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2022年10月の記事一覧
第653回「変化を楽しむ」
摂心を前にして、いくつかの講座を受講していました。 そのどれもが坐禅をするために学ぶものです。 第一陣は、いつもの佐々木奘堂さんでした。 すべてを放って、ただ起き上がる、これだけで腰が立つという明瞭な教えであります。 私たちが行っている五体投地の礼拝の要領で、自分の身を大地に投げ放って、そこから立ち上がるという動きを何度も実習して、腰が立つということを繰り返し学びました。 そして何より今回私たちの印象に残ったのは、アントニオ猪木さんについて学んだことでした。 猪木さんが亡くなったことに触れて、猪木さんの言葉を教わりました。 猪木さんが五十五歳で引退された時に、そのセレモニーでスピーチされた言葉だそうです。 平成十年の四月四日らしいのであります。 そんな年まで現役をされていたことにも驚きました。 「道」という言葉です。 この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめばば道はなし 踏み出せばそのひと足が道となり そのひと足が道となる 迷わずいけよ いけばわかるさ というものであります。 奘堂さんは、この言葉は猪木さん自身のものではなくて、もとは清沢哲夫さんという浄土真宗の僧侶で、有名な清沢満之の御孫さんの言葉だと教えてくださいました。 「道」という題で昭和26年10月に『同帰』というものに掲載されたものだというのです。 此の道を行けば どうなるのかと 危ぶむなかれ 危ぶめば 道はなし ふみ出せば その一足が 道となる その一足が 道である わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ 特にこの清沢さんの言葉の ふみ出せば その一足が 道となる その一足が 道である 一歩踏み出した歩みが道となり、「その一足が道である」というところに注目されていました。 一歩一歩歩むことが道になり、その一歩が道なのであります。 ほかにも「花が咲こうと咲くまいと、生きていることが花なんだ。」という言葉や、「リングに上がっているのに、なぜスキを見せるのか。」という言葉も紹介してくれ、私たちはすでに人生というリングにあがっているのだと指摘されました。 「悩みながらたどり着いた結論は、やはりトレーニングしかない。」 という言葉も印象的でした。 やはり繰り返し、繰り返し学び実践して修行してゆくしかないのであります。 椎名由紀先生には、呼吸法を教わっていました。 今回は、特に椎名先生の独自のストレッチを学び、体を緩めてリラックスして深く呼吸することを実践しました。 ふだんどうしても緊張して暮らしていますので、こうして体を緩めることも時には必要であります。 それから自分の内臓をひとつひとつ明瞭にイメージしながら呼吸をするという、白隠禅師の軟酥の法を実習しました。 これも普段は、よほど具合の悪い時でもないと、自分の内臓に意識することはありませんの、ゆっくり一呼吸一呼吸、大脳、小脳、脳幹から肺、心臓、肝臓、胃、小腸、大腸など、イメージしながら呼吸するのであります。 今回特にイメージの力というものを学びました。 肺や胃などは、まだ比較的イメージしやすいのですが、脾臓や、胆嚢、膵臓などは、どこにあるのやら、どんなものやらイメージしにくいものです。 しかし、そのどれもが大事なはたらきをずっとしてくれているのですから、しっかり意識して感謝の思いで呼吸をすることはよいことであります。 白隠禅師は、このような呼吸法を用いて、体を養生されて、長く修行し、そして息長く活躍されたのでした。 それから西園美彌先生には、足指のトレーニングを学びました。 私が足指に注目したのは、昨年の暮れでありました。 そして西園先生には、今年の一月からご指導いただいているのであります。 足の指で、こうも体が変化するのかと毎回驚きなのであります。 講義の前に控え室で、西園先生が、今日は修行僧さんたちに活を入れようと思っていると言われました。 これは有り難いことなので、是非お願いしますと申し上げたのでしたが、しかし西園先生はいろいろ考えて、やはり活を入れるのではなく、話をしてみようと仰っていました。 何がよくないのかと言うと、一言で言えば、講義をしても反応がないということなのです。 これは確かに痛いところなのです。 私たちの修行では、感情を表に出すことをしません。 むしろしないようにしているところがあります。 ですから普段私の話を聞いてもただ黙って聞くだけで、所謂リアクションのようなものはしないのであります。 しかし外から見えた先生には、そのような事情が分かるはずもなく、講義と実習をしても、反応がないのでは、やりがいがないというものです。 なにか分かったなら、大きく頷いて表情で表わし、疑問があれば質問をするというあたりまえのことが、全くできていないのであります。 私などは、何十年もこの世界にいますので慣れていますが、外から見えた方には驚きなのです。 そこで外から講師を招いた時には、そのように話を聞きながらメモをとること、頷きながら聞くこと、質問はと言われたら手をあげて質問するようにと、伝えているのですが、反応はうすいのであります。 そこで西園先生は、講座のはじめに静かな口調でしたが、心を込めてお話くださいました。 ご自身の今日までの過酷な環境のなかでバレーをなさってきたことを語る時には、目に涙をためておられました。 修行僧たちも寺に生まれたから仕方ないという場合もあるのでしょうけれども、この道を選んだからには、責任を持てというのでありました。 穏やかなお話でしたが、「甘えるな」という厳しいお声を感じ取りました。 これも私の普段の指導が行き届かない為かと反省しました。 毎回しっかりメモを取る、頷きながら聴く、質問をすると言っても、何の反応もない修行僧を相手にしているとだんだんこちらの気力が無くなるものです。 どこか心の中で「仕方ないか」と思っていたところがありました。 活を入れてもらったのは私自身でありました。 そんなお話もあった為か、その日の講座は修行僧達もとても熱心に受講してくれていました。 やはり教える側の熱意が大切なのであります。 それぞれ体に大きな変化を感じてくれたようでした。 中には劇的な変化を感じたという者もいてくれました。 足指のトレーニングをして足裏の感覚がしっかりすると立つことが変わってくるのです。 今回は特にバレーの立ち方を教わったのでした。 これが劇的な変化をもたらしたのでした。 座骨を引き締め、お尻もぎゅっと引き締めて、お腹をぎゅっと引きあげて上に伸びるのであります。 お腹を前にふくらますという普段やっていることとは全く逆なのですが、これが大きな変化につながりました。 皆体に一本筋が通ってまっすぐに立つ感覚が得られたのでありました。 深層筋をぎゅっと引き締めることを学んだのでした。 よく坐禅の指導でも、頭から上に糸で引っ張られるように伸ばすと言いますが、なかなかこれも難しいのです。 まず下に押す力が無いと上に伸びないと教わりました。 今回は、質問も熱心にしてくれていました。 終わったあとにも先生にいろいろ聞いているほどでありました。 やはり、若い修行僧たちも、人の熱意には動かされるということ、そして体に変化を感じるとやる気になってくるのであります。 なかなか、西園先生に教わるときのような大きな変化というのはそういつもあるわけではないので、日常の些細な変化に気がつくことができるように心がけたいものです。 変化を楽しめるようになれたら、自然と道を歩んでゆけるものです。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
第652回「空という真理に基づく慈悲」
本日十月二十日です。 本日は修行道場の開講といって、後期の修行期間が始まる日でもあります。 まずは一週間、入制摂心といって、坐禅に集中します。 三種の慈悲ということで、衆生縁の慈悲、法縁の慈悲、無縁の慈悲の三つについて昨日学びました。 衆生縁の慈悲というのは誰しも行い易いものです。 かわいそうだと思ってなにかしてあげるのです。 これが慈悲の基本でもあります。 しかし、これだけでは、自分の身内だけにとどまってしまったりします。 そこで法縁の慈悲というのが大切になってきます。 これは、法という真理を縁として起こす慈悲であります。 一切法空の理を縁として施すというものです。 空というのは、一切存在するものは固定的実体をもたない、無自性空なるものということであります。 井筒俊彦先生の『イスラーム哲学の原像』には、次のことが書かれています。 「意識の表層にうつる現実は、いろいろな事物が物質的にはっきり識別されまして、それら相互のあいだにさまざまな関係、静的・動的な関係の成立している世界であります。」 というのが、これが私たちが暮らしている現実の世界です。 現象世界、般若心経で説く色の世界であります。 更に 「そこで、観想修行によって意識の深部が開かれていきますと、この現実の言語的分節の枠組みがだんだん取り除かれていきます。 まず第一に、事物相互の区別がはっきりしなくなってくる。 意識の表層しか活動していなかった間は、確固たるものとして現われていた事物がもの性を失って流動的になってきます。」 というのです。 そして、そこから更に 「ところが、三昧に入りますと、いままで硬く固まっていたこのものの世界が流動的になってくる。もののいわゆる本質がまぼろしのようにはかないものとなり、それらの本質の形成するものの輪郭がぼけてきます。 つまり花が花でありながら、花というものではなくなる。 鳥が鳥というものではなくなる。 こうしてすべてが透明になり、いわば互いにしみ透り、混じり合って渾然たる一体になってしまう。 そして意識の深化がもう一歩進みますと、それらすべてのものが錯綜し混じりあってできた全体が、ついにまったく内的に何もない完全な一になってしまう。 もうそこではかつてものであったものの痕跡すらありませんので、その意味で無であります。 そこではもはや、見るものも見られるものもありません。主体も客体もなく、意識も世界も完全に消えて、無を無として意識する意識もありません。」 ということになってきます。 こういう表現は、坐禅しているとまさに感じることであります。 それを井筒先生は、大乗仏教で説く「真如」「空」、禅で説く「無」であるというのであります。 片岡仁先生は、『禅と教育』の中で、 「絶対無になってみると、すべてのものがおのれと見えます。 すべてものを見るのに、ものに成り切ってしか見えないということです。 これは、ただの同情だとか感情移入だとかいうような心理的な作用とはまた違います。 感情移入というような心理学的な説明の仕方もあるでしょうけれども、その事柄それ自体は、そういう説明よりもっともとになるものです。 感情移入をする前に、われわれのこの絶対無の体験からみれば、ものと我とは本質的に繋がっているのです。 その繋がりが、実際は愛というものの根本です。 われわれの前に現われるものをすべて我として見るということは、すべてを愛することです。 自分が自分を愛するがごとく、自分以外のものが自分と同じように見えるということです。 他人が自分に見えて、自分を見るのにまた他人と同じように見える。 絶対公平に自他を見るということ、それが智慧であると同時にまた愛なのです。」 この自分だと思っていた輪郭がぼやけてきて、外の物と自分とつながっていることを体感するのである。 これが空の体験の入り口であります。 坐禅してあとに、庭に出て見ると、草や木が、自分と親しいもののように感じられることがあります。 草や木にまで声をかけてあげたくなるような気持ちになります。 草や木も、虫もみんなつながっていて、境目がなくなってくるのであります。 すべてがつながり合って、なんの境目もないのが空であります。 そうしますと、西田幾多郎先生が『善の研究』の中で、 「我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。 月を愛するのは月に一致するのである。 親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起こるのである。 親が子となるが故に子の一利一害は己の利害のように感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の一喜一憂の如くに感ぜられるのである。 我々が自己の私を棄てて純客観的すなわち無私となればなるほど愛は大きくなり深くなる。 親子夫妻の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛にすすむ。仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。」 と説かれる通りなのです。 ここに説かれている仏陀の愛は禽獣草木にまで及ぶというのが、無縁の慈悲となるのであります。 空という真理をはっきりさせることによってこそ、慈悲があらわになってくるのであります。 そうでなければ、わがまま勝手な慈悲になりかねないのであります。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺