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大好きだったあの人と寝なかった理由

一言で表すなら、ご縁がなかった。
ただ、それで済ませてしまうには、私たちはあまりにも多くの時間を共有していたと思う。

めぐる先輩は、私がそれまで好きになった4人の男のうち、唯一手に入れられなかった相手。
他の3人とは、私が細かいシナリオや間合いを考えるまでもなく、相手からのアプローチでスムーズに交際が始まったことを考えると、レアケースだといえる。

先輩とは職場が一緒で、毎日のように仕事帰りに車で送ってもらう途中、コンビニ限定のおまけ付きお菓子を探し歩いたり、新しいケーキ屋さんを探索したり、時には郊外へドライブに行ったりもした。

狭い部屋に2人きりの夜だって、何度かあった。
並んでくっついてソファーに座っていたって、私が意味ありげに顔を見つめてみたって、めぐる先輩は私に手を伸ばそうとしなかった。

だけど、好きなアーティスト、面白い漫画、昔流行っていた曲、学生時代の思い出…とにかく、めぐる先輩と話していると、誰と話すよりも楽しかった。
一時期、誰よりもめぐる先輩について詳しいのは私だと信じて疑わなかったくらいに、会えば様々な話題で盛り上がり、時間を忘れて空が明るくなりかけたりした。

あの頃、めぐる先輩が私のことを好きだと思うよって、同じ職場の何人かから言われたし、私もその都度笑って誤魔化していたけど、多分そうかなって思っていた。

だけど、私たちは結局どちらからも『好き』だとも『付き合おう』とも言わずじまいだった。
それまでの恋愛経験の影響なのか、告白は男の人がしてくれなきゃ嫌というか、自分から言わなくたっていずれ向こうから来ると思っていたから、2人きりの時に好意自体は隠さなかったけれど、一度たりとも気持ちを言葉にはしてこなかった。



あれから10年が経った今、私は結婚して2歳の双子の母となり、めぐる先輩は独身貴族を貫いているようだ。

久々に一人の時間ができ、半年ぶりの美容室でヘッドスパを受けてウトウトしながら、なぜ今になってめぐる先輩のことなんか思い出したのだろうと、不思議で仕方ない。

そうだ…あんなこともあった。
私が仕事で大失敗して、ロッカー室で泣いていたのを見つかってしまった日だ。

帰りにいつものように車に乗せてくれためぐる先輩は、いつもと違う道を進み、小高い丘を登った先の展望台に連れて行ってくれた。

車を降りて展望台の一番上まで歩くと、そこから夜景が見えて、オレンジや黄色の光が輝くのがとても綺麗で、泣いた原因である同僚の嫌味も忘れて見入っていた。

『大丈夫?』
『…ありがとうございます』
めぐる先輩の声が優しくて、また涙が出てきたのを拭おうとしたそのとき、先輩が私の頭を撫でてくれたんだ。

あのとききっと、もう一歩だけ前に進めば、めぐる先輩の腕の中にうまく収まることができた。
だけど、なぜか、体がそちら側には動かなかった。
あれ、間違いなく千載一遇のチャンスだったのに。

『ごめんなさい、迷惑かけて』
実際に私がしたことといえば、先輩に顔を見られないように背を向けて、その言葉を繰り返しただけ。  

あたたかい手が頭から離れ、そこに冷たい風が吹いてきた感覚を思い出す。
あの瞬間、私はもうめぐる先輩と結ばれるチャンスが来ないことを、何となく悟ってしまった。


それから、程なくして再び車に乗り、いつものように最新ヒットチャートとかの話題で普通に話して帰ったけど、それ以降、帰りにどこかに寄る回数は明らかに減った。

そして、その頃に偶然、ふたつの出来事が起きた。
まずは、父から古い軽自動車を譲ってもらえることになり、先輩に送ってもらう必要がなくなった。
その2日後に、先輩が欠員の出た施設へのフォローということで、異動することが明らかになった。

めぐる先輩は、シフトの都合で最終日までほとんど会えなかった後、それまで仲良くいろいろ話していたのが嘘のように、終業後に簡単な挨拶を残して、あっけなく職場を去っていった。  

あくまで私自身の感覚で言うなら、あの頃、互いにそれなりに想い合ってはいたのだと思う。
だけど、だからこそ、その友達以上恋人未満みたいな関係を自分から崩したら負けな気がしていた。

先輩がいつか自分を女として求めてくれるかもしれないと期待しながら過ごす時間が、その頃の私には一番尊くて、それが自分の気持ちを伝えることで消えてなくなる可能性を考えたら怖かったし、惜しくなった。

私のことを好きでいてほしい。
可愛がってほしい。
いつまでも、楽しくお喋りしていたい。 
とにかくそんな気持ちで溢れていた、あの頃…

『それでは、起こしますね〜』
ヘッドスパの担当スタッフに声をかけられながら、椅子のリクライニングがゆっくり起き上がるとともに、現実世界に意識が戻ってきた。
体を起こされ、おそらく極度の育児疲れが見させたであろう想い出という名の夢から完全に目覚めた今、ひとつの真実に気づく。

私があの頃大好きだったのは、めぐる先輩そのものじゃなくて、私のことを好きかもしれない男の人と楽しく話せる、いつか狙われて手を出されるかもしれないとワクワクしながら過ごす時間だったんだ。 

手に入らなかったんじゃなく、そもそも手に入れたいと思っていなかったんだよね。
だから『好き』って伝えられなくて、多分、先輩もそれを察していたんだろう。

『いや〜、スッキリしました!』
担当スタッフに向けた一言は、同時に、あの頃なぜ先輩と付き合う流れにならなかったのか妙に引っかかっていた自分への答えでもあった。

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