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# ボート

君は知っているか、
夜が何処からやってくるのかを。

君は知っているか、
海が何処にあるのかを。

時計の針が重なり合ったところから、
誰かがレコードの再生ボタンを押したところから、
街灯が消えて、
通りに誰もいなくなったところから、
夜はやってくるのかもしれない。

ソーダ水を注いだ真夏のグラスの中に、
ポーランド人の深い悲しみの中に、
病床の母の胸の中に、
海はあるのかもしれない。


夜は、
僕たちをほんの少しだけ終わりに近づける。

海は、
僕たちにささやかな生の気付きを与える。


いつか、夜の海に溺れてみたい。
ボートに寝転がって、
一晩中、波に揺られてみたい。
そんなことしてどうなるかは分からない。
おそらく意味なんてない。
でも、それをしないことで失われている何かもあるんじゃないかと、最近そう思うんだ。

彼は矢継ぎ早にそう言うと机上の伝票を取り、
わたしの顔を一度だけ時間をかけてじっくりと見て、
すぐに夜の雑踏に消えていった。

後には二つのコーヒーカップが残った。
彼が飲み干して空になったものが一つ。
わたしのはまだ少しコーヒーが残っている。
真っ暗な水面がそこで少し揺れている。

君は友の、澄み切った空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。みずからを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができる者は少なくない