見出し画像

(6-2)参考資料~真の解放のために②【 45歳の自叙伝 2016 ※最終 】

◆ Information
 【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…


如実知自心

 影響を受けた書籍で「瞑想の心理学(大乗起信論の理論と実践)可藤豊文」がある。手にした当時、帯封に「生と死の本質」とあり、大乗起信論にも興味を持ち始めたときにあって、ある期間、むさぼるように読み耽っていた。

 「ラマナ・マハリシの教え」を読んだ時期とも重なり、頭の理解は比較的容易に進んだ。如実知自心(にょじつちじしん)は真我の探求とほぼ同じ意味である。その生死を超えた、存在の不思議を解き明かす智慧に私は釘付けになった。

【 如実に自心を知る( 瞑想の心理学 P202 )

 ・・・・このように生死の問題は心の問題に還元される。しかし、それは初めに『起信論』が、大乗とはわれわれの心(衆生心)であり、われわれをサンサーラの世界(生死)からニルヴァーナの世界(涅槃)に乗せて渡す大いなる乗り物であるとしたところからも当然の帰結といえる。しかし、その心に心真如(真心)と心生滅(妄心)の二つがあり、もちろん現在われわれが生きている心は意志、思考、感情など、われわれを生死の絆に繋ぎ止める妄心であって真心ではない

 事実、われわれは一度も心の真実の相(心真如=真心)を知ったことがないのだ。だからこそ徒に生死を繰り返してきたのである。心を真実の相において知ることの大切さを言うのは『起信論』だけではない。



たとえごうしゃの書を読むも
一句を持するに如(し)かず
人ありてもし相い問わば
如実に自らの心を知れ

良寛 『 草堂詩集 』




 われわれはたくさんの本を読む。そのことで知識や情報は増えるであろうが、大切なことがいつも忘れられている。それは何かと問われたら、「実の如く自らの心を知ること」、つまりは心の真実の相(心真如)を知ることだと良寛は答えている。そして、彼には何を知るよりも、それさえ知ればいいのだという想いが、「一句を持するに如かず」という言葉の中に込められている。如実に自心を知ることの大切さは、空海が真言密教を開く場合に所依の経典とした『大日経』の中にも見られる。



「秘密主よ。云如が菩提とならば、いわく、実の如く自心を知る」と云うは、すなわちこれ如来の功徳宝所を開示するなり。人の宝蔵を聞いて意を発して勤求すといえども、もしその所在を知らざれば、進趣するに由なきが如し……。問うていわく、もし即心(そくしん)これ道ならば何故に衆生は生死に輪廻して、成仏することを得ざるや。答えていわく、実の如く(自心を)知らざるを以ての故に……

『 大日経疏 』




 仏教のいう悟り(菩提)とは何かを『大日経』はきわめて明快に「実の如く自心を知る」ことであるとした。われわれ一人ひとりの心こそ、悟りそのものであると言うのだ。そして、釈尊が悟りを得たとき、何を覚ったのかというと、彼自身の心にすべての知恵・徳相はもとより備わっていたという事実であった。しかも、それはひとり彼にだけではなく、「自家の宝蔵」は誰もが本来同じように備えている(黄檗)。だから後の世のわれわれも、求むべきは自分自身の心であるということだ。またその事実は、われわれがこれから善行を修し、功徳を積むことによって悟りを得るのではないことを示している。

 しかし、心が真理(道)そのものであり、真実の功徳がすでに具わっているというならば、なぜ現在われわれは悟るどころか、衆生に甘んじ、生死に輪廻しているのであろうかという問いが当然生じてくるであろう。それに対して、「実の如く自心を知らない」からだと答えている。ただそれだけの理由でわれわれは生死に輪廻し、迷いを重ねているのだ。

 「如実知自心」(如実に自心を知る)ということが、決してわれわれが善くも悪くも日夜想い煩っている心を知ることではなく、心の真実の相(真心)を如実に知ることであり、それが悟りとも呼ばれ、また涅槃、成仏とさまざまに呼ばれているのだ。

 ここで空海がわれわれの心を本心と妄念に分け、本心を悟りの心、すなわち仏心としたことを思い出していただけるならば、「自心」とは、われわれが普通心と呼んでいるものではなく(それは妄念に過ぎない)、本心(仏心)を指していることは容易に理解されよう。



もし自心を知るはすなわち仏心を知るなり。
仏心を知るはすなわち衆生の心を知るなり。
三心平等なりと知るを
すなわち大覚(如来地に到る)と名づく。

空海『 性霊集 』

『華厳経』の「心仏及衆生、是三無差別」と同義




 空海は自分の心(自心)を如実に知ることが悟りであり、それを知ることが仏の心(仏心)を知ることにほかならないと言う。そして、それを知ったとき、自分の心だけが優れた知恵・徳相を具えているのではなく、すべての人の心(衆生の心)も自分と同じであると知るのだ。

 これまでわれわれを個々に分け隔ててきたのは、われわれが自分の心だと思い込んでいた妄心であり、もしその心を離れ、本心(真心)を知るならば、過去輩出したであろう多くの仏陀の心と自分の心はどこも異なりはしないばかりか、たとえ現在、妄想転倒して、生死の苦海に沈淪しているすべての人の心にも、本来悟りの知恵・徳相は具わっている。このように「三心(自心・仏心・衆生心)平等なり」と知ることが仏教における悟り(大覚)であると、彼は言う。換言すれば、「自心」を知って初めてわれわれは、真の平等とは何かを知るのだ。歴史とはある意味で、平等をスローガンに掲げながら繰り返される階級闘争の歴史でもあったが、われわれが現実として捉えている世界においては、機会の均等ということがあっても、本当の意味で平等ということはありえないのだ。

 心源の不覚によって本源の世界(一法界)をさ迷い出でた心(妄心)は、見るもの(人)と見られるもの(物)の二つに分裂し、われわれは、主客という実在論的二元論で捉えた現象の世界(妄境界)へと入っていく。

 そこでわれわれは自己への執着と物への執着を強め、この人・法(私・物)に心が囚われていくことが人我見・法我見ということであった。そして、この二つの我見(執着)があるためににわれわれ(の心)は六道・四生を転々としているのであるから、その心を翻して心の本源への辿り着けば、それがとりもなおさず涅槃(解脱)である。



我見熏習して心は諸趣に流転す、
心を案じて内に住し、
流れを廻するを解脱と説く。

『 大乗荘厳経論 』




 心理学のように、この諸趣に流転する心(われわれが普通に心と呼んでいるもの)を分析し、理解するだけではさしたる意味もない。というのも、この心は心源の不覚によって生じてきた妄心であり、『起信論』における悟りとは、その心を除き、心源を覚ることであるからだ。すると、良寛や空海が自心を知ることが悟りであるとしたことと、心の本源を知ることは同じことになるだろう。従って、如実に自心を知るための実践的プロセスは、現在外へと向かっている心を内へと転じ、心の本源へと帰って行くことなのだ。・・・・

瞑想の心理学(大乗起信論の理論と実践)可藤豊文



◇  ◇  ◇

あとがき

 先哲たちは様々な言葉や言い回しで、真理を指し示そうとしてきた。また言葉では現わせないとしながらも、表現を超えたものとして、どうにかして真理を浮かび上がらせようとした。文字で書けば、真我・涅槃・如実知自心・心源・真心…と尽きることを知らないが、我々はそれを経験出来ずに迷いの中にいる。せめて、意味合いだけでも理解して、今生に活かそうと呻吟するのが関の山である。

 真我に対してわれわれは思う。それを経験すると、今生の苦しみは消え失せるのだろうか、それは終着点なのだろうか、何か良いことがあるのだろうか…。

 恐らく現象世界の住人たる我々に、真我は何かをしてくれる訳ではない。現象世界は真我の投影であるにも関わらず、無責任なほど無関係なのだ。そして真我に我々の価値観など微塵も通用しない。マハリシも良寛も同じことを言っている。真我を前に書籍など為す術を失くす。我々の必死の経験とても灰燼に帰すに違いない。

 しかし、それでも先哲たちは真理を指し示そうとした。執着や因縁を解き放ち、真の自由自在を得るために。般若心経をはじめ多くの経典なども同様である。そして、もともと自由自在であったことを知ったとき、改めて我々は現象世界に慈悲をもって覚醒するのである。武士道にあった「新しき天と新しき地然りである。

 それ故に、この現象世界で精一杯の為すべきことを為し、広田弘毅が「自然に生きて、自然に死ぬ」と語った如くありたいと願う。


2016年 10月

三界の業報 六道の苦身
すなわち生じ すなわち滅して 念念不在なり
体もなく実もなく 幻のごとく影のごとし

空海『 吽字義 』


◇  ◇  ◇

自叙伝 note 投稿を終えて

 【 45歳の自叙伝 2016 】と題し綴って参りました自叙伝「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」は、この投稿が最後となります。これまでお読みくださった皆さまに心より厚く御礼申し上げます。

 今、読み返してみますと、正直、自意識過剰も甚だしい素人文章で、全くもってお恥ずかしい限りです。お見(お聞き?お読み?)苦しい点、多々あったと思います。何卒お許しください。

 実際のところ私自身は、根っから真面目な振りをして、都合の悪いことを避けて通る都合のいい人間です。恐らくそれ故、身の程がバレないよう理想を振りかざし、不器用なくせに、格好つけて不格好になっているのだろうと思います。

 それでもこの自叙伝は、その時、精一杯の自己表現でした。世間様から見て、正しいか間違っているかなど分かりませんが、自分の内面に嘘をついた文章は一切ありませんでした。本当に思いのまま綴りましたので、そういう意味で心は清々しております。ただ、私の現象世界における問題は、まだまだ幾つもありそのままです。まぁ、ひとつひとつ…と思っています。

 ここまでお付き合いくださいましたこと本当に感謝申し上げます。またお立ち寄り頂けましたら大変嬉しく思います。皆さまのご多幸と「心の風景」の充実を心からお祈り申し上げます。

 ありがとうございます。


2022年 11月


◇  ◇  ◇





ひとつ前の記事は…


この自叙伝、最初の記事は…


この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?