見出し画像

確定する認識という燈明 意訳 3

上のチベット語は 亡命先のインドにある、ニンマ派の僧院ナムドルリン寺の僧院大学の5年目の授業内容の一部で、現在意訳中の「確定する認識の燈明」を学ぶ事と、その解釈書をケンポ・クンサン・パルデン師釈で学ぶと書いてあります。この論書以外にもミパム・リンポチェのテキストはよく学ばれています。ここでは9年間で様々な経論の修学をされます。英語になりますが、興味のある方は是非サイトを見に行って下さい。

namdolling.net

Ngagyur Nyingma Institute

ここから第3章です。

③空性を直接認識する禅定時に存在をどのように把握するのか  

(聖者の空の)見解で実際の禅定中の間に、ある方は「何も把握しない」と主張します 「何も把握しない」という事には 素晴らしい理解と誤った理解の2つがあります

1つ目は4つの極端な錯誤を離れた(法界に双入する本初の智慧に住する)もので 聖者の智慧の前には (錯覚よりの現れは)何もないと見るので 把握は自然となくなります 雲ひとつなく澄み渡る空を見るようです 
2つ目は(六波羅蜜をせず)何も考えない(瞑想のみで仏を目指す)禅師の一派のもので 分析せずそのままに、観(分析する瑜伽)で明らかにする部分はなく湖の底の石のように動かずじっとしています

例えば「何もない」というのも中観派が「ない」と見るのと無色界の神が「ない」とするのに言葉だけは一緒ですが実際は天と地ほど違います

そのように4つの極端な錯誤を離れたものの場合は、4つの自らの力で主体的に存在する実体・本体を持つ(存在)と把握しない事で4つの極端な錯誤(の対象)を離れ把握(するもの)がないので把握(自体)がなくなります 
もし把握がない(状態を得よう)として一部の(経論や論理を学ばず何を瞑想するのかより先に)分析せず結果を求める方は初めから何も考えないそのままの状態に入ってしまいます ほとんどの有情は普段から(4つの極端な錯誤などと)よく分析せず三界・輪廻を散歩するように転生するので今更(何も考えない事の重要性を)教えてまで勧める必要はありません 

もしこれら(経論や論理、恩師からの口伝)を知らないままに「私は本性を悟った(成就者である)」と言ったとしても(本来それには)自ら主体的な存在との(本体・実体であるという)執着を空とする心の底からの(徹底した)理解が必要です

(ある方が)「錯覚の現れは(私は私、あなたは)私ではない別の存在です」と言われてもそれは誰しも知っていますし瞑想する必要はありません
もし「心の色彩や形、心に現れる所、心からの行き先を分析して(それらが)見えず空と理解する」を知るというのも、本来はそれはもっと難解(な本性を瞑想する教え)でこの点においても誤解する可能性はとても大きいです 心は物質でないので誰であれ(心を)色彩などと見る事はあり得ません そのように見えないだけで空性を伝えた(とか理解した)と思うなら大変な誤解です 百回調べても人の頭に牛のツノ(が生えているの)は見えません それが見えないからと空を理解するというならそれは誰でも簡単です

ですので正しい論理で分析し本体をしっかり見るなら、心は幻の如く本質が真実にはないものとしっかりと知る その時目の前の空を見るように自身の心を変化しながらも空であると確定する認識で心の底から理解する必要があります

また(ある方が)「あなたの心は(澄み渡る)空のようにありますか、色々(対象を)知るものとしてありますか」と尋ねますと一時も落ち着かず動く心を誰でも持っていますので(対象を知る落ち着かない)心がありますと確実に答えます
それに対して(その方が)「(心は色や形などと)あるのでもない、(晴れ渡る空などと)ないのでもないその心(の本質)が光明であり(ゾクチェン、大いなる完成、)法身である」(など)と言います
そこでも(自身が法身を理解し)伝えていると思い込む方々は多くを学んでいなくても「一を知り全てから自由になる(光明、ゾクチェン)」を知っていると誤解しています

ゾクチェン(大いなる完成)が、あるのでもない、ないのでもないというのは、(ゾクチェン、法身は本質が空なので、あるのでもないと言い、大悲に満ちた智慧なので、ないのでもないと言うなど)4つの極端な錯誤を離れているという事なのです 
あなたがこの事をよく分析するとあると言うのが難しく、ないと言おうにも言えない、それ自体あると無い両方のものであるか、またあると無い両方でないもの、そのいずれより離れない心はあるのでもない、ないのでもないという所と知り認識します

それは「想像を超えた私」という存在の別名と言っても過言ではありません 心とそれ以外の存在全ても空と確定した上で現れは縁起の存在として生じますので、こうである・こうでないという想定を超えた4つの極端な錯誤を離れた本質、心の本性が現れます

(ゾクチェンの事をそうでなく説かれる方達は)この心はこうである・こうでないの2つを離れたと言いつつ、心の前に(心の本質、ゾクチェンが)的のようにあります(ので対象を把握しつつ、ないと思い込むという誤解があります)

自他(など)という(錯覚した)本体・実体を把握する事により(有情は)輪廻という川に繰り返し入り続けます これら(錯誤)を跳ね返し無効化するのが無我の把握です
それにはどのように本体がないのかを知らずに「無我だ」と思い込んでも効果はありません (暗い所で)縄を蛇と錯覚した時に「蛇はいない」と思い込んでも(咬まれる恐怖への)効果はありませんが、どういう事でいないかを知るとその恐怖心がなくなるようなものです 

そんな訳で分析して理解したものを(一度きり程度)分析したまま放っておかないよう、(なぜなら有情にとって)絶え間ない、存在の本体への執着はひどく習慣化しているので(無効化する為に)何度も繰り返しどのように本体・実体がないのかと瞑想する(のは必要な)事です 無我を瞑想し「私」に関する極端な見方をその根から引き抜く為にこの瞑想が必要と、無我を御覧になる方々は(一心集中の禅定を)しっかりと成し遂げました
初心者の入口として間違いないのは(空に関する経論や論理を恩師の口伝と合わせて学ぶ)この入口(のみ)ですので、初めから(何も考えさせず、経論や論理、六波羅蜜を自らも行わず、)させない(指導をする)のは(輪廻からの自由でなく、輪廻に引き留める)悪魔が唆す言葉を言っている(ようなも)のです

(逆に)その(空の)把握に導かれた究極の実体がないとする頂点の確定する認識を成し遂げた時、元々ないだけ(と把握される空性)は究極の本性ではないので、ないのに存在するとの錯誤の32を離れて「錯誤を離れた大いなる空」を瞑想する事です (それ自体で主体的に成立する)究極の実体がないと心の底から理解出来、空が縁起と現れる現れと空のいずれとも把握しない(智慧という)のは、火の中で不純物を取り除いた金のように信頼し得るものですけれども、他より本当に大変深い教え、インド・チベットの偉大な賢者が長い時間をかけ努力して理解した内容を、あゝ勝手な解釈する方が少しの時間で理解したと言うのは(私には信じられず)疑問です

(究極の智慧で直接認識する)正しい禅定において、輪廻・涅槃のあらゆる現れ全ては、(元々実体を伴う)有無を離れた存在なのが本来のあり方なので、(把握の)有無はどうしても成立しませんから、極端な存在と把握するのは錯誤です ですので(それ自体の力で主体的に成立する存在を分析する)正しい論理でよく分析する時いずれ(の極端な存在)とも成立するのは見受けられませんので、どのような把握も生じません

しかしながら「4つの極端な錯誤を離れた」あり方の分析に導かれた確定する認識よりの自生の光明の知恵で分析する瞑想はバター燈明のように(錯誤を断ち真のあり方を)明らかにします その知恵と特徴が矛盾する4つの極端に誤った心という漆黒の暗闇を引き裂く根本治療はこれであり、よく瞑想して確定する認識を生じる必要があります 「4つの極端な錯誤」を一度に止める分別心を離れた本初の(法)界は、一般人の精神状態そのものではたちまちには知り得ないので、「4つの極端な錯誤」を一つ一つ滅するのが(教えを)聞き考える見解の(確信を得る一般的な)やり方です

それに(ついて考える事で)理解が馴染んだ分、確定する認識がはっきりする事で、間違いとか「ないのに存在するという誤解」を滅する知恵が上弦の月のように増加します
「何も把握しない」という誤った見方で存在が如何様にも成立しないと見る確定する認識は生じませんから、(それでは煩悩障、所知障の)障碍を断ち得ません

そういう事で(「何も把握しない」という場合の素晴らしい理解と誤った理解の)2つの違いも、(その方の言動・行動から人柄がわかるのが、)煙があるという理由から直接見えない火があるのを知るように、(煩悩を)断つのと(実体の)理解の極まり方(は普段の姿や質問などする事)よりわかります

なんとなれば勝手な解釈する方の普通の瞑想は(煩悩を)断つのと(実体の)理解の原因にはなりません

(逆に)能力が生じる妨げですのでインドや中国のお茶の葉(のお湯に浸した茶殻の風味や旨みが抜けてしまったもの)のように経論の理解が低下し、特に(怒りや執着など)悪感情が増えます 更に(人を傷つける行動、言動が増えるなど罪悪感が減り)因果関係への確信は下がり続けます

正しい見解という眼があれば、以前にはなかった経論の理解が燃え盛り、(縁起を)空と見る効能で(善悪の)因果の縁起は誤たずといった確信より悪感情が小さく(育ち難く)なります

分析で確定する認識に導かれつつ、一心に集中する(初地などの)禅定で(縁起と空のいずれにも実体を)見ないとして見た勝義 (そこで)見た空は極端を離れ少しも把握する対象がないでしょうから、(詳しい食リポを出来ない)人が黒糖を味わうように(4つの極端な錯誤を離れた法界に双入する本初の智慧への)確信は(一心集中の禅定に)習熟した瑜伽行より(法悦を)生じ、分析からのみではありません

空性を直接認識する禅定時に存在をどのように把握するのかの章・終

インドからチベットに伝わった文化である「仏教」を仏教用語を使わず現代の言葉にする事が出来たら、日本でチベットの教えをすぐに学べるのに、と思っていた方。または仏教用語でもいいからチベットの経典、論書を日本語で学びたい方。可能なら皆様方のご支援でそのような機会を賜りたく思います。