如実知自心
影響を受けた書籍で「瞑想の心理学(大乗起信論の理論と実践)可藤豊文」がある。手にした当時、帯封に「生と死の本質」とあり、大乗起信論にも興味を持ち始めたときにあって、ある期間、むさぼるように読み耽っていた。
「ラマナ・マハリシの教え」を読んだ時期とも重なり、頭の理解は比較的容易に進んだ。如実知自心(にょじつちじしん)は真我の探求とほぼ同じ意味である。その生死を超えた、存在の不思議を解き明かす智慧に私は釘付けになった。
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あとがき
先哲たちは様々な言葉や言い回しで、真理を指し示そうとしてきた。また言葉では現わせないとしながらも、表現を超えたものとして、どうにかして真理を浮かび上がらせようとした。文字で書けば、真我・涅槃・如実知自心・心源・真心…と尽きることを知らないが、我々はそれを経験出来ずに迷いの中にいる。せめて、意味合いだけでも理解して、今生に活かそうと呻吟するのが関の山である。
真我に対してわれわれは思う。それを経験すると、今生の苦しみは消え失せるのだろうか、それは終着点なのだろうか、何か良いことがあるのだろうか…。
恐らく現象世界の住人たる我々に、真我は何かをしてくれる訳ではない。現象世界は真我の投影であるにも関わらず、無責任なほど無関係なのだ。そして真我に我々の価値観など微塵も通用しない。マハリシも良寛も同じことを言っている。真我を前に書籍など為す術を失くす。我々の必死の経験とても灰燼に帰すに違いない。
しかし、それでも先哲たちは真理を指し示そうとした。執着や因縁を解き放ち、真の自由自在を得るために。般若心経をはじめ多くの経典なども同様である。そして、もともと自由自在であったことを知ったとき、改めて我々は現象世界に慈悲をもって覚醒するのである。武士道にあった「新しき天と新しき地」然りである。
それ故に、この現象世界で精一杯の為すべきことを為し、広田弘毅が「自然に生きて、自然に死ぬ」と語った如くありたいと願う。
2016年 10月
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自叙伝 note 投稿を終えて
【 45歳の自叙伝 2016 】と題し綴って参りました自叙伝「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」は、この投稿が最後となります。これまでお読みくださった皆さまに心より厚く御礼申し上げます。
今、読み返してみますと、正直、自意識過剰も甚だしい素人文章で、全くもってお恥ずかしい限りです。お見(お聞き?お読み?)苦しい点、多々あったと思います。何卒お許しください。
実際のところ私自身は、根っから真面目な振りをして、都合の悪いことを避けて通る都合のいい人間です。恐らくそれ故、身の程がバレないよう理想を振りかざし、不器用なくせに、格好つけて不格好になっているのだろうと思います。
それでもこの自叙伝は、その時、精一杯の自己表現でした。世間様から見て、正しいか間違っているかなど分かりませんが、自分の内面に嘘をついた文章は一切ありませんでした。本当に思いのまま綴りましたので、そういう意味で心は清々しております。ただ、私の現象世界における問題は、まだまだ幾つもありそのままです。まぁ、ひとつひとつ…と思っています。
ここまでお付き合いくださいましたこと本当に感謝申し上げます。またお立ち寄り頂けましたら大変嬉しく思います。皆さまのご多幸と「心の風景」の充実を心からお祈り申し上げます。
ありがとうございます。
2022年 11月
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この記事につきまして
45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。
記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。