係を引き受け終えた昼過ぎからは、基本フリー状態。
「土地勘を養う意味でも、本来やるべき仕事をやってみるかな」
セールストークどころか書類の記入や処理方法すらも教えてもらえぬままの、完全なる我流だった。

人生初の飛び込み営業、突然の招かざる訪問者への対応は想像以上に厳しかった。

ドアを開ければ反社会的勢力の若い衆の寝床で、刃物の切っ先を向けられたこと。
不幸な事故でお孫さんを亡くされた直後の祖父母宅を訪れてしまい、熱湯入りの湯呑みが飛んできたこと。
過去の先輩同僚の非礼に対し、ご主人から延々怒鳴られ続けたこと。
他国籍のお宅に強引に招き入れられ、床に片立膝の姿勢でなぜか珈琲をご馳走になったこと。
暇を持て余す若妻らしき女性から、いわゆる色仕掛けが届きかけて・・・・・・

回数を重ねるごとに不安が増すと同時に、
「次のドアを開けば何が待っているのかな?」
そんな好奇心を無理矢理ひねり出すことで自らを鼓舞すれば、訪問件数も自然と右肩上がり。
すると大数の法則に従うかのように、偶然の産物でポツリポツリと成果が出始めることに。
愚直一本鎗だったドアノックも試行錯誤を重ねることで、自分流が確立されつつあった。

さらには嘘八百の営業日報の記載に四苦八苦の先輩同僚とは違い、ありのままをサラサラ。
それがまた面白くない課長もこれにはグウの音も出せず、結果理不尽な風当たりが増すばかり。
それでも流した汗は嘘をつかないのが実社会。
『下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる』なる諺よろしく、秀樹は堅実に挙績を叩き出せる営業マンへと成長しつつあった。

 
2-5

大騒ぎの本部経営陣と、苦虫を潰す気力も見当たらぬほどに茫然自失の課長以下一同。
そのコントラストを強引に比喩するなら、たとえば鍵盤の白鍵と黒鍵のような?

「グランドピアノの成約が取れそうですが、ここから先どうしていいのかわからず、上司たちにも指示を仰げないので・・・・・・」
秀樹が本部に助けを求めた商談は、令和の貨幣価値であればゼロが6つどころか7つ並ぶであろう、最上級の特注グランドピアノだった。
しかもこの時点で秀樹は、訪問販売時には一定範囲内の値引きが許されていることすらも知らず、定価で話をまとめつつあったから、さあ大変。

本部から責任者クラスが駆けつけ、本来であれば落札レベルの高額商談が一気に成立したから、またまた大変以上に。
「か、彼のひ、日々のぢ、地道な仕事振りを見ていて、こ、この日がく、来ると信じていました」
なんとも表現に窮する言葉選びと棒読み口調で上層部に答える課長と、無理矢理の作り笑顔で渋々拍手を続ける先輩たち。
「な、何だ?・・・・・・俺、なにかやらかしてしまったのかな?」
戸惑うばかりの秀樹はこの時、まだ入社からわずか4ヵ月目。
この小さな職域のトップランナーに躍り出ただけでなく、本部からも注目される人材となった瞬間だった。

 
2-6

正常とされる職域であれば、すべての歯車が放っておいても噛み合い、滑らかに回り続けて当然だった。
普段は姿を見せない仏頂面の大人たちとは違い、常に自分たちの行動圏内で見かける秀樹は、町の人たちにとって身近な存在。
生徒たちからテレビのおにいさんのように慕われれば、保護者からの信頼度も自ずとアップ。
美咲経由で電話連絡を確認から営業用自転車を駆る毎日を数えれば、挙績グラフは無理なく独走態勢に。

それでもこの職場に限らず、出る釘は打たれる前に錆びさせようとするのが、周囲に無数にうごめく砂鉄たち。
人間の集団心理の恐ろしさなのか、ふたりに対する理不尽な風当たりは、いよいよノンブレーキ状態へと。
それでも可愛い生徒たちと保護者からの信頼に応えるべく、どうにか笑顔の営業マンを演じ続けるも、
「ヤバイぞ!?このままでは衝動的に手が出てしまうかも……」
 
幼い頃から祖父母に育てられ、今はいわゆる天涯孤独とされる人生、有事に頼り甘えられる家族は見当たらなかった。
失職イコール経済社会では生きて行けない現実を思えば、一時の感情に任せた言動には及べなかった。
「それに俺が辞めてしまったら、美咲はどうなるんだ?」
これまで生きるのに精一杯で恋愛経験は謙虚な自分自身が、今更ながらに歯痒かった。


2-7

球場からの帰路立ち寄った、勤務先からほど近いスーパーのトイレへと続く通路の掲示板が、この日に限ってふと目に止まった。

『ゆずります』
『ゆずってください』

見ればかなり以上にふざけたというか、お下劣な内容の掲示も混じっていた。
「キ◆タマ500個ゆずってください、って、もらってどうするんだよ!?」
無意識のうちに備え付けの用紙を手に、秀樹はこんなふうに綴り始めていた。

『ゆずります:今日までの仕事環境』
『ゆずってください』は上手く文章にならず、結局白紙のままで。

周囲の視線を伺いつつ、無記名の2枚を素早く貼りだすことができた。

「貴重なスペースをごめんなさい」
小声の独り言から軽く頭を下げ、踵を返して今一度こんなふうに。
「ご迷惑だったら剥がしてくださいね」
翌日の朝礼時に勝負に出ると、この時点で心に決めていた。


2-8

「退職届とは何だ!?退職願と書け!」
目の上のタンコブが退社することに胸を撫で下ろしつつも、自分の仕事が必然的に増えることに気づいた課長が声を荒げるも、
「ご心配には及びません。本部には退職願を郵送してありますから」
毅然と言い返すと同時に一礼から、壁のボードの外出先欄に『甲子園球場』と書き殴り、
「今日の朝礼はこれで終わりですよね?じゃあ、行ってきます!」
めずらしく遅刻なのか、美咲の姿が見当たらないこのシチュエーションに、心の中でそっと手を合わせていた。


2-9

「こ、こ、ここで何やってるの?」
改札口の券売機前には、満面の笑顔で手を振る美咲の姿が。
「はい!これ!」
駆け寄る秀樹に差し出されたのは、前日貼り出したはずの2枚の用紙だった。

『ゆずります:今日までの仕事環境』

「こ、こ、これは!?……」
「こんなの欲しがる人は誰もいませんよ!」
目の前で破り捨てたかと思えば、続いて意を決したかのような表情で、

『ゆずってください:中村さんの隣!芝田美咲』

俄には美咲の真意が察せられず、
「こ、こ、こっちも剥がしてきちゃったの?」
あまりの的外れた一言に、
「昨日お茶が切れて買いに走った時、偶然見かけちゃったから……だったら私も勝負を賭けよう、ってね」
「へ?・・・・・・は?・・・・・・」
「それより早く甲子園に連れて行ってよ!私、知ってたんだからね!あそこの中辛カレー、メチャ美味しいんだよ!」
「そ、それより仕事はどうするの?無断欠勤はヤバいよ!?ク、クビになったら取り返しがつかないよ!」
「しーらないっ!きゃはははっ!」

なるようになるさ。
なんとかできるさ。
君がいてくれるなら。

1984年8月、予定表白紙の新しい生活の始まり。
俺の甲子園を目指すには、まだ遅くはないさ。
今この瞬間から、俺はなりたかった俺自身を目指すんだ!

 

3-1
 
ホール係のおばちゃんだけでなく、厨房内でフライパン片手の男性までもが調理の手を止め、耳はダンボで目は点以上。
「スミマセン。こいつ今、宇宙人と交信しながら地球を守っているんです。こら!少しは声を落とせ!」
据え付けられた公衆電話を占拠から、市販の外国語教材の音源では聞くことができない音声を、大声で発し続ける雅夫。
悪友として彼の人生をそれなりに知る秀樹だからこそ、受話器の向こうが近隣某大国の人物だと察せられるも、周囲の反応は至極当然だった。
 
平日の昼下がり、場所は夕刻以降や休日は若者たちで賑わう、ターミナルから微妙に離れた繁華街の一角。
利権などの諸事情が絡んでいるのか今も奇跡的に存続し続ける、昭和30年代で時が止まったかのような、小さな食堂。
経年劣化が顕著以上のかなり軋む狭い階段を上がった2階席。
その窓越し数百メートル先には、十五の春に人生初のステーキとの遭遇を果たしたあの店が見えるはずだった。
しかしながら昭和から平成と流れた歳月はあくまでドライ。
次々と立ち並んだ新しい建物に目隠しされ、そちら方向のわずかな空さえ確かめられなかった。
 
時は1992年師走。
旧ピッチで進められた都市開発で、当時のあの一角は跡形を探すのにも一苦労。
巨大な高級ホテルの雄姿から伸びた長い影が、この食堂付近に一足早い夕暮れを届けていた。
 
「これぞ日本だよ!秀樹!悪いけどこれから先のオマエとの酌み交わし、毎回ここで構わないか!?」
30歳目前で異業種に転職したのを機に、生活の大半を海外での単身赴任で過ごす中、いつしか海外での起業を目論み始めた雅夫。
ある意味独り善がり過ぎるその生き方は、結婚数年目の彼の奥さんだけでなく、両家の家族間にも深い溝を広げてしまい、終ぞ修復は叶わなかった。
財産のほとんどを妻と幼い一人娘に譲渡する形での離婚から、孤軍奮闘数年。
この日も恒例と化した、野郎同士の駆け足再会タイム。
かつて仲間内で一番内気で常識人だった彼の変貌に、秀樹は毎回驚かされるばかりだった。
 
「悪いけど飲んで待っていてくれ。外から電話して話をつけてくる」
どうやら現地の部下に留守を任せての一時帰国中、予期せぬトラブル発生らしかった。
こうした展開は時と場所を選ばないのは万国共通らしいと、黙って頷いた。
目の前には勢いに任せて雅夫が並べた、本来はランチのおかずの小皿が数品と瓶ビールが数本。
「しかたないな・・・・・・」
最初から生温かった中身を綺麗とは程遠いガラスコップに手酌しつつ、秀樹は数年前のある光景を思い出していた。

 
3-2
 
雅夫を始めとした3人は、それぞれ有名大学経由で上場企業に新卒就職。
一方でプロミュージシャンを目指すべく、進学も就職もしない人生を選んだ秀樹。
祖父母に高校まで出してもらった経済事情を鑑みるまでもなく、これ一択だった。
齢18にして進む道を大きく違えた悪友三人組とは自ずと疎遠となるも、誰の音頭取りだったかは曖昧ながら、十数年振りに会することに。
 
時は世の中がバブル絶頂期の余韻をまだまだ引き摺っていた、1990年代初頭。
それぞれが三十路に突入していた。
 
「我が社は業績好調なのに賞与が渋くってさ」
「それより我が社の躍進振りを聞いてくれよ」
「我が社は今度某社と業務提携してね」
学生時代の思い出話や個人の夢を語る言葉は欠片も見当たらず、次の店へと向かう道中、秀樹はポツリと1人離れて歩を進めていた。
「我が社、ってのはさ、社長や役員など、経営陣が自社を語る言葉だろ?そうやって得意気に口にしているのが、俺にはイマイチわからないな」
「あーはいはい!ヒデキさんだけはちっとも変わらない自由人で楽しそうですね!俺たちサラリーマンより羽振りも良さそうだし、女にもモテモテでしょうしね!」
酒の勢いもあったのだろう。
店を移して再度の乾杯から程無くの、売り言葉に買い言葉的な義明のこの一言で、なんとも中途半端な散会となってしまったあの日。
 
「悪い悪いっ!バッチリ話つけてきたから、今度こそ腰を据えようぜ」
息を切らせて急な階段をドタドタと駆け上がってきたのは、雅夫のこの後の予定から逆算すれば、そろそろお暇せねばならない時間だった。
「それにしても現地語での口論や複雑な交渉をこなすなんて、やっぱコイツは凄いな」
あらためて感心しつつも、一昨年には坊主頭で待ち合わせ場所に現れ、
「髪の毛1センチだけ切って揃えてくれ、って言ったつもりが、1センチだけ残して刈り取られてしまって、このザマだよ」
大爆笑のワンシーンが思い出された。
 
ほとんどの時間が酌み交わしならぬ手酌タイムをお開きから、最寄り駅を目指し、並んで歩を進める。
「あの時怒っていたよな。我が社はァ、ってのは・・・・・・こうして転職して海外を飛び回って、ようやく理解できたよ」
毎回雅夫がこの一言をポツリと呟くのは、決まって改札口が視界内に入り始めるタイミングだった。
 
怒ってなんかいなかったさ。
それぞれが生きる世界を思えば、あの日はただ、俺だけが異次元人だった、ってことだろうしさ。
 
毎回同様振り返りもせず、速足で自動改札を通過して、わずかな時差の空の向こうへ『行く』のではなく『戻って』いく雅夫。
「また連絡するから」
雑踏のざわめきの中かろうじて届いた声を、背中を向けたまま鼓膜に確かめ、ふっと表情を緩めて歩を進めようとしたその時だった。
「あの……もしかしてヒデキさんですか?サイン……それから握手と写真もご一緒、お願いできますか?」
 
バブル崩壊との囁きが日々現実味を濃くし続けたこの時期、秀樹自身も音楽に携わって食べていくことが難しい現実と、日々対峙を続けていた。
「年齢的にも三十代半ばで、きちんとした会社勤めは未経験。ここから俺はどう生きるべきなのだろう?」
宇宙人との交信タイムが長引かなければ思い切って相談したかったこの不安を、この日もそっと胸にしまっての帰路。
 
「実は俺、もう日本に住民票も無いしサ」
海の向こうに骨を埋める覚悟をサラリと口にした、数時間前の雅夫の表情と口調が蘇った。 


4-1

碁盤上とは微妙に違う角度で交差する道路を直角曲がりのつもりを、ここまですでに複数回。
今度は赤錆やペンキが付着して前衛芸術と化した、車2台がどうにかすれ違える道路に出た。
その左右には古い小規模な工場がイレギュラーに、軒ならぬ幌を連ねているも、看板どころか表札を掲げている建物はゼロ。
それならばと電柱に目をやるも、番地を記した表示板すら見当たらなかった。

目的地を一軒一軒確かめるべく、速度を落としてふたたび歩を進め始めたその時だった。
背後から急接近したトラックが急減速から、一気に目の前の建物前に荒っぽく横付けた。
折り畳んだ段ボール箱を片手に降りてきた男性は、吐き捨てるかのように大声で何かを訴えながら、中へと歩を進めている。
礼儀を踏まえたつもりのスーツ姿が鼻についてしまうのではと、不安が一気に確信に変わってしまった。
奥では怒りが収まらぬらしい甲高い声が機械の騒音に負けまいと、不協和音を奏でている。

「ごめんください。お仕事中失礼します!」
ひと回り上の年齢と思われる長身の男性の姿が、最初に視界内に入った。
広い金属製の作業台の上で寝転がった姿勢のまま、チラリとこちらを一瞥するその表情は、これぞ不機嫌の塊だった。
わずかな睨み合い未満に続き、直前まで読んでいたらしい漫画週刊誌を枕に、面倒くさそうに背を向けてしまった。

そんな居心地の悪い時間が数十秒経過したタイミングだった。
奥から五十代と映る男性が、足下に散乱する膨大な紙材の切れ端の山に足を取られぬよう、大股歩きで近づいてきた。
「セールスなら要らないよ」
決して邪険な門前払いではないその口調に、間違われたことよりも安堵感を覚えた秀樹は、少し慌て気味に切り出した。
「こ、こちらの社長さんから面接に呼ばれました、な、中村と申します。午後2時に伺うようにと……」

有料の求人情報誌上の募集告知を目にして履歴書を送付するも、ご丁寧に返送されたのは、またしてもの不採用の三文字。
ところがそれから数日後に一転、
「まだウチに興味があるなら、一度現場を見に来てくれるか?」
社長を名乗る男性からの突然の電話連絡に、断る理由などなかった。

こうして訪れた応募先の最寄り駅は、ターミナルからほど近い、普通電車しか停車しない小さな駅。
これまで数え切れないほど車窓越しに見送り続けていた、接点皆無のエリアへの入口だった。

「そうでしたか……それは失礼しましたな」
俄かに低姿勢に転じて詫びを伝えてくれたその男性の真摯な対応に、大袈裟でなく心中救われた気分だった。
それでも社長を呼んでくれる気配もなく、片手に握っていた茶色の小瓶の中身を一口喉に流し込んだ。
この男性が操作していたであろう、奥の大きな機械が止まっているからなのだろう。
次の瞬間、工場内に流れているラジオが告げた午後2時の時報が、不必要なほど大音量に感じられた。
これすなわち社長からすれば、応募者が遅刻したこととなった瞬間だった。

「やっぱり縁がなかったみたいだな」
ここまでの短い滞在だけでも、色々な意味で半端ではない職場であることは、歴然たる事実。
この仕事が未経験の秀樹にとっては、相撲部屋の新弟子状態が待っているのが明白だった。
それでもようやく頸が据わり始めた乳飲み子を抱える一家の主として、家族を養わねばならない現実。
まだ見ぬ明日に怯む前に、まずは仕事先の確保が絶対命題だった。

「やあ、待っていましたよ」
階段を下りながら声をかけてくれたのは、還暦過ぎと映るポロシャツ姿の痩身の男性だった。
階下の作業場とは別世界の人種のような、静かで柔和な第一印象の社長に、
「すまんすまん。ワシが引きとめてしまったから、この人は遅刻じゃないから」
空になった茶色の小瓶をズボンの背中側に差し込み、シャツで覆い隠していた。
滑稽な仕草で心遣いを声にしたその男性は微妙な笑みを浮かべると、そのまま後ろ歩きで持ち場へと戻って行った。


4-2

「君の前に雇った若いのは数日で逃げて、次のやつは翌日の朝から来なくなってな・・・・・・どう?続けられそうかな?」
決して広くはない薄暗い工場内を簡単に案内からの、あまりに直球過ぎるこの問いかけに、
「喰らいついてみせます」
劣悪の二文字が大袈裟ではない作業環境を目の前に、大丈夫でも頑張るでもないこの一言を、秀樹は一切の躊躇なく声にしていた。

「ところでズバリ、いくら欲しい?」
「は?」
「給料だよ。そっちにもいろいろ都合があるだろ?希望する金額を聞かせてもらえないかな?」
当然少しでも多い方が良いに決まっているも、この業界の相場がわからず答えに窮してしまい、
「正直自分がここでどれだけ役に立てるか、見当がつきません。まずは私の働きぶりを査定いただけませんか?」
大急ぎで考えて導き出したこの一言は、決して優等生的発言を意識したのもではなく、唯一責任が持てそうな答えだった。

「じゃあ区切りのいいところで、週明けの月曜日から来てくれ。朝8時から操業だから、そこのところよろしくお願いしますね」
どこの方言だろうか、地元とは微妙以上に違うイントネーションと不自然に丁寧な語尾が耳に残り、離れなくなってしまった。
それでも笑ってしまうわけにはいかず、悟られぬように顎を引き奥歯を噛み締め、その場を凌げたと思った瞬間だった。

「とうちゃんっ!」
声の主の作業台に寝そべっていた男性がそう呼んだ相手は、他ならぬ目の前の社長だった。
「息子さんなのかな?ははあ・・・・・・二代目のどうしようもないボンボンだから、こんな勤務態度なんだな。こりゃ厄介そうだし、他の先輩たちも大変だろうな」
そんな邪推を遮るかのように、
「おおっ!吉やんっ。どうした?具合でも悪いのか?」
過保護溺愛寵愛を超えた社長の一言に、本当の父子関係ではなさそうだと、戸惑う直也の存在などそっちのけ。
慌てるように歩み寄る社長の背中に、黙って一礼から踵を返そうとしたその時、真後ろに誰かの気配を感じた。

振り向けばそこには、小さな茶色の瓶を二本携えた、先ほどの男性の柔和な笑顔が。
「入社おめでとう。俺、一応工場長の前川。しばらくは俺について色々覚えてもらうから。まずは歓迎の杯。ほれっ」
表面上には幾分汗が残るも、既に工場内の熱気で生温くなってしまった、黄色いラベルの見慣れぬ飲み物。
それは一時期暮らしていた関東で初めて目にした、アルコール飲料の一種だった。
「昼間から酒飲みながら機械を動かしているのか……こりゃ労災云々とかは一切無視だろうな」
週明けからの自分自身にガソリンを注ぎ込むように、受け取った一本の中身を、一呼吸置いてから一気に喉に流し込んだ。

中村秀樹一児の父。
妻子を連れて移り住んだ自身が生まれ育った下町から、各駅停車で所要時間十数分のこの場所でようやく決まった仕事。
曜日も昼夜も関係なく、若さに任せて夢を追い駆け続けたそれまでの暮らしとは真逆の新生活が、ここから始まることに。

「それよりさっきのトラックの運転手の人と、前川って工場長、ふたりともどこかで会ったことがあるような・・・・・・まっ、いいか」
貨物線沿いに徒歩数分の高架駅へと向かう途上、直也はさっきまでの出来事を振り返りつつ、ふとこんなことを思い浮かべていた。

時は1994年9月下旬。
いよいよバブル崩壊が誤魔化せなくなり始めるなか、世の中は直近の数年間の麻痺した感覚を、未だ疑いなく引きずり続けていた。  


4-3

「こらァ!ボケ!カス!テメエは数も数えられへんのかいっ!?」
容赦ない怒声の主は、完成した段ボール製品を取引先へ運ぶ、面接当日最初に見かけたドライバーの安西。
令和の時代ならパワハラだと大問題確実の、頭を叩き尻を蹴り上げるなどが茶飯事の罵倒が、連日フルスロットル。
午前中4時間ノンストップの慣れない見習い作業から、ようやく一時間の昼休憩。
しかしながら秀樹には、工場内に身体を休められるスペースは見当たらなかった。
午後の作業途中に十分程度の小休止を挟み、夕方5時まで続く肉体労働。
朦朧とする意識のため、折り畳まれたダンボール箱を決められた枚数で束ねられず、ケアレスミス連発だった。
これにすかさず安西の表向き熱血指導が追い打ちをかける……すべてがこの調子だった。

「これじゃいくら体力に自信があったとしても、新人が次々と逃げ出して当然だな」
どうやらひとつ立ち回りを誤ると、居場所どころかこの仕事までも理不尽に失ってしまうとの直感から、秀樹はある決意を実践していた。
「貝になりたい、って映画があったけれど、ここでは自ら貝になるのが得策だな」
元来は陽気で人一倍饒舌だったが、この職場内で発する言葉は必要最小限の身と心に決め、密かに実行を続けていた。

「おはようございます」「はい」「すみません」「ありがとうございます」「失礼します」
基本これらだけで事足りていることが、呆れながらも可笑し哀しかった。
「人生でこれだけ毎日黙っている時間が長いのも、これぞ予期せぬ初体験かも?」
濁り切った空気感の中、真一文字に口を閉ざしての鼻呼吸が続く毎日。
「人間って凄いな・・・・・・鼻毛が伸びる伸びる」
結果的に自らの健康を守ることになっているのだろうと、妙に感心しきりだった。

 
4-4

「秋入社は神様が味方してくれたみたいだな」
いきなり夏場だったら、倒れても救急車どころか、段ボール紙と一緒に切り刻まれて廃棄処分でも不思議ではない、恐るべき職場環境。
風通しも空調機器も一切見当たらない作業場は、秋本番でもシャツ1枚で汗が滴り落ちる蒸し風呂状態。

さらに先輩諸氏は誰も忠告してくれず、半袖で大量の原紙を抱え上げた瞬間腕の静脈を切ってしまい、想定外の大流血。
「こらァ!材料汚したら給料から差っ引かれるぞ!」
救急箱を差し出してくれるどころか、流れ作業の手を止めてくれる素振りもなく、機械音を切り裂くような安西の怒声が響いただけだった。
仕方なく持ち合わせのティッシュペーパーを重ね、足下に転がっていたガムテープで固定から、上階の社長室に謝りに行ってみれば、
「労災申請とか、そんな面倒を起こされては困るんだ。気をつけてくれよ」
この懇願交じりのひと言が、唯一思いやりらしき単語が含まれた言葉だった。

発見と戸惑いと疑問が、時と場面を選ばず大盤振る舞いの毎日。
それでも秀樹は少しずつ、この職場で自身の居場所を確保するノウハウを掴み始めていた。
入社時には一切希望を伝えなかった給料も、
「こんなに大盤振る舞いいただいて構わないのかな?」
危険度の高い重労働の対価としては適正額なのかも知れず、それでもまだ見習いレベルの自身には過分なる金額。
「身体がパンクするまで向こう五年間しがみつけたなら、子どもも小学校入学だ。できるだけお金を貯めたなら、そこから勝負できるかもしれないぞ」
そんな漠然とした近未来のライフプランもまた、日々頑張り続けられる大きな原動力だった。


4-5

そんな一方でどうしても理解できないふたつの難題が、直也の心の中に暗い影を落とし続けていた。
そのうちのひとつが、時と場所を選ばず安西から強制される、行き交う若い女性へのお下劣な冷やかしと口笛だった。
「いよおおおおっ!そこのオネエサンっ!ヒューヒューっ!」
走行中のトラックの窓を開けてだけならまだしも、作業中の工場前でもこの調子。
「おらァ!オマエもやらんかいっ!」
容赦なく頭を叩き蹴りを入れながらの理不尽命令は、勢いを増すばかり。
時代が十数年遅かったなら確実に大問題も工場長の助け舟はなく、秀樹のストレスは大きくなるばかりだった。

それよりさらに厄介だったのが、自分より1歳だけ年上の吉田の、常識の欠片すら見当たらぬ傍若無人ぶりだった。
彼だけが特別に、朝の出勤時間が1時間遅い午前九時なのに加え、帰宅時間も自由と、これだけで十分意味不明だった。
それなりの値段なのが一目でわかるスーツ姿で大名出勤。
到着後は社長室でゆっくり着替え終えると、作業場で寝転がっての読書タイム。
さらには作業中の秀樹の足を引っかけて転倒させては、小声で何かを吐き捨てる嫌がらせがエンドレス。
人間の心を持ち合わせていないかのような吉田の憎たらしい以上の表情には、大袈裟でなく殺意を覚える手前状態へと。

 「吉田の野郎の慇懃無礼は、会社にとっても是正すべきじゃないのか!?」
クビを覚悟で殴りかかってやろうと腹を括った回数は、数えるのも面倒なほどに膨れ上がる一方も、
「あんな◆◆は気にするなよ」
それを見計らったかのような絶妙のタイミングで届けられる工場長の声掛けに、どうにか我に帰る繰り返しだった。


4-6

「あんなクソ野郎なんかと一緒に呑めるか!」
安西の過剰なまでの大声は、秀樹に聞かせる意図が露骨だった。
毎年恒例の忘年会とは形ばかりで、実際には社長と吉田の独壇場だと聞かされていた。
工場長の前川は一応大人の対応で同席するも、なんらかの理由をつけて、遅れて合流するとのことだった。
「自分は新米ですし、社長に出席を指示された以上は同席させていただきます」
ところがこれが結果、とある小さな事件未満の引き金となってしまった。

当日夕刻、外は平年の気温を大きく下回る霙空。
現地集合の古い鍋物屋に到着から傘を閉じていると、
「入るな!とうちゃんと一緒なんて百年早い!」
中から届いた吉田の機械的な棒読み怒声未満は、これだけでは終わらなかった。
「新人は外で立ってろ!傘を開くな!とうちゃん!とうちゃん!・・・・・・」
嫌々鍋を囲む針のムシロを思えば、数時間突っ立っていれば帰れるのだから、これも仕事の一貫だろうと、軒先に居場所を探すことに。
どうにか濡れずに済みそうな数十センチ四方の立ち位置を確かめたその時だった。

「可哀想に・・・・・・お兄さんも大変やね」
個室に陣取る社長と吉田の目を盗むように声をかけてくれたのは、この店のおかみさんだろうか。
「社長さんも悪い人じゃないんだけど、あのお兄さんのこととなると・・・・・・何もしてあげられなくてごめんなさいね」
自分の前の新人たちも、軒並みこの洗礼を受けていたのだろう。
腹立たしさよりも呆れと妙に納得しつつ、
「いえいえ。自分は大丈夫ですからお気遣いなく。それよりここに突っ立っていて、営業妨害になりませんか?」

それにしても冷えると小便が近くなると、直也は周囲をキョロキョロ。
すると天の助けとばかり、児童公園らしい一角に公衆トイレのシルエットが。
さらには自動販売機の明かりが、自分を手招きしているようだった。

「中村君?何してるんや?」
傘も開かず軒下に立ったまま、缶コーヒーで掌を温めていた秀樹を目にした工場長は、瞬時に状況を察したようだった。
普段の温厚な笑顔とも、作業中の厳しい表情とも全然違う、表現に窮する前川の顔つき。
その怒りと哀しみを隠し切れない佇まいに、秀樹は思わず後ずさりしかけていた。
入店というよりも討ち入りのごとく、一気に踊り込まんとする工場長を懸命に制しつつ、
「いいんです。ここで立っていますと、僕の判断で吉田さんの指示に従っているだけですから!こうなることも承知のうえで、今日ここに来たのは僕の判断ですから!」
懸命の懇願に、どうにか自身を諫めてくれたのだろう。
「中村君・・・・・・」
それだけ呟くと踵を返し、傘を開かず歩を進めた前川の背中を、黙って見送ることしかできなかった。


4-7

「何を勝手に使ってるんや!?それは吉やんのために用意した扇風機やぞ!」
「ワシが中村君のために移動させたんや!吉田は今日も無断欠勤でしょうが!?」
前年末の忘年会での一件で、遂に堪忍袋の緒が切れたらしい工場長の社長に対する態度は、それまでとは一変。
すべてに置いて一切引かないどころか、反吉田の姿勢を露わにする場面が、この半年間で日々増え続けていた。

寒暖計があれば40℃超を確実に示すであろう、通風性皆無のトタン屋根の下は、風通しなど皆無。
そんな密閉空間内で稼働を続ける金属の塊の機械類が、さらなる熱気を発散する悪循環。
2ℓ入りのペットボトルのスポーツドリンクを毎日2本、自腹で携えての出勤。
それらを夕刻前には飲み干すも、すべて汗で噴き出してしまう毎日。
尿意を一切もよおさない健康上最悪の環境下、無理矢理小便を絞り出そうと試みるも、醤油色の体温以上滴がチョロチョロ。
「こりゃ腎臓病になるぞ」
冗談にならない呟きを、己が足の親指と親指の間で、暑さでうなだれるムスコにポロリ。
昼休憩時に着替える作業用のシャツは、汗の塩で脱いだ状態のまま形を留める芸術作品。
「人間の生命力って侮れないな」
それでも倒れる気配もない自身の体力と精神力に、秀樹は妙な誇らしさを覚え始めていた。

入社から1年が過ぎようとしても、秀樹は変わらず必要最低限以外のお喋りを慎み続けていた。
5つの基本語以外発する必要のない、不思議極まる小さな紙器工場。

結局社長の苗字も知らないままだったが、いまさら確かめるつもりもなかった。
工場長が前川さんで、ドライバーが安西さんで、嫌な野郎が吉田。
これだけで十分だった。


4-8

「中村君、突然で悪いけど、今日ちょっと残れるかな?」
9月もそろそろ半ばのその日、入口脇の屋外水道栓で接着用の糊のタンクを水洗いしていると、背中越しに工場長の声が。
「はい。大丈夫です」
必要最低限言葉にもう一言付け加えても、唯一大丈夫な相手が前川だった。

「お疲れさん。まあ表に座って一緒に飲もうか」
「はい。いただきます」
可動式の雨よけの幌を畳んだ、作業中は全開の工場入口のほぼ中央に腰を下ろし、一気に半分ほどを喉に流し込んだ。
南側の少し先には複々線以上の貨物線が、高架未満の微妙な高さで東西に走っている。
その向こう側は商業施設が密集する、さらなる開発が急速に進む繁華街。
この貨物線で区切られたあちらとこちらでは、大袈裟ではなく別世界。全く異なる空気感と風景が、漂い広がっていた。

「横よりも縦長のビルが、また建つみたいやな」
秀樹の父親世代よりは幾分若いであろう前川が、建設作業が進む貨物線の向こう側を眺めながら、唐突に呟いた。
それから数秒後、数十両の貨車を力強くけん引する電気機関車が姿を現した。
流石にスピードを出し切れないらしい微妙な速度で、線路の向こう側の景色の低い部分を隠し始めた。
「そうですね。僕の子ども時代に霞が関ビルが東京に建って……あれが初めて見た縦長のビルでしたね」
入社以来この日まで、これだけ長い雑談の一言を、直也は他の諸先輩に発した記憶が見当たらなかった。
長い貨物列車がようやく走り去り、一拍遅れでレールの継ぎ目を車輪が数える音が鳴り止んだその時だった。

「君はあっち側に帰りなさい」
前川の噛んで含めるような口調が秀樹の鼓膜を、一拍置いて心を震わせた。
「君はこっちでくすぶり続けていてはダメだ。あっちで輝く人生を過ごさなきゃ」
黙り込むことしかできない秀樹に、前川が続けた。
「職業には貴賤が、人生には勝ち負けがあるんだ。未来が待つ若い君は生きる場所を間違ってはならないと、俺は思うんだけどな」

沈黙の時間がその秒数を増やし続けるなか、助け舟を出してくれたのその人は、工場長の奥さんだった。
毎日午後3時から数分程度の小休止タイムになると、数秒と遅れずに飲み物とお菓子類を、黙って運び続けてくださっていた。
「社長も吉田君もここにはいないから。ウチの人の話を聞いてあげてくれるかな?」
「はい」
「それから村上さんが今まで黙って我慢し続けてくれていたことも、全部この人に話してあげてよね」
自身が耳にする必要のなかった内容も含め、そこから諸々の疑問がすべてクリアになるのに、さしたる時間は要さなかった。


4-9

安西はほどなく気づいた通り、小学生時代テレビで目にしていた、プロボウラーの安西選手その人だった。
当時大ブームだったボウリングは試合中継も多く、スター的な存在だった。
小遣いを持ち寄り子どもたちだけでボウリング場を目指し、全員でようやく一ゲームに興じた当時が、懐かしく思い出された。
「あの頃だったら握手とサイン、ねだっていただろうな」
変わり果てたと言えば失礼極まりなくも、ブラウン管の中のヒーローだった安西プロと同一人物だとは、どうしても思えなかった。

そして工場長の前川もまた、幼い日の記憶に鮮明な、かつて国内屈指のアルピニストだった。
自称登山家の母方の叔父と若き日の前川とのツーショットの写真が、見慣れぬエアメールで届いたあの日。
「注目の若き登山家と一緒に、海外の有名な山の登頂に成功したぞ!」
達筆な叔父の筆跡までもが、鮮やかに蘇った。

さらには社長と前川夫妻それぞれの人生や、世間一般には説明がむつかしいであろう、社長と吉田との関係。
まだまだ人生経験も稚拙な自分には理解できない内容もみられ、秀樹は戸惑いを隠し切れなかった。

「ここはかつて、それぞれの人生の小さな頂上を極めた・・・・・・そうだなあ・・・・・・遊園地か百貨店の屋上の小さな観覧車の、一瞬の頂点から景色を確かめた、そんな年寄りが不思議と集まってくる工場なんだよ」
視線を足下に落としたまま訥々と語り続ける前川を、秀樹は黙って見つめていた。この時点で本当の理由はどうあれ、ここでの2年目が準備されていない現実に、内心戸惑いを隠し切れずにいた。
「今までありがとう。ほんとに助かったし、俺も君を見ていて色々と勉強させてもらった。今日で卒業だ」
いきなり一方的に告げられたリストラ宣告に他ならないこの一言、明日からの生活を思えば、さすがに承服するとは即答できなかった。

「これであっちの世界へ羽ばたいてください」
唐突に目の前に差し出された、それなりの分厚さの茶封筒を遮るように、
「それは受け取れません。それよりこれは一体なんなのか、きちんと説明していただけませんか?社長は承知されていますか?」
無意識に早口で畳みかける秀樹に対し、前川はあくまで普段通りの落ち着いた口調で、
「これは安西さんと俺の、自分たちではもう挑めない夢への1点買いじゃなくて……未来ある君への1点賭けだよ。これで通じたかな?」


4-10

この日午後6時過ぎに突然訪れた、赤錆とペンキの道路や頭上注意の高架線下通路との別れの時。
最後のもう1本を終ぞ手渡してもらえなかったのも、この場所での明日へのガソリン補給の必要がなくなった以上、当然だったのだろう。
「一晩寝て太陽が昇ったなら、また職探しだ」
ここまで帰宅が遅くなると心配してはいないかと、最寄りの公衆電話から自宅に電話してみれば、
「パパ!?」
割り込んで美咲との会話を遮る元気な声に、そこから会話が続けられなくなってしまった。

「前川さんがおっしゃった、向こう側を目指してみるかな」
どうにか平静を装ったつもりで受話器を置けば、通い慣れた改札口へと続く周囲の風景が、いつもと違うように感じられた。
それまで連日超特急直帰で意識していなかった、高架下の立ち飲み屋の入口上の赤い提灯が、視界内に飛び込んだ。
日々手渡され続けた、汗をかいた茶色いガラス瓶のラベルに綴られていた商品名が、早くも懐かしく思えてならなかった。

「1本ならぬ1杯だけ、胃袋に流し込もうかな?」
小銭入れを取り出し、マメが固まりすっかり武骨になった掌の上で数えてみれば、表示価格より十円玉が1枚足りなくて、ふっと苦笑い。

夕刻の帰宅ラッシュタイム、三複線の高架線路を次々と走る電車の振動を頭上に確かめ、取り出した定期券を右の掌に。
心は身体よりもフライング気味に、我が家へと全力疾走を始めていた。


5-1
 
木目基調の落ち着いた店内のカウンター席に妻と並び、秀樹は目の前のシェフの手際に魅せられていた。
「今日は俺の引退と次章へのイントロ記念日!まずは大奮発して心身に最高のガソリン補給だ!」
愛息を美咲の両親に預けての、夫婦水入らでの豪華な外食。
場所は近年開業した外資系高級ホテルの1階奥にある、どことなく敷居が高そうなステーキハウスだった。
 
バブル期に歩調を合わせたかのような一大バンドブームも、そろそろ昔話。
専門機器の進化に伴い、人間が担っていた諸々が急速に削り取られ続ける音楽業界。
人気実力が広く浅く周知される存在ではなく、いわゆる裏方的スタンスだった秀樹は、静かに引退することを決意していた。
山積みの仕事を抱えて納期に追われる毎日だった若き季節は、実際よりもずっと昔のことだと感じられてならなかった。
 
紙器工場勤務を辞めて早数年、昔のツテを手繰って仕事を募ってはみるものも、届かぬ依頼をただ待つばかり。
とても一家の大黒柱とは名乗れない微々たる収入に、焦りと悔しさを噛みしめる季節を数え続けていた。
妻に経済的な不安と負担をかけ続ける毎日から解放されたかったのも、正直なところだった。
 
耳を澄まさなければ気づかぬ程度の音量で流れるBGMは、見知らぬ誰かのオリジナル曲だろうか。
「俺もこんなの沢山作曲してきたよな・・・・・・」
口の中でそっと呟くつもりが声に出てしまい、しまった!と小さく表情を歪めた横顔を、隣の穏やかな表情が受け止めていた。
 
当然そんな夫婦の会話は目の前のシェフと、絶妙の距離感で時折姿を見せる、どうやらこの店の支配人らしい黒服の男性にも筒抜けだろう。
そんな余計なことなど気にならぬ心地良い空間に、居合わせた複数の来客が心身を委ねていたその時、想定外の怒声が響き渡った。
 
 
5-2
 
「いつまで待たせるんだ!今すぐ残りを全部持ってこい!」
カウンター席からは直接見えない、半個室風に仕切られた方向からの大声から一拍置いて、今度は幼子の激しい泣き声が響き始めた。
すでに責任者と思われる黒服の男性はそちらに到着したらしく、大声の主とのやりとりが、片方の怒声だけから察せられる時間が暫し続いた。
ほどなく急ぎ足で店を出て行った年配の男性を追うように、奥様であろう同世代の女性が、なんとも申し訳なさそうな表情で両手を合わせて小走りに。
続いて秀樹と同世代の夫婦と、母親に抱えられるように6~7歳くらいの男の子も、足早にその場を立ち去ってしまった。
 
黒服の男性は各テーブルを回り、謝罪と状況説明を続けていた。
箸を止めざるを得ない形でコース料理の流れが寸断された状況下、目の前のシェフにも臨機応変な対応が望まれるも、それに窮しているのが一目瞭然。
「続きがあればお願いします」
決して助け舟を出すつもりではなく、あくまで希望を伝えたつもりの秀樹のもとへ、黒服姿が近づいてきた。
 
激しい理不尽なクレームを真正面から受け止めつつ、あくまでプロの対応を凛と続けていた、その佇まい。
なによりお辞儀をする際、ほんの僅かだけ左側に重心が傾く痩身のその姿。
 
偶然以上奇跡未満のこの再会に、秀樹は不思議な感覚に包まれていた。
そんな夫妻に失礼のない立ち位置を素早く確かめた黒服が、静かに口を開いた。

  
5-3
 
「申し訳ございません」
この一言に続くであろう、さらなる謝罪の言葉を遮るかのように、
「あのおじいちゃん、お孫さんが退屈そうにしているのに、心を痛めてしまったんでしょうね。幼い子にはコース料理は苦痛かもしれませんね」
美咲のこの言葉に、秀樹も続けた。
「私どもにはどうぞお気遣いなく。それでは楽しい食事タイムの再開といきましょうか」
2人が帰路に着く際には必ず自分を呼ぶようにとシェフに伝え、静かにその場を離れようとした男性に、秀樹は一か八かの賭けに出た。
 
「ご記憶ではないかと思いますが、かつてこの近所にあった小さなステーキハウスに珍妙な服装でお邪魔した、悪ガキ中学生一行の1人です」
彼の表情が穏やかにほころんだのを確かめ、秀樹はさらに続けた。
「お忙しいところ恐縮ですが、お時間があればお仕事が一段落された時点で、少しだけ私の話を聞いていただけませんか?ご都合が悪ければ日を改めて伺います」
 
隣席の美咲は主人に黙ってバッグに忍ばせていた、1通の白い封筒の所在をそっと確かめていた。
「明日からどこへ出かける時にも履歴書を持ち歩くからな。情報誌や新聞の求人告知には頼っていられないし。俺、頑張るからな」
幾度も書き直してようやく仕上げるも、そのまま机上に放置されていた、就活に必須の重要書類。
「この人の短髪黒服姿って・・・・・・」
含み笑いを堪え切れず片手で口元を覆ったその仕草が、遠い昔に15歳の秀樹を目にして噴き出してしまった、見知らぬ女性のそれと重なった。
 
時は1999年、新世紀カウントダウンの真っ最中。
携帯電話はアンテナ付きの白黒画面が標準だった。


6-1
 
あの日招かざる怒声の発生源となった半個室内は、静寂と時折のナイフとフォークが奏でる金属音のダブルキャスト?
この日は結婚を誓い合った若い2人がセッティングした、両家顔合わせの舞台として、複数の来客の談笑が弾んでいるはずだった。
しかしながらここまでなごやかとは対極の、幾分以上の緊張感が漂い続けていた。
 
新郎となる青年は同ホテルのフロント業務一筋、まもなく勤続十年目。
そんな彼は隣で懸命に微笑んでいる彼女と出会う前から、どうしてもケジメをつけたかった人生の宿題を、心密かに抱え続けていた。
いつしか芽生えた使命感にも似たこの思いもまた、己が進路を決める上で、少なからず影響していたようだった。
 
幼かったあの日母親に抱えられ、連れ去られるようにその場を後にした、食卓に料理が残されたままの部屋の光景。
大好きだった祖父母と両親の間に漂った、ただならぬ雰囲気の朧気な記憶。
一部始終を正しく理解できたのは、祖父の葬儀当日のこと。
精進料理を前に親族が交わした、故人の思い出話を耳にした時だった。
 
やがて同級生たちが迷わず大学進学を目指すなか、ホテル業界に進みたいとの決意に迷いはなく、両親を説得して専門学校に進学。
在学中からベッドメイキングのアルバイトを続け、直訴の熱意が評価され、異例とも言える入社を果たした期待の星。
そんな彼が尊敬してやまない現支配人のこのステーキ店以外に、この日のイベントを行う会場は思い当たらなかった。
 
白髪が目立つ両家の両親の表情は明らかにぎこちなく、遠慮がちに黙々と目の前の料理に手を伸ばすばかり。
懸命に共通の話題のきっかけとなりそうな言葉を振り続ける青年も、そろそろネタ切れの感が否めなかった。
一連のこうした様子を伺いつつタイミングを見計らい、支配人がふたたび姿を見せた。
 
まずはマニュアル通りのお声がけに続き、新婦の父親と瞬時のアイコンタクトから、
「ようっ。お嬢さんのご結婚おめでとう。この後の肉はミディアムでいいか?それからナイフは左手だぞ」
「オマエなあ」
唐突なやりとりに唖然とする一同を前に、阿吽の悪友呼吸でニヤリの雅夫と秀樹。
「これは失礼いたしました」
すかさずお詫びから、新婦の父と旧知の仲であること、その他に関しては雅夫が説明するとの無茶振りを炸裂。
 
続いて同僚でもある新郎にもアイコンタクトで、こんなメッセージを託した秀樹。
「日々のフロント業務で磨いた、咄嗟のスキルの出番だぞ。ここからは君がこの空間を引っ張って行くんだ。頑張れ!」
引き締まった笑顔で頷くその姿に、これなら大丈夫だと確信してニッコリ。
 
わずか数年で離婚後も、別れた妻子を海を越えて全力でサポートし続けた雅夫の人間力あればこそ実現できた、この祝席。
数十年振りに見る秀樹の姿に、ただ戸惑うばかりの新婦の母親は、真ん丸な目を見開き固まっている。
 
これ以上の長居はご迷惑だろうと、もう一度背筋を正し、やや長めの一礼を。
秀樹のその姿は新人研修時代、先代支配人から姿鏡の前で厳しく叩き込まれた、完璧と言えるプロの立ち振る舞いだった。
 
いつしか青年の瞳が涙で潤み始めていた。
齢40近くになって中途採用され、年下の上司や先輩の下から這い上がった秀樹の存在は、ずっと心の支えだった。
「自分もあんなふうに、学歴で採用された同期や後輩の新卒社員に負けないように」
『新しい仕事に臨む際には心身スポンジで』なる秀樹の教えは、自身にとっても座右の銘。
そんな憧れであり目標の人が今、目の前で自分たちを祝ってくださるだけでなく、こうして最高のアシストを届けてくれている・・・・・・
こみ上げるものを抑えきれなかった。
 
それぞれの思いが高まる中、雅夫が青年に静かに語りかけた。
「憲一さん」
「はい」
慌てかけた自身を律するかのように背筋を整え、顎を引いて一言返事から、再び数秒間の沈黙。
「娘をよろしくお願いします」
新婦の父はゆっくりとした口調から、深々と頭を下げていた。
 
この室内限定で流れるBGMは、この日のために秀樹が自宅録音で仕上げたオリジナル。
疎遠続きだった義明たちが届けてくれたお祝いのメッセージは、あとでそっと手渡そうか。
あの日妻がカバンの中を確かめてくれた仕草のように、上着の外ポケットの片側の中身を外側から軽く2回叩き、その存在を再確認。
そこから直前に呼び出しのあった、他のテーブルへと歩を進めた。
 
 
6-2
 
「それではごく普通のお茶碗に柔らかめのご飯をお入れして、その上に小さく切ったお肉を乗せる、丼みたいにさせていただきましょうか?」
フロアスタッフのヘルプ依頼に対し、秀樹がこのような提案を届けた来客は、若い女性とその祖父母とお見受けする3人連れだった。
亡きご両親に代わって自分を育ててくれた2人に感謝を伝えたいと、少し前にホテルに相談があった経緯は耳にしていた。
あらゆる展開を事前想定すべき支配人として、自身の甘さが悔やまれた瞬間だった。
 
孫娘からすれば精一杯の大奮発も、年齢や歯などの健康状態次第では、もてなされる側にとっては大きな負担となってしまうのが肉料理。
「私、おじいちゃんとおばあちゃんのこと、全然考えていなくって、こんなふうにしちゃって・・・・・・」
申し訳なさそうに呟く彼女の姿。
 
プロ失格なのは私の方だ。
このお客さまが到着された時点で、この料理を提供したならこうなるであろうこと、十分想定できたはずだぞ!?
 
「私たちが年寄りなばかりに、無理をお願いして申し訳ありませんね。歯がダメでねェ・・・・・・やさしい孫娘がせっかくこうして段取りしてくれたのに」
恐縮仕切りのお祖母さまと視線を合わせるべく、腰を下げた姿勢で自然な距離感を保ちつつ、秀樹は自らに言い聞かせていた。
 
大丈夫だ。
下積み時代から己が目と心に刻み続けてきた、憧れであり師匠でもある先代を思い出せ。
俺は15の春のあの日から、あの人の後継者として、この場に立つべき男だったのだから。
ここからが師との真剣勝負だぞ。
この場面、彼ならどうリカバリーするだろうか?
私だったら・・・・・・
 
頭の中で確かめた次の一言をお伝えすべく、黒服の支配人は穏やかな表情で、ゆっくりと口を開いた。
 
時は2019年、晩秋と初冬の丁度狭間。
頑なに緑色を纏い続けていた街路樹の銀杏の葉も、ようやく辛子色へと。
  

お家では ウエルダン気味の 豚ロース

 
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#お仕事小説部門
 
 
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