日記197

昔、音楽で一生食ってく!という彼の夢について、一緒に上京したことがある。
それは、ずっと追いかけてた夢に向かった、
彼の最後の挑戦の日々。


上京する前、結婚前に娘が同棲するに当たり、
それならちゃんと婚約してから行きなさい。
という両親の強い想いで、小さな結納を挙げた。

約束期間は3年。
3年でデビューできなかったら、帰って家業を継ぐこと。指環交換とともに、そんな約束を、お互いの両親の前で交わした。


地元で仕事してたわたしより先に、まずは彼が上京し、どうせ東京に住むならど真ん中に住む!という派手目の彼らしいチョイスで、住まいは飯田橋と後楽園のちょうど真ん中らへんに決まった。

初めての2人のホームは、築45年の細長い5階建てマンションの5階部分。
床はミシミシ言うけど、お風呂は見たこともない超レトロなレバーを回転するタイプの湯沸かし器がついてるし、バスタブの右上についてる三角の小窓から空が見えるところもとても気に入り…
2人の初めての同棲生活が始まった。


玄関ドアの前の小さな踊り場を見上げれば、そこは私たちのお気に入りスペース。
白い非常用の階段を登ると、東京の空を見渡せる屋上があり、彼はギター、わたしは缶酎ハイを持ちこんで。
曲作りをする彼の横で、ときどき隣を走る銀色の列車と、真っ赤な夕日をみながら、チビチビ飲むのが好きだった。

彼は、昼間はバイト、夜は一緒に上京した弟と友達と、公園や路上やスタジオに歌いに行く日々。

わたしも仕事を探そうと、面接をいくつか受けた。その中でご縁があった会社オフィスは、東京タワーの見えるエリアにあり、それまでテレビでしか見た事なかった人波に押しつぶされながらの満員の電車通勤が始まった。
コテコテの日本企業でしか働いたことなかった私にとっては、外資ならではのフラットでオープンな雰囲気が新鮮で、職場は居心地が良かった。仕事は忙しかったけど、それぞれが自分のプライベートも当たり前に大切にしてる風土がなんとも魅力的だった。
ランチタイムになると、外に出ては美味しいご飯屋さんを探したり、近くの大学の学食を食べたり。時には、お洒落なオープンカフェで昼間からワイン飲みながら、ランチミーティングしたり。仕事終わりに同じ方向の社員さんと一杯ひっかけに行くのも楽しかった。

派遣社員という立場ながら、人に恵まれて、本当に良くしていただき、後にその時の上司の方に、結婚式のスピーチもしていただいた。彼の活動を話すと、皆さんで応援して下さって、彼のライブにも沢山駆けつけていただいた。その優しさとご恩は、今でも忘れてない。


わたしが会社から帰ると、バイト終わりの彼が連れてきた知らない人たちが家にいるのは、もう日常茶飯事。
わたしと違って顔の広い彼は、いつも音楽仲間やら、知り合いやら、知り合いの知り合いやら…を呼んでは、お酒弱いのにドンチャンやるのが好きで、我が家はいつの間にやらみんなの憩いの場。
ある時は、キッチンの方にも人が溢れて、朝、寝てるその人の足🦵で、冷蔵庫が開けられない事もあったっけ。笑
けれど、人見知りなわたしはその人にすみません、と言えず、、自分ちなのになんで気を遣ってるの?と彼に笑われた。

彼の友達には酒飲みが多く、とにかくクセモノ揃い。
酔うと必ず、おい!オマエ歌えよ!
と言って、トロントロンの半目で夫にくだを巻く人。
突然、フラフラと立ち上がり酔拳し出す人。
一升瓶片手に身を乗り出して、自分のH話を熱く語り出す人。
酔っ払い過ぎて、わたしの返ってきたばかりのクリーニングの入った段ボール📦の前にヘナヘナと座り込み、そのままそこにリバースした人。を見た時は、わたしも同じくヘナヘナと座り込んだけど。。
おかげで、わたしも随分と鍛えられた気がする。笑



毎日音楽スタジオ通って、
ライブハウスでライブして、
警察に何度も注意されながら路上で歌って、
コンテストを見つけては応募したり、 
アルバム作ったり、
プロモーションビデオ作ったり、
一緒に出てきたメンバーとの悲しい別れも経て、
九段下の武道館の前で、ここに行くぞー!
と言いながら歌い続けた3年間。


数えきれないくらい喧嘩して、泣いて、笑い合った激動の日々が、もうすぐ終わりを告げようとしていた頃。
わたしはいつしか限界を感じていた。
この先の将来のことを考えては、これ以上こんな日々が続くかと思うと、続けていく自信が持てなくなっていた。
東京タワーのオカンになる!彼を支える!だなんてかっこいい事言って、結局、最後まで彼を支えきれなかった自分を責めた。

一方、彼は悩んでいた。
夢への切符はまだ掴めていなかったけれど、まだ諦めたくなかった。
とても諦められる訳なかった。
だって音楽は、彼の全てだったから。

婚約破棄という形にはなるけど、
わたしと別れれば、彼は好きに自分の夢を追える。
わたしは彼にそう伝えた。

けれど彼はそれをしなかった。
実質最後となった、渋谷でのワンマンライブで、わたしはステージの上からプロポーズを受けた。バンドマンの彼らしいプロポーズだった。




それから13年が経ち。
今では、夫は毎朝7時に起きて、モーニングコーヒーを飲むためのお湯を沸かし、髭を剃ることも忘れない。愛車はスケボーから、営業車になった。


夫はもうあの頃の様に、路上で歌ってはいないけれど、子ども達が歌うことが何より好きなのは、子ども達がお腹にいる時に、夫がたくさん歌って聴かせてくれたからだろう。

そして息子は、夫の歌の歌詞から名前をもらい、夫の歌は、わたしたちの何より大切な宝物になった。




あの日の、紫色の東京の空を思い出しながら、時々2人で東京時代のことを話したりする。


夫は言う。
「明るい未来しかないよ。」


夢を諦めたあの日から、またこうして力強く前を向けるようになった夫の背中を、これからもずっとわたしは見て行きたいと思っている。




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